「あなたの信仰は立派だ」
説教集
更新日:2024年10月05日
2024年10月6日(日)聖霊降臨後第20主日 銀座教会・新島教会 世界聖餐日 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書15章21~28節
21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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主イエスは弟子たちとともに「ゲネサレト」というガリラヤ湖カファルナウムに近い町を離れ、隣りの国フェニキアのティルスとシドンに行きました。この移動はユダヤの地から国境を越えて、異邦人の国へ出かけたことになります。主イエスと弟子たちが、ユダヤを離れティルスとシドンに出かけた旅の目的は聖書には記されていません。しかし、結果的には、異国の地において出会った一人の女性に会うための旅になりました。主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖畔だけでなくどこに行っても福音伝道に生きているのです。
都市国家フェニキアについては、使徒言行録21章に使徒パウロが船でフェニキアのティルスの港に行った事が記されています。マタイによる福音書が記している大切なことは、ユダヤを離れて隣国フェニキアの町にも、主イエスに助けを求める人がいたということです。この地に生まれたカナン人の母親が娘のために主イエスを「主よ」と呼んでいるのです。聖書によれば主イエスがフェニキアの地に出かけてたのははじめてのことです。マルコによる福音書7章にも並行記事が記されています。マルコ7章では、この母はカナン人ではなくギリシャ人と記されていますが、いずれにしても、主イエスがユダヤの人々だけでなく、初対面の一人の女性から助けを求められるほど、知られていたのです。
しかも、この母親が主イエスを「ダビデの子よ」と呼んでいることは、主イエスのことを軽蔑することなく、ダビデの子という尊称を用いているということは、ユダヤ人がダビデを尊敬しているようにこの母親もユダヤ人のように振る舞っていることを表現しています。フェニキアのカナン人が初対面の主イエスをダビデの子よと呼ぶことはめったにないことです。そして、この母親は「わたしを憐れんでください。」と叫び続けているのです。隣国の地で主イエスと出会うことを求めていたということ自体が特別な事ですが、この母の心が主イエスによって受け止められました。この一人の母親はフェニキアの地で主イエスを待ち望んでいたのです。そして、この母親は、待ち望んでいた主イエスにお会いする絶好の機会が与えられたのです。この母親にとって主イエスは単に特別なお方として理解していただけでなく、主イエスこそキリスト、救い主と信じて待っていたのです。
この母親は、悪霊に苦しめられているわが子を助けられるのは、フェニキアの神々ではなくユダヤから来られる主イエスだけだと信じていたということではないでしょうか。さらに深読みするならば、主イエスはこの母親の心をすでにガリラヤ湖にいた時に受け取っていて、そして隣国のティルスとシドンに出かけたと考えられるのではないでしょうか。
この母親に出会った主イエスは、すぐにその娘を癒やされませんでした。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」という23節に記されている言葉を私たちはどのように理解したら良いでしょうか。主イエスの沈黙です。沈黙する主イエスのお姿を見て、弟子たちは主イエスがこの母の叫びをうっとうしいと思っていると理解したようです。弟子たちは叫びながらついて来るこの母親を追い払うように主イエスに願いました。主イエスの沈黙は、弟子たちに主イエスの御心を伝えるための沈黙だと理解できます。弟子たちの予想とまったく違って、主イエスはこの母親を追い払うことなく、この母親に声をかけました。それが、24節です。「24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。」
本日の御言葉の最も理解が難しいことは、24節の主イエスが沈黙を破ってこの母親に語った言葉です。この御言葉をどのように理解し解釈するかで、本日の聖書箇所の理解は大きく変わってしまうでしょう。
例えば、主イエスが伝道のためではなく休息のためにフェニキアに来て、休息できなくなりそうな事態に直面して、何度もこの母親の求めを断ろうとしたのだと理解することも出来るかもしれません。そのように読むことの方が自然ではないかと受け止められるからです。しかし、主イエスは休息を邪魔されて、この母の求めを断ろうとしたのなら、この母親と初めからかかわることなく、弟子たちの言葉によって追い払うこともできたと思います。主イエスが母親を追い払わなかったのは、初めからこの異邦人の母親を主イエスが憐れんでくださっていたからではないかと思います。主イエスは、この母の顔も言葉もそのしぐさも、追いかけてくる姿もすべて見つめ続けているのです。主イエスは単なる意地悪な言葉ではなく、この母親とともに大きな隔ての壁を乗り越えるために、共に訓練を実施している出来事として読むことが出来ると思うのです。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉の意図は何なのでしょうか。それは、主イエスがこの母親に対して、国境の壁、異邦人とユダヤ人の悪い関係を理解し、乗り越えようとしているのです。ユダヤ人に癒やされて生きていく、その後の彼女らの人生を共に考えているのではないでしょうか。いろいろな注解書を調べても説得力のある解釈を見つけることが出来ませんでした。しかし、主イエスが沈黙して国境の壁、異邦人への壁を乗り越えさせ、同時にこの母親が主イエスによって娘を癒やしてもらうということは、今後フェニキアで生きていくこの母と娘の人生が主イエスとの深い絆で結ばれることになることを確認しているのです。神の恵みと信仰の筋道を教え、彼女たちへの配慮とともに自覚を促しているのではないかと思うのです。
ですから24節の御言葉は、主イエスが決して母親を追い払うことを想定して語ったのではなく、主イエスがたとえ異邦人であっても主イエスを信じて、救いを求める者には、真剣に関わってくださるということを伝えているのです。そのように解釈すると、26節の御言葉が主イエスを救い主と信じる者がたどる大切な段階であったり道であること解釈することが出来ると思うのです。
「イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお語りになったのは、主イエスがこの母親に対して、神とあなたがどのような関係なのかを考えさせている言葉だと思うのです。母親に対する主イエスの言葉は、信仰の確信、主イエスと私の関係がどのような関係なのか、理解し考える時間を与えているということではないでしょうか。
この母親は、主イエスと一対一で問答をしているのです。見方を変えれば、こんなに恵まれた学び舎はありません。本来、この母親がガリラヤ湖の主イエスのもとへ行くべきですが、主イエスの方がこの母親のところに訪ねて行って、主イエスが一対一の対話をする機会を与えているのです。主イエスは母親の理解や考えをしっかり受け止めてくださってユーモアをもって対話しているのです。なんと恵まれた女性でしょうか。
私たちもこの物語の中で母親になって主イエスと一対一で対話をすることが可能なのです。主イエスの招きと憐れみの心をしっかり受け止め、私たちが信仰を与えられるとき、その決断を支えてくださる主イエスの深い憐れみをゆっくりじっくり受け止める時が与えられているのです。この礼拝こそがそのような時です。
この短い御言葉は、ある意味で志願者が洗礼準備する時の要点を教えていると理解することが出来るのではないでしょうか。私たちは、主イエスがお語りになるように、生まれながらの神の民ではありません。実はこの地上には生まれながらの神の民は一人もいないと思います。私たちは皆、神の子どもたちのパンをそのままいただく身分も資格も相応しさも持ち合わせていないのです。しかし、ただただ主の救いを待ち望み、神の憐れみをいただけると信じて主イエスの前に立っている者なのです。
牧師の息子だから、立派な教会員の子どもだからとか、教会で生まれ育ち、熱心な信仰者の家庭で育ったから、生まれながらの神の子であるかとというとそんなことはまったくありません。主イエスの御前で特権を持つ者は一人もいません。その意味では、主イエスの問いの前に立つこの母親と私たちは同じ立場にあるのです。主イエスがお語りになる、救いの招きを賢くしっかりと受け止めなければなりません。大切なことは、自分は初めから生まれも育ちもキリスト教には向いていないとも考えてはならないことです。また、主イエスが犬扱いしていると、短絡的な怒りで受け止めてはならないことです。そうではなく、神の憐れみの広さ深さを主イエスの御言葉に探しだし受け止めるのです。
この母親は、賢く主イエスの愛と憐れみをしっかりと受け止めながら、主イエスの質問を聞き、答えました。それが27節です。「27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」」
神の恵みはどんなに小さなものであっても、私たちにはあまりある大きな恵みなのです。主人の食卓から落ちるパン屑とは、神の憐れみによる命のパンです。主イエスはこの母親が神の恵みにあずかることをしっかり受け止めていることを確認して問答を閉じました。
28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
主イエスはこの母親の信仰を確認し、この母親が口先だけでなく主イエスを通して神の恵みに与るに相応しいと判断してくださいました。「あなたの信仰は立派だ」このような言葉をいただいた人は弟子たちの中にいたでしょうか。
私たちは苦しい時だけ神さまにより頼み、苦しさが過ぎたら、神から離れてしまうような、神を神と思わないような者です。神の御言葉によって鍛えていただかなければ、自己都合で癒やしてもらったら、さようならしてしまうような無礼者です。信仰をアクセサリーとして、自分を飾るためのモノとしてしまう自己中心な者です。しかし、主イエスが関わってくださり、この問答によって、神のパン屑だけでもいただけるならば、生きることが出来ると、神の恵みと信仰を受け取るように導かれます。神の恵みと信仰をいただくならば、娘の苦しみも受け入れることができるようになるのです。
主イエスは、自ら私たちのそばに来てくださり、救いを求める私たちを吟味してくださり、私たちの言葉、仕草、行動をしっかり見てくださり、信仰と恵みをくださるお方なのです。「そのとき、娘の病気はいやされた。」溢れる恵みに感謝します。