「ペトロの信仰告白」
説教集
更新日:2024年10月12日
2024年10月13日(日)聖霊降臨後第21主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満
マタイによる福音書 16章13節~20節
16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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主イエスが、フィリポ・カイサリア地方に行ったときのことです。主イエスは弟子たちに尋ねます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」すると弟子たちは、口々に答えました。「『洗礼者ヨハネだ』という人も『エリヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」弟子たちは、自分の先生が世間でどう思われているのか。どう言われているのか。あらゆるところで聞いていました。その、言われていることを伝えることには口がなめらかに動きます。洗礼者ヨハネの再来と言われることも、偉大な預言者エリヤだと言われることも、弟子たちにとって嬉しいことであったことでしょう。世間も、主イエスがなさった奇跡の業や神の国を宣べ伝える素晴らしい御言葉を聞いて、この人は只者ではないと考えていた。そのような教師にわたしたちはついて言っているのだ。そう思うと、彼らもまた誇らしい気持ちになったでしょう。主イエスは、しかし、世間が考えているように弟子たちが考えてほしくはないのです。洗礼者ヨハネも、エリヤも、確かに偉大な人物です。でも、主イエスは彼らよりも偉大なのです。ヨハネも、エリヤも、主イエスを救い主だと指し示すために遣わされたに過ぎないのです。主イエスは改めて問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」主イエスは弟子たち一人一人に問われます。
きっと、一瞬、弟子たちの間に沈黙が流れたのではないでしょうか。どのように答えればよいのか、彼らもわからなかったかもしれません。世間の人々と同じように考えていた弟子もいたかもしれません。まだ、彼らにも、主イエスが誰であるのか。よくわかっていなかったと思います。
しかし、その沈黙を破るように、ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」すると、主イエスは喜んでお答えになりました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」主イエスは、シモンのことを幸いだと言って祝福されました。なぜなら、このペトロの信仰告白こそが、主イエスが望んでおられた、初めての、主御自身への信仰告白であったからです。ここに、初めて、人間の言葉。人間の口をもって、ナザレという町に育った人。イエスという人が、神の御子であられるという明確な答えが語られたからです。
そしてこのペトロが幸いである理由を語られます。それは、あなたにこのことを現したのは人間ではなく、天の父であると。そのように語られたのです。ペトロは、自分の霊性の力とか、自分の内から湧き出る思いによって、イエスがメシア。救い主であると告白したのではないのです。そうではなく、ペトロに、このような信仰をお与えになったのは、天の父なのだ。そのように、ペトロは、神に愛され、初めての人間の、キリストへの信仰告白をするように召された。だからこそ、あなたは幸いだ。そう主イエスは言われたのです。そして、わたしたちもまたそうなのです。
この中には、洗礼を受けるときに、信仰告白をされた方もおられれば、まだ幼かった時に幼児洗礼を受けて、その後、学生や社会人になってから、信仰告白をされた、という方もおられると思います。しかし、わたしたちもペトロと同じように、天の父によって聖霊が与えられて、それゆえに、信仰告白ができるようにされたのです。イエスが救い主であると、信じることは、聖霊によらなければ絶対にできません。本当は信じていないのに、信じていると嘘をつくことはできるかもしれません。しかし、本気で信じていなければ、毎週礼拝をささげるなんて決してできません。よく、こういうことを言う人がおられます。「わたしは明確な、神様がわかったというような体験をしたことがない。だから、わたしの信仰はまだ未熟なのではないだろうか。」そんなことを言う方がおられます。でも、イエスが、私たちの主であること。わたしたちの罪のために死んでくださり、よみがえってくださったことを、信じられるならば、それこそが聖霊による信仰体験なのです。御言葉を聞いて、心からアーメンと言えるならば、わたしたちの心にはいつも聖霊なる神が生きてくださっているのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一12章3節)そうであるなら、わたしたちもまた、ここでペトロと同じように主イエスに祝福されています!「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天の父なのだ。あなたは天の父の恵みの下にもうすでに生かされているのだ。だから安心しなさい。」わたしたちはいついかなるときにもそのように語りかけられているのです。
しかし、ここで大切なことは、このペトロが一番最初に、ナザレのイエスを、神の御子。まことの救い主、と告白したこと。そして主イエスが、このペトロの信仰告白を土台として、御自身の教会を建てると言われたことであります。主イエスが語られた言葉を聞いていきましょう。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」大切なことは、ペトロ自身が岩なのではないのです。そうではなくペトロを通して告白された、あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白が岩なのです。この信仰告白を通して主イエスは、この地上に教会を設立すると宣言してくださったのです。教会を建てたのは誰か。主イエス・キリストです。だからこそ、教会は、いつの時代であっても、主イエスのものであり、主イエスの御支配の下に、そしてこの信仰告白を土台としていく中で、建てられていくのであります。そして、この教会の信仰は、陰府の力も対抗できない。すなわち、死の力を越える命だということです。私たちはイエス・キリストの十字架と復活に陰府の力を越える永遠の命があると信じます。だからこそ、わたしたちがこの教会の信仰に連なり、告白することはわたしたちの新しい命の始まりなのです。
私事で恐縮ですが、私が、神様を信じよう。信じたいと心から願ったその最初の動機は、死への恐れというものがありました。子供の頃です。確か、幼稚園だったか、小学校に入ったばかりだったか忘れましたが、死ぬということがとても恐ろしいと感じた時がありました。なぜそんなに死を恐れたのか忘れました。あるいは、その当時に流行っていた、ノストラダムスの大予言などという世界の終わりをおどろおどろしく語るものを聞いたせいかもしれません。あるいは、小学校2年生のときに死に別れたその、父親の死という経験であったかもしれません。とにかく、いつか自分は死ぬ日が来る。あるいはこの世界が戦争か、何かひどいことでどうしようもなくなる日が来る。その時、自分にすがるものがあるか。もしあるとすれば何だろうか。自分の力か。財力をためて核シェルターでも作って生き延びられるだろうか。そんなことを子供ながらに考えた結果、たどり着いた答えは、神様を信じるしかない、ということでした。そういう結論にたどり着いたのは、生まれた時から、母親に連れられて通っていた教会学校のメッセージだったと思うのです。私は教会学校の先生が語る説教を全然聞かない、いい加減な子供だったと思いますが、それでも聞いてないようで大切な御言葉は頭に入っていたように思います。神様の国。イエス様が共にいて、助けてくださること。死んでも、死が終わりじゃないということ。それは子供でも分かるのです。そして、それこそが人間にとって本当に、大切なことであり、慰めなのだ、ということは小学生でも理解できるのです。この、死という力を。陰府の力を越える救いの力を、教会はイエス・キリストによって与えられている。わたしたち一人一人が、イエス様こそが、死の力を打ち砕いてくださったまことの神様です!と告白するところに、確かに天国の門が開かれているのです。
主イエスは、続けて言われます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」解く。つなぐ。この意味を簡単にお伝えしますと、つなぐ、とは有罪と宣告して、罪を赦さないこと。解くとは、罪の赦しを宣告し、釈放することです。ここでわかりますことは、罪こそが、天上とわたしたちを隔てていたということであります。死の棘は罪である。その死の棘を取り除かれた死を、わたしたちは死ぬのです。なぜなら、イエス・キリストを信じるとき、わたしたちは誰でも、罪の力から解かれた。解放されたからです。だから死の向こうに陰府が待っているのではない。死が最後の扉ではなくなりました。死が、永遠の命の扉となった。死に際してもなお、キリストを仰ぎ、御国を待ち望むものとされたのです。主イエスの十字架が、わたしたちの棘を全て取り除いてくださったからです。私たちが、イエス・キリストは主です。わたしたちの救い主ですと告白する時、その救いとは先ずもって、罪と死からの救いであります。そしてそのような信仰告白をするとき、私たちの心からその告白が出てくるのではなく、神が私たちをとらえて、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えてくださった。その恵みに立たせてくださったからこそ、わたしたちはこの教会の信仰に立つことができるのです。
教会に与えられている鍵の権能。それは、わたしたちと天上を結びつける権能です。イエス・キリストの救いを伝える。この地上にいながらにして、天上の命。永遠の命を与えられて、神の国の御支配の中を生きるものとされていく。それこそが、信仰の喜びです。この御言葉は、全ての人々を、ペトロと同じ信仰の告白へと導いています。だからまだ、信仰を告白していない方々は今日、このことを深く受け止めてほしいのです。あなたにとってイエスとは誰ですか?他の誰でもない。あなたにとってイエスとは誰ですか。そのことを問われていることを。あなたが今日、イエス・キリストを、真の人生の主として。あなたの罪を全て、あのゴルゴダの十字架で負って死んでくださった方として、感謝して信じること。そしてペトロと同じ告白を、共に告白し、わたしたちと一緒に、主にある兄弟、姉妹となって歩んでいこうではありませんか。お祈りをいたします。
天の父なる神様。わたしたちもペトロと共に、告白します。「あなたはメシア、生ける神の子です。」この信仰の告白をわたしたちの口にお与えくださった幸いを心から感謝いたします。生きるときも死ぬ時も、この告白を喜びをもって毎日告白し、そしてこの告白に生きる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン