「あなた方の手で与えなさい」
説教集
更新日:2024年09月21日
2024年9月22日(日)聖霊降臨後第18主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書14章13~21節
13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのぱンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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「5千人の給食」と呼ばれる聖書箇所は、4つの福音書全てに記されている御言葉です。5千人の給食に大変似ている聖句がマタイ福音書とマルコ福音書に記されています。それは「4千人の給食」です。5千人の給食と4千人の給食の御言葉の違いは、人数の違いだけではありません。最も大きな違いは、食事を摂っていない群衆を心配したのが、主イエスだったのか弟子たちであるかの違いです。マタイでもマルコ福音書でも4千人の給食の記事では、主イエスが「群衆がかわいそうだ」と心配しています。しかし5千人の給食では、弟子たちが群衆を心配して群衆を「解散させてください」と主イエスに伝えています。4千人の給食では主イエスが直接群衆に対して「かわいそうだ」と語っています。しかし、5千人の給食では主イエスの弟子たちが「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と群衆が空腹であることを主イエスより先に心配して、解散することを提案しているのです。
4千人の給食では主イエスが心配し、主イエスが主導して、パンの数、小さい魚を確認して、祈り、弟子たちに食べ物を配らせました。
5千人の給食では、弟子たちが群衆を心配し、主イエスがあなた方の手で食べる物を与えなさいと命じて、弟子たちがパンと魚を見つけ出しました。そして、主イエスが食べ物を手に取って祈り、弟子たちに渡しました。弟子たちがパンを群衆に与えました。
マタイとマルコ福音書が5千人の給食の記事のすぐ後に4千人の給食の記事を置いているのは、一見同じような内容ですが、その違いを大切にして、それぞれの意味を伝えようとしているからだと思われます。
4千人の給食では、主イエス自ら群衆を憐れんでくださり、主イエスが群衆を満たしてくださることに光が当てられています。対して5千人の給食では、弟子たちが群衆のことを心配していることを主イエスが受け止めてくださり、主イエスが弟子たちと僅かな食物を用いて、群衆を満たしてくださったことが語られています。
二つの給食の記事には、直接主イエスが心配したことと弟子たちの提案があった事の違いがありますが、共通点もあります。それは、主イエスが「大勢の群衆を見て深く憐れ」まれたという御言葉に表されている、主イエスの深い憐れみです。もう一つは主イエスの祈りです。群衆を草の上に座らせて、食物を手にして「天を仰いで賛美の祈りを唱え」た祈りです。主イエスの憐れみの祈りは、数千人の群衆を満たして余りある恵みでした。
4千人の給食と5千人の給食の違いと共通点を通して、私たちが受け止めなければならない大切なことが明らかになると思います。それは、主イエスが直接群衆を心配してくださることもありますが、弟子たちを通して主イエスが憐れんでくださる救いの道もあることです。そして、主イエスの深い愛による憐れみと祈りに支えられて、私たちが手にしている僅かなものを主イエスが用いてくださり、主イエスが群衆を前に祈ってくださり、数千人の人々を満腹にしてくださるという主イエスの救いのご計画です。主イエス・キリストが女性と子どもたちを別にして男だけで5千人もの群衆を、5つのパンと二匹の魚で満腹にされました。そして余ったパンは12のかごいっぱいになったという奇跡が行われました。主イエスが弟子たちを用いて行われた愛の御業は、主イエスがお語りになった神の国、天の国がここに広がっていることを伝えています。私たちは主イエスがこれまで語られた天の国、神の国が今ここに実現していることを見るように導かれています。
マタイによる福音書14章は、洗礼者ヨハネが領主ヘロデの手によって殺害され、ヨハネの遺体を引き取って葬った後、それらのことをヨハネの弟子たちが主イエス・キリストに報告したことからはじまっています。洗礼者ヨハネの死の報告を聞いた主イエスは、ヘロデに仕返しをしたとかヘロデを恨んだとかそのようなことは記されていません。そうではなく、主イエスは13節に記されているように「13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」 主イエスはヨハネの死の知らせを聞いた後、人里離れた所に退かれたのです。主イエスはひとり静かに祈りの時をもったのです。洗礼者ヨハネが召天したことを覚えて、祈っていたのです。このヨハネの死を悼む祈りの場に群衆が押し寄せました。そして、その群衆を主イエスは「深く憐れ」まれ、その中の病人を癒やされました。
5千人の給食における力は、ヨハネの死をもたらしたヘロデの権力のような力ではないし、ヨハネの弟子たちの絶望でもなく、神の国、天の国をもたらす力であることを伝えているのではないでしょうか。ヨハネによる福音書12章24節の御言葉にあるように、ヨハネの死が多くの実を結んだことを私たちに伝えているのではないでしょうか。
ヨハネ 12:24 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
主イエスはヘロデに対して、ヨハネの敵討ちを計画しませんでした。ヘロデを相手にしていません。そうではなく、神の国、神の恵みの御支配を群衆にもヨハネの弟子たちにも示されたのです。そのために、主イエスは、弟子たちの提案である「群衆を解散させてください」という考えを退け、弟子たちに「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とお語りになったのです。この聖句は聖書協会共同訳では「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」と翻訳されています。「あなた方の手で」神の国を現しなさいとお語りになっているのです。ヘロデの手ではなく、神の国を信じて望み見るあなたの手で食べ物をあげなさいと命じてくださったのです。
神の国は、主イエスお一人でつくられたのではありません。主イエスが弟子たちをご自身の祈りの場へつれて行ったように、主イエスは私たちを祈りに招き、私たちの手を用いて、神の国を実現させてくださるのです。
主イエスは私たちの手の中には僅かのものしかないことをだれよりも良くご存じです。
その上で、主イエスは「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」と命じるのです。弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と正直に答えました。主イエスは私たちの手の中にある「パンと魚」を用いてくださいます。主イエスは、「それをここに持って来なさい」と命じました。そして、群衆を草の上に座るように命じます。そして、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」聖書はヘロデが洗礼者ヨハネを殺害した王の権力と対照的に主イエスによる神の国を実現する力を記しているのです。
主イエスは、群衆を憐れみ愛してくださり、弟子たちの手の中にある僅かの食べ物を用いて神の国を実現してくださるのです。洗礼者ヨハネの死は無駄な死ではなくなりました。主イエスが洗礼者ヨハネを覚えて、神の御業を現してくださいました。洗礼者ヨハネの死によって多くの実が結ばれたのです。
溢れる恵みによって大群衆が満腹しています。満腹した群衆はどうしたでしょうか。主イエスが「天を仰いで賛美の祈りを唱え」とあるように、満腹した群衆は神を賛美したのではないでしょうか。私たちの礼拝は、5千人の給食を実現した主イエスの憐れみによって実現しているのです。私たちの礼拝と主イエスと弟子たちによって行われたこの奇跡の力と無関係なはずはありません。主イエスはヨハネを悼みつつ、天を仰いで賛美したように、この礼拝においても賛美の祈りを与えてくださるのです。
無力な私たちです。しかし、諦めてはなりません。主イエスは無力な私たちを用いてくださいます。私たちは主イエスを信頼して、無力なままで御前に立ち、主イエスのお言葉に従うのです。「それをここに持って来なさい」とお語りになる主イエスの言葉に従い、私たちの手にある「パンと魚」を主の御前に差し出し、祈っていただきます。主のみ声に従い、共に神の国を見るものとされるのです。
12の籠(かご)の意味は12弟子、12部族と対応する数字です。12人の弟子たちがパンと魚を配りました。そしてその残りを集めました。12という数字は神の民イスラエルの部族の数でもあります。12弟子、12部族は、新しいイスラエル、すなわち神の教会を指し示していると理解することが出来るのです。主イエスは、弟子たちの手を用いたように、私たちの手を用いてくださいます。すなわち、教会を用いて、神の国を現してくださるのです。この恵みを感謝して教会生活を通して神の国を仰ぎましょう。