「主イエス、神殿税を納める」
説教集
更新日:2024年11月09日
2024年11月10日(日)聖霊降臨後第25主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満
マタイによる福音書 17章24節~27節
24 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。 25 ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」 26 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。 27 しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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1, 神殿税問題
弟子たちの一行が、カファルナウムという町に来たときのことです。神殿税を集める人たちがペトロのところに来て言いました。「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」この神殿税とは、ユダヤの神殿であり、ローマから徴収される税金とは異なるものです。律法で定められた税金であり、およそユダヤ人であるならば、誰であっても、納めなければならない。そのような種類のものであったようです。また、愛国心を問われる問題であり、イスラエルの共同体に属すしるしでもあります。これを払わないとなると、非国民扱いされるようなものであったのかもしれません。このように迫る徴収者は、主イエスに敵対する人々の仲間であったのかもしれません。彼らは、主イエスと弟子たちが、この税金を納めていないことを目ざとく見つけて、主イエスを非難してやってきたものと思われます。
ところで、この神殿のための税金について旧約聖書で記されているのは、出エジプト記30章であります。礼拝堂の修理などの使われたようです。他の事には使われません。そして金持ちであっても、貧しい人たちであっても等しく同じ金額を支払わなければならなかった。そのようにして、神殿の修復という最も大切な事柄への支出を、平等に責任を持つ、という意味があったようです。またそれだけでなく、この神殿税を納めること自体が、神に祝福されるための義務。責任であるという考え方がありました。出エジプト記に記されているところによりますと、命の代償金であるとあります。つまり、罪の贖いの意味をもつのです。この神殿への税金自体が、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるため。災いを招かないため、という意味合いがあったようなのです。その信仰は主イエスの伝道しておられたこの時代も続いておりまして、罪の赦しを確保する道だとも考えられたのです。それゆえに、この献金をしないなら、災いを招くかもしれない。支払わない者を神が祝福から遠ざけるという。そういう恐れから、神殿に税を納めるように促したかもしれません。しかし、これは、福音ではありません。律法の世界です。私たちもまた、洗礼を受けて、銀座教会につながりますときに、その洗礼準備の一環として献金についての学びをいたします。その学びにわたしは入ったことがありませんけれども、およそどの教会でも、同じことを伝えていると思います。献金というものは、ささげなければ救いから外れるとか、祝福から外れるとかそういうものではなく、罪の赦しと永遠の命という、神様の途方もない恵みを与えられたわたしたちが、その感謝の応答としてささげるものです。「献身のしるし」とよく言われます。私たちは、私たちの救いのために最も大切な御子を十字架にささげてくださった神の愛に答えて、わたしたちの心をささげ、人生をささげ、それゆえに毎週、この御堂に集い、礼拝をささげ、日々祈りをささげ、従う。その献身のしるしの一つとして、献金をささげるのですね。このわたしたちの献金もまた、会堂の維持。教職者の生活費のため。そして全ての伝道の働きのために用いられ、ひいては、神の御国のため。神の栄光のために用いられるのです。教会につながる人は、月定献金をささげることがいわば義務となっていますが、義務である以上に、特権であり、また喜びなのです。そういう、自分から喜んで自発的にささげることを主はお喜びになるからです。そして、そこには、罪を赦された者の自由があります。でも、このときの、イスラエルの神殿への税金徴収には自由はありません。むしろ、恐れを伴う律法の世界です。あなたがたの先生は、神殿への税金を納めるのか。納めないのか。どっちなんですか。そのように迫る人の言葉には、ペトロも物怖じしてしまうような圧力があったのかもしれません。思わずペトロは「納めます」と言います。おそらくこれまで、主イエスも、ペトロやヨハネといった弟子たちも明確にささげてはいなかったのかもしれません。
ペトロが家に帰ると、主イエスが言われました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロは答えます。「ほかの人々からです。」すると主イエスは言われました。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」このやり取りで主イエスが何を語ろうとしておられるのか。単純なことです。地上の王は、税金を、王家の子供たちから集めるようなことはしない、それに類比させて、主イエスが神殿税を納める必要は全くないのです。なぜなら、神の御子である主イエスは、神の宮において、王子の立場にあるからです。しかも主イエスは神殿に勝る方であり、神殿の主であります。神殿税を納める義務など全くないのです。
そして、もう一つ付け加えますと、ここで主イエスは「子供たちは」と語っております。つまり、複数形。子供たち、と言われることによって、神の子、イエス御自身だけではなく、主イエスに属する者たち。弟子たち。そして御国の民全てを指していると言えます。このように、主イエスはペトロたちも本当は、神殿への税金を支払う義務などはないことを語っておられる。しかし、この論理は、真実ではあるのですが、世の人々は理解しようとしません。主イエスへの信仰を与えられた人のみが悟ることのできることであります。ここで、主イエスが、ささげないという姿勢を取られたならば、彼らにとっては躓きにしかならないのです。
2, キリスト者の自由
ここで、わたしは、宗教改革者のマルティン・ルターが語りました、キリスト者の自由について思い起こします。ルターはその「キリスト者の自由」という書物の最初にこのように語ります。キリスト者とは何であるか。キリストがこれに獲得して与えてくださった自由とは、どのようなものであるか。その命題を掲げたい、と言ってこう述べております。
1,キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。2,キリスト者はすべてのものに仕えることのできる僕であって、だれにでも服する。
この、二つの一件矛盾した命題が、私たちキリスト者の内に成り立っているとルターは語ります。私たちは神によって罪を赦されており、全てにおいて自由なのです。しかしその自由を、わたしたちは、神と隣人に仕えるためにささげる。主イエスが愛においてわたしたちの僕として、御自身をささげてくださったように、わたしたちも喜んで、その自由を、主と、その身近な隣人のためにささげていく。全ての者の僕となる。そのとき、神の自由は最大限に用いられるのです。ですからわたしたちは、その自由を、つまずきの機会とせずに、愛に基づいて行使していくことが求められている。主イエスが、ここで、本来、神殿の主であり、王であるにもかかわらず、そのことをまだ知らない人々の配慮のために、神殿税をささげてくださいましたように、私たちも、つまずきとならないために、愛に基づいて歩んでいくことが求められている。そのために、日々わたしたちは祈りつつ、その知恵をお与えくださいと願って行かなければならないと思います。ルターはこのようにも語ります。「信仰において譲らず、愛において譲る」と。これはルターのガラテヤ書の講解における言葉です。使徒パウロは、最初、ファリサイ派の訓練を受けたユダヤ人でありましたが、キリストと出会いその自由に与りました。そして異邦人に対して、ユダヤ人と同じように割礼を受けなければならないと説く、かたくななユダヤ伝統主義者と戦い、信仰に基づく、自由と愛をもって、譲るところはしっかりと譲り、しっかりと立つところは立って、「割礼の有無は問題ではない」という姿勢を貫いたのです。では、わたしたちが立つべきところ。譲ってはいけない立ちどころは何か。主イエスの十字架です。まさに、十字架こそが異邦人にとって、最大の躓きでもあります。しかし、十字架を語らないとき、人間の罪とそこからの救いを語らないとき、教会は教会ではなくなってしまいます。この十字架の信仰に立ちつつ、信仰に基づく、自由と愛をもって、譲るところは譲り、立つところはしっかりと立って、歩んでいきたいのです。ルターはこのように語ります。「愛は小さなことであっても譲歩し、『わたしはすべてを偲び、すべての人に譲歩します』と言う。しかし信仰は、『わたしはだれにも譲歩しません。すべてのもの、地上の人々、国民、君侯、裁判官などがわたしに譲歩するのです』と言う。」これは、わたしたちがこの世俗社会で歩むときに取るべきあり方であると思います。
3,神の摂理の恵み
そこで、主イエスは言われます。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。」このように言われた主イエスは、本来納めなくてもよい神殿への税金を支払うために、ペトロに命じます。「湖に行って釣りをしなさい。最初に連れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」このあとペトロが湖に行って釣りをして、その魚の口に銀貨が入っていたという描写は記されておりません。しかしそのようになったと単純に信じてよいと私は思います。ここに大自然をも支配し、その御摂理の中に置かれている主イエスの神性。全能性が語られている。そして、この物語から示されているのは、主は御自身の分だけでなく、弟子であるペトロの分も支払ってくださった。納めてくださったということです。神様に従って行くとき、神様は、私たちの生活に必要なものを与えてくださる。そういうことがあります。そういう経験を、信仰生活をしていくと、経験することがあります。それは、わたしたちが神の摂理の中に生かされているからです。そういう小さな、あるいは大きな経験をしていく中で、ああ、神様は本当に私の生活まで気にかけてくださっているんだなと信頼できるようにされていきます。もはや神を疑うことができなくなっていくのです。そういう恵みをまだ知らない。そんな経験をしたことがないという人は、ぜひ、今日から祈ってください。主よ。わたしの生活の必要を与えてくださいと。行き詰まっている人や人生の岐路に立っている人がおられるなら、主の導きを願うべきです。しかしそのためには先ず、主が私の人生の主人であることを認め、主に従う決意をするべきであります。そのように従い、ゆだね、自分の心を主に明け渡していく中で、初めて、主が私たちの人生を支え、導いてくださることを知らされていくのです。そして、もう一つ、この箇所が示すことがあります。それは、この神殿税には贖いという意味があります。先ほども申しましたように、イスラエルの人々の、罪の贖いのしるしでもあると信じられていた。そのような贖いのしるしを、主イエスがペトロの分まで納めることによって、主イエスは、ペトロの罪を、十字架において贖ってくださった。ペトロの信仰を告白する全ての者の罪をここで贖ってくださっていることを象徴しているともいえるのです。わたしたちが、献金をささげるときでも、また私たちの生活の中の時間を割いて礼拝をささげている時でも、私たちはどこかで、これは自分のお金だ。これは自分の時間だ。それを、頑張って、神様のために割いてやっているのだ、などと思っているとしたら、それは大変な勘違いであります。わたしたちの命。わたしたちの人生の時間。わたしたちの健康や、能力。わたしたちの生活の資金など。神様から頂いていないものなどどこにもない。どんなにささげても、それはもともと自分のものではなく神様のものであるのです。ささげるときにも、そのささげるべきものを主が上から備えてくださる。
アブラハムが、モリヤの山において、息子のイサクをささげようとしたとき、天使に止められた。そのとき、主は、木の藪に引っかかっている雄羊を用意してくださっていて、それをいけにえとしてささげることができた。それと同じように、ささげるべきものも、もともと主が備えてくださったものなのです。そのような主の備え。主が最初から私たちのために全てを備えてくださっている幸いの中に生かされつつ、この地上で主イエスの十字架を証しする者とされているわたしたちです。私たちの生き方が、つまらないことで、隣人を、主の十字架に導くことを妨げることのないように。むしろ、わたしたちの、愛の配慮に基づく歩みが、隣人を主の十字架の下に導くことができますように。そのようなものとなるように、わたしたちは召されているのです。今週、私たちに与えられました一週間の歩みを、主の御栄光のためにささげ、その与えられた自由を、隣人の救いのために祈りつつ歩む者となっていきたいと願います。お祈りをいたします。
天の父なる神様。わたしたちに与えられた自由を、愛に基づいて、用いることができますように。十字架のつ
まずき以外のところで、つまらない躓きをもたらすことのないように。譲るべきとこは譲り、立つべきところに
立って歩むことができますように。そのような私たちの歩みが、隣人を主の十字架の愛に導くものとなりますよ
うに。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン