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銀座の鐘

「私たちの罪を担ったキリスト」

説教集

更新日:2024年10月27日

2024年10月27 日(日)聖霊降臨後第23主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝  牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一2章21~25節

 「教会歴」の古いものを見ますと、「主の同情」とか「主の憐みの心」(Misericordias Domini)という日があります。私たちの教会歴では復活節第三主日に当たる日です。今朝の聖書箇所は、その「主の同情」「主の憐みの心」の日に読まれる箇所として揚げられています。主イエス・キリストの憐み、そして主イエス・キリストの私たちに対する熱い、そして深い同情が、この箇所に語られていると言われます。ここには主の十字架のことが記され、その意味、その効力が告げられています。「福音」が鮮やかに語られていると言ってもよいでしょう。
  21 節に「キリストがあなたがたのために苦しみを受けた」と言われ、さらに「十字架に架かって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」と言われます。これこそ「福音」でしょう。私たちのため、つまりはこの私のために苦しみを負われた方がいるということは、並々ならないことです。苦しむ子供のためにその苦しみを負いたいと願う親はいるでしょう。しかしどんな親にも人間の限界があって、それぞれ自分の苦しみを負うだけで、子供の苦しみを負うことはできません。
 主イエス・キリストはわたしたちのために苦しみを受け、わたしたちの罪をその身に担ってくださいました。それで、私たちは罪に対して死んで、義によって生きるようになったと言われます。これが主イエス・キリストの福音です。信仰はこの福音を信じることです。キリストがわたしたちのために苦しみ、十字架にかかってその身に私たちの罪を担ってくださった。私たちもキリストと共に罪に死に、キリストと共に義に生きる。それが救いにあずかることです。
 ペトロはこの福音を正しく伝えるために、特にイザヤ書 53 章に預言された「苦難の僕」のテキストを引用しながら、「苦難の僕」に期待された神の救いが、主イエス・キリストによってさらに深い意味で成就したことを語りました。
 ペトロは特に主イエスの「二つのこと」を強調します。一つは「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」という事実です。イザヤ書 53 章では「彼は不法を働かず」と預言されています。しかし単に法に背かなかった、不法を働かなかっただけでなく、それも含めて、主イエスは一切の「罪」を犯していない、主イエス・キリストの「無罪性」と言われます。それを語ります。そしてもう一つは、「ののしられてものしり返さず、苦しめられても人を脅さず」。十字架を前にしての主イエス・キリストの深い「沈黙」を語ります。主イエスの無罪性と沈黙、この二つが注目されます。
 まず、主イエスは罪のないお方でした。それにもかかわわらず、極悪人の処刑である十字架にお架かりになりました。罪がない、つまりキリストの無罪性というテーマは、福音書の中にも証言されています。犯罪人を十字架につける権限を持っていたのは、ローマの総督であったポンテオ・ピラトです。しかし彼は主イエスを十字架に架ける理由がないのを知っていました。主イエスを訴えた祭司長や律法学者たちもみな、十字架にかける根拠となる罪を指摘することができませんでした。ルカによる福音書は、共に十字架に架けられた人の口で証言しています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」(ルカ 23・41)。
 主イエスの無罪性は、深い意味をもっています。主が十字架にかからなければならなかった理由は、主イエスにはなかった。それではなぜ十字架にかかられたのか。罪なき方の十字架は、それだけ一層深い苦しみではなかったかと思います。主の無罪性は、主の十字架が主御自身のためでないことを示し、それでも神の御意志に従って、「私たちのために苦しみ、わたしたちの罪を担ってくださった」のだと告げられます。罪のないキリストがその十字架によって私たちの罪を負われた、それによってはじめて私たちは、神の義と神の愛を知り、自分の罪の重さ、深刻さを知るわけです。
 神の愛を知るということは、主イエスがその十字架にかかって、私たちのために苦しみ、私たちの罪を担った、その主の愛、主イエス・キリストの憐みを知ることですが、同時にパウロが言う様に、神が「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ 8・32)と知ることです。主の無罪性は、十字架に苦しまれた御子なるキリストの愛と、そのようにされた神の愛を指し示します。
 そしてもう一つ、ペトロは主イエス・キリストの「沈黙」に注目します。主イエスは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」、沈黙のうちに、十字架におかかりになりました。それはなぜだったのか。弱い人間がただ黙秘しているのではありません。そうでなく主イエスの沈黙は神に対する「信頼」の表われでした。主イエスの沈黙は、神への信頼、しかも模範的な信頼の強さの表現です。主の沈黙は「正しくお裁きになる方」、真の審判者である神に、そしてその神の審判に身を委ねています。そういう神に対する信頼の表現として主イエスは深い沈黙の時をもったのです。ですから、主イエスはピラトや大祭司カイヤファに裁かれることを重大なこととは思っていませんでした。そうでなく本当の審判は神の正しい裁きであり、神が正しく審判されることに沈黙をもって信頼し、委ねたわけです。
 主イエスの無罪性と神の審判への信頼の沈黙があって、主の十字架は主イエスと天の父なる神との共同の出来事になっています。主イエスは神の御前で、私たちのために、私たちの苦しみと罪を負われたのであり、神は私たちのために、私たちが負うべき苦しみと罪を主イエスに負わせになりました。
 そのようになさった目的は,「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」であり、「そのお受けになった傷によって、いやされる」ためです。
 神の御子である主イエス・キリストが私たちのため苦しみ、私たちの罪を担われたということは、何度も繰り返し、思い起こされるべきことです。そしてそれを思い起こすたびごとに、私たちの苦しみは神の御前で主イエスの十字架によってすでに負われた苦しみであること、そして私たちの罪はすでに神の御前に主御自身の身に担われ、その結果赦された罪であることを思い起こします。ですから、どんな苦しみも私たちの罪の報いではありません。不当な苦しみにあうのも、私たちの罪のせいではない。あなたの罪はすでにキリストによって担われ、正しくお裁きになる方によって決着がついています。主イエスが私たちの罪を担ってくださったことによって、私たちは罪に対して死んで、義によって生かされています。それがキリストのものとされた、キリスト者であるということ、信じて洗礼(バプテスマ)を受けたキリスト者であるということです。
 私たちの罪が担われただけでなく、「そのお受けになった傷」によって「いやされた」とも言われます。主イエスが受けた傷は、十字架に釘づけられた傷です。ですがそれだけでなく、主はさんざんに鞭打たれ、茨の冠をかぶせら、鞭と棘とで全身傷だらけでした。そのうえで十字架に釘づけられ、脇腹に槍で刺された傷を受けました。ドイツ・ルネサンスの巨所マティアス・グリューネバルトが描いた十字架の主イエスは、全身茨の棘が突き刺さって傷だらけの壮絶な姿です。それが当初、病院の食堂の壁画であったと聞かされます。その絵を仰いで、病人たちは自らの病が主の傷によって癒された病であると信じたのではないでしょうか。
 病む人を癒すのはただ薬だけではありません。その人を癒すための他者の労苦が必要です。病める人を看護して、看護する人が身を痛めることもよくあることです。しかし私たちの受ける傷は他者の病を癒す力があるわけではありません。ただ罪なきキリスト、沈黙のうちに、正しく裁く神に対し深き信頼を貫かれた主イエス・キリスト、まことに人にして、まことに御子なる神である主イエス・キリストの「受けた傷によって」、あなたがたは癒されたと言われます。
 そうすると、私たちは罪をなお繰り返し、神様の御心に背くことの多い者ですが、しかし主イエスにあって「罪に対して死んだ」、そして罪赦された罪びとであり、「義によって生きるようにされた」罪びとです。しばしば病に苦しみますが、しかし主イエス・キリストにあって「主の受けた傷によって癒された病人」です。私たちは主イエス・キリストのものとされて、「罪赦された罪人」として、また主の御傷によってすでに癒された病人として今あります。このことは、今から生きる新しい日々を生きる喜びになり、希望をもって歩む力になるのではないでしょうか。

 天の父なる神様、御子主イエス・キリストがまったく罪無く、また十字架を前にして深く沈黙したことについて、ペトロの証言に耳を傾けることができ、感謝いたします。主の御苦しみは私たちのためで、主の十字架は私たちの罪を身に担われたことと知らされました。このことが、日々の生活の中で不確かになりがちな私たちです。どうか御霊の導きにより、繰り返し、共にいてくださる主イエス・キリストを仰いで、主と共に罪に死に主と共に義に生かされている者であることをしっかりと信じて歩むことができますように。また「主の御傷によって癒された病人」であることを覚えさせて下さい。教会のすべての兄弟姉妹、オンラインで礼拝を共にしている兄弟姉妹もまた、同じく、確かな信仰に生かされ、大きな喜びと希望のうちに主の証人として前進することができますように。この時代のすべての教会が福音を生き生きと生きて、伝え、主の御栄のために用いられますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。