「種蒔きのたとえ」
説教集
更新日:2024年09月07日
2024年9月8日(日)聖霊降臨後第16主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村満
マタイによる福音書 13章1節~9節
13:01 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 02 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。03 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。04 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。05 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。06 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。07 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。08 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。09 耳のある者は聞きなさい。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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皆さんもよく知っておられるのではないかと思う、主イエスのたとえです。これまでの信仰生活の中で、何度も読み、説教も聞いてきたのではないでしょうか。わたしなどは、子供の頃に、教会学校で、このたとえの紙芝居を聞いて、自分は、御言葉を聴いて実を結ぶものだろうか。それともどうだろうか、などと、漠然と考えたように思います。とても視覚的にイメージしやすいたとえであると思います。また、主イエスが何をここでおっしゃっているのかということがよくわかるのです。他のたとえ。新しい葡萄酒は新しい革袋に、とか。不正な管理人のたとえに比べて、わかりやすいと思います。このたとえの後に、主イエスはわざわざ弟子たちにそのたとえの説明さえしておられるからです。このたとえ話そのものをまず聞いていきたいのです。
4種類の土地に落ちた種があります。一つは道端に落ちた種。ちゃんと畑の土に落ちなかった。そして鳥が来て食べてしまいました。実は実りませんでした。もう一つの種は、石だらけで土の少ないところに落ちた。土が浅いのですぐに芽を出したが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。そして茨の間に落ちてしまった種。これは、茨が伸びてそれをふさいでしまいました。最後に、良い土地に落ちた種は、実を結んで、それぞれ、百倍、六十倍、三十倍と、大きな実を結んだとあります。最後に主イエスはこう言われます。「耳のある者は聞きなさい。」ここで、一番大切なこと。それはやはりこの主イエスの「耳のある者は聞きなさい」という御言葉ではないか、と思います。そして、果たしてわたしたちに、この、主イエスのたとえを聞き、悟る耳はあるだろうか。主イエスの御言葉を信じて従う信仰の耳はあるだろうか。そのように問われているのだと思うのです。
主イエスはこのあと弟子たちに言われました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている。」弟子であるあなたがたは、天の国の秘密を悟ることが許されている、とおっしゃるのです。しかし群衆には許されていない、とも言われます。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」この主イエスのたとえは、わかりやすくするためではなく、信じない人たちを、そのままにしておくために語られた、そのようにも受け止められます。とても厳しい、信じない人々への裁きが既に語られているともいえるかもしれません。しかし主イエスは、本当に、信じない者をすぐにお見捨てになるような方なのでしょうか。そうではなく、信じない者たちに、それでも、信じる者となりなさいと言っていつまでも招き続けてくださる方なのではないでしょうか。そして、神の言葉を語り続けてくださる。その神の言葉は、信じない者であったわたしたちの心に何度も何度も蒔かれて、少しずつ、小さな芽を出し、信仰が与えられていったのであります。
「耳のある者は聞きなさい」と主イエスは言われますけれども、本当は、最初から聞く耳のあるものなどはいないのです。初めから、良い土地である者などはどこにもいないのだともいえるのです。それがわたしたちの心の現実です。その意味においては、誰もが、最初は石だらけの土地であり、茨の茂った土地なのではないでしょうか。しかし、その私たちの頑なな心の石を取り除きながらも、何度も何度も御言葉の種を蒔いてくださり続けている。私たちの心の茨を取り除きつつ、何度も御言葉の種を蒔き続けてくださっている。その主イエスの恵みの御業のゆえに、今、ここで、御言葉を聴く耳を与えられてここにいるのではないでしょうか。
この御言葉はただ、御言葉を聴く人と、聞かないで、実を実らせない人という区別をしているだけでなくて、わたしたち、信じた者の内にも、良い土地の場所もあれば石地もあり、茨の土地もあるのではないかと思います。確かにわたしたちは、福音を信じて救われていますが、なお、受け入れられていない御言葉があり、捨てきれていない罪があり、清められていない部分があるかもしれません。そこを主イエスが耕してくださり、もっと深く実が実るように、良い土地にし続けてくださっているともいえるかもしれません。30倍の実りしかない現状を、より良い土地にして60倍にしようとしておられるならば、主が耕してくださっている心を、閉ざすことなく、わたしたちは神にゆだねて、主にその心を支配されていくように願わなければなりません。主が、救われた者を、より良い実りを得させようと日々種を蒔き、水をやってくださっている。それがわたしたち教会です。主の恵みの畑の実りとされていることを心から感謝していきたいのです。
祈り
天の父なる神様。 わたしたちの心に御言葉の種を蒔いてくださり、実りを与えてくださるものとしてくださいました幸いを心より感謝いたします。主が私たちの内に蒔いてくださった御言葉がますます成長し、私たちの心に豊かな実りを与えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン