「からし種一粒ほどの信仰」
説教集
更新日:2024年11月02日
2024年11月3日(日)聖霊降臨後第24主日 銀座教会・新島教会 召天者記念礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書17章14~20節
14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、
そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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本日は召天者記念礼拝です。日本基督教団では11月第一日曜日を「聖徒の日」(永眠者記念日)と定め、先に召天された愛する家族を覚えて一同に集まって神を礼拝しています。召天者名簿に記された愛するご家族の名前と召天日を確認し、共に歩んだ日々を思い起こします。召天された家族をご家族の中で様々に思い起こし、思い出を分かち合ってきたことでしょう。一人一人の思い出を分かち合うことが大切です。葬儀の時、ご遺族の方々が故人の思い出を話しますが、兄弟姉妹同士でも、はじめて聞いたというエピソードがあることは珍しくありません。お互いに大切にしてきた思い出、同じことを何度も何度も聞いたということを一緒に思い出すことに意味があるのです。そのような故人との思い出の分かち合いを繰り返して、子どもから孫へ、孫からひ孫へ語り伝えられたら素晴らしいと思います。そして、同時に大切な事は、召天された方がこの場所で礼拝していたことを思い出し伝えることです。教会こそ、召天された方々の人生を支えた、大切な基地であることを分かち合いましょう。どこの席に座って礼拝していたということまで確かめなくても、人生の決断の時、悲しい時、喜びの時、ここで天国の方々が祈りを献げたということを受け止めて、ご一緒に本日の礼拝をささげたいと思います。
召天者記念礼拝が日曜日に行われることに深い意味があります。日付を定めるのではなく、11 月の第一日曜日と定められているように、日曜日に召天者記念礼拝をささげることにこだわりがあります。どうして、日曜日にこだわるのでしょうか。月曜日から土曜日に召天された方であっても日曜日に召天者記念礼拝を献げます。この礼拝を他の平日やある方の召天日にすることはないのです。日曜日にこだわるには理由があります。
週の最初の日の朝、婦人たちが主イエス・キリストの墓を訪ね、そこで主イエスの復活の知らせを聞きました。その後、復活の主イエスが弟子たちに現れました。ヨハネによる福音書によると、弟子たちは主イエスを十字架に架けたユダヤ人に襲われることを恐れて、弟子たちの家の戸に鍵をかけていました。そこにも復活の主イエスは現れてくださいました。キリスト教会はユダヤ教の安息日の翌日である日曜日の朝、復活の主イエスが、その姿を現してくださった日曜日を礼拝の日として定めました。
召天者を覚える為に命日を忘れないようにします。お墓参りや記念会など、いわゆる法事が行われます。ご家族が召天1年目やその他の区切りの年に集まり、記念会を行ったりします。そのようなご家族での記念会も大切しつつ、召天された方を最も愛し支えてくだり、教会へ導いてくださった神の御前に礼拝をささげることも重んじたいと思います。礼拝出席こそ故人が喜ぶことではないでしょうか。信仰を持って天に召された故人が天国で喜ぶ以上に、神さまが皆さまを招き、復活の恵みを示し迎えてくださいます。
主イエスは、救いから最も遠いと思われる罪人の友となり、そのような人々の仲間に自ら加わられたお方です。もし、私は教会の礼拝に相応しくないと勝手に思われるお方がおられましたら、実はあなたこそ教会に相応しい方なのです。
本日与えられた聖書の御言葉は、弟子たちが主イエスからこんな言葉を聞いたという言葉が記されています。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
「信仰のない時代」「いつまで、あなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」という御言葉は「主イエスのいらだち」の言葉です。主イエスは誰に対していらだっているのでしょうか。このことを理解するためには、本日の御言葉の直前に記されている「山上の変貌」と呼ばれる出来事に目を向けなければなりません。主イエスは弟子のヤコブとヨハネを連れて高い山に登りました。2 人の弟子の前で主イエスのお姿は「太陽のように輝き、主イエスの服は光のように白く」なりました。この聖書箇所は山上の変貌と呼ばれています。マタイによる福音書は、光り輝く主イエス・キリストの姿、旧約聖書の偉大な指導者モーセ、預言者エリヤの姿を通して神の国、神の御支配、神の輝きを示しているのです。そして、山から下りた下界は、神の輝きが隠された世界であり、信仰の薄い時代であると、神の輝く世界と神の支配が隠れた地上世界を対照的に示しているのです。
私たちは世俗化の時代を生きています。神の存在も、神の御業も見えない、見ようとしない世界です。神は死んだとさえ考えているかのような世界です。それでも問題はないかのように生きているのです。しかし、どうでしょうか。下界の様相は、人と人とが争い、戦争がくり返され、凶悪な事件がくり返されています。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と主イエスがいらだっているのです。現代においてこそ、主イエスのいらだちを聞かれなければならないと思います。主イエスは具体的には誰に対していらだっておられるのでしょうか。直接対話をしているのは、息子を癒やしてもらいたいと願う父親です。この父に対して主イエスがいらだっておられるのではないことは明かです。それでは、主イエスのいらだちの矛先は、この父親の息子を癒やすことが出来なかった弟子たちでしょうか。主イエスは「よこしまな時代」と語っているので 10 人の弟子たちにいらだっているとは言い切れないのです。それでは主イエスのいらだちの矛先はどこなのでしょうか。それは、そこにいる人々に代表される、イスラエル全体に向けられていると考えるべきではないかと思います。
主イエスは天地を造られた創造の神の御業を通して、神の御業を汚し、信仰を隠すこの時代に対して、いらだっていると思われます。悪霊が横行する世界にいらだちを覚えて、そのいらだちをあらわにしてくださったのです。私たちは、主イエスのいらだちを無視したり、知らんふりしてはならないのです。この世界は神が造られた輝かしい世界のはずなのです。この世界の管理を託された人間が主イエスと共にいきどおりをあらわにしなければならないのです。悪霊が横行する社会になれてしまって、社会なんてこんなものだと開き直ってはならないのです。
いらだちをあらわにした主イエスは、どうしたのでしょうか。何とお語りになったのでしょうか。聖書に記されているように、主イエスは、「その子をここに、私の所に連れてきなさい」と伝え、主イエスが悪霊を叱りつけて、その子を癒やされました。弟子たちは、主イエスの悪霊退治の御業を目の当たりにして「なぜ、私たちは悪霊を追い出せなかったのか」聞きました。主イエスの答えは、「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
この主イエスのこの答えは大切です。「信仰が薄い」とは「信仰が小さい」とも訳すことの出来る言葉です。それでは、主イエスは弟子たちの信仰の大きさを問題にしているのでしょうか。そうではないと思うのです。信仰は大きいとか小さいとか表現しますが、まんじゅうのように大きさが問題なのではないのです。そうではなく、輝くキリストが見えないことが問題なのです。下界においてキリストがおられない時に、キリストが見えないから癒やすことも出来ないと考えてしまったことが問題なのです。主イエスが目の前にいないと、何も出来ないと考えてしまうことを問題にしているのです。現代の問題としては聖なる神も信仰も隠されてしまう世俗社会を問題にしているのが主イエスの御言葉だと思います。
「からし種一粒ほどの信仰があれば」とは、どういうことでしょうか。世俗化の中で主イエスが見えなくても、主イエスが共にいると信じ、主イエスの言葉に聞くことです。下界に生きる私たちが神さまがいないかのように振る舞うのではなく、主イエスの姿がたとえ見えなくてもいつも共にいると安心して、信頼して、感謝して生きることが大切なのです。
このことは 17 節の主イエスの言葉に示されています。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」この言葉に主イエスの御心が示されています。「共に」とはマタイによる福音書の最初と最後に記されているインマヌエル、神共にいますの「共に」です。
マタイ 1 章 23 節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイ 28 章 20 節あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書は初めから終わりまで、神共にいますことを信仰の杖として生きることを伝えているのです。主イエスが共にいてくださると信じて生きることが、からし種一粒の信仰です。この信仰さえあれば、不可能なことが可能になるのです。神の御業を仰ぎ見ることが出来るのです。神の国が見えるのです。マタイによる福音書は、主イエスが山に登ってここにいない時にこそ、ここにいますと信じることが出来るのだと、弟子たちに伝えているのです。
世俗化の社会のただ中で聖書の御言葉を聞くことにこそ深い意味があります。ならば、家族にキリスト者がいない中で祈ることにこそ意味があることになるのです。私たちが目覚めた時も働く時も休む時も、忙しい時も病院に行く時も、インマヌエル、神共にいますと讃美しましょう。神の救いの御業に信頼しましょう。神さまが見えないかのように思われる時にこそ、憤慨する主イエスと共に悪霊の支配に怒るのです。新聞を読み、ニュースを聞く時、神を忘れて見聞きしてはならないのです。その時こそ、救い主の到来を待ち望み、祈りを献げたいと思うのです。私たちの手で癒しの業が出来ないから、私の信仰は偽物だなどと考えるようなことはあってはなりません。パウロが語りました。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」キリストに愛されていることを忘れず、主イエスは救い主であることを信頼して、神を愛し、必ず、神の救い御業が行われることを希望をもって待ち望みたいと願います。神の御業を信頼して生きた、召天された方々の信仰をご一緒に継承したいと願います。