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銀座の鐘

「共にいます神」

説教集

更新日:2024年12月07日

2024年12月8日(日)待降節第2主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満

マタイによる福音書 1章18節~25節

1、 私たちの人生に介入してくださる神

 今日の礼拝において与えられました御言葉は、マタイによる福音書の 1 章 18 節から 25 節までの御言葉であります。待降節に読まれる箇所として昔から親しまれてきたところでありまして、おとめマリアからの誕生、イエスという御名のいわれ、そしてヨセフが、主イエスの父親という立場とされた意味など、また何よりも大きなメッセージとして、「インマヌエル」神共にいますという御言葉が記されているのが特徴であると思います。クリスマスの喜びとは何であるのか。それは、私たちのために救い主がお生まれになったということであります。そのことによって私たちの人生に確かな救いがもたらされたということであります。悩み、苦しみを持つ人というのは 2000 年前のイスラエルだけではなく、どの国においても、どの時代においても、おりましょう。今、ここにおられる方の中にも、実はのっぴきならない重荷を負いつつこの御堂に集う人もあるいはおられるかもしれません。しかし、そういう悩みや苦しみを抱えている人々だけでなく、人生が順風満帆だ。わたしには神などは要らない。そう感じておられる人々にも、実は神様の救いが必要なのであり、そのような人々のためにも救い主がお生まれになったということに、ここに集う全ての方が、本当に気付かされることが大切なのではないでしょうか。クリスマスだけ礼拝に来られるという方が時におられます。そのような方がもしおられるならば、その方もまた神様に招かれて来ておられるのですから、ようこそいらっしゃいましたと言いたいと思います。クリスマスは礼拝に来て落ち着いた気分で、聖書の御言葉を聞いて聖なる心になりたい。そういう思いを持っておられるのかもしれませんが、しかし実は、神様は、決してそこで終わってほしくないと考えておられるのです。クリスマス礼拝に来られ、この、救い主がお生まれになった物語を聞いた全ての方々が、救い主を心の中に信じて、人生の主人として、主に従うことを求めておられる。わたしたちの人生の中の、辛いときにだけ、困った時にだけ人生相談するような気持ちで聖書を開き、助けになるような神様ではなくて、わたしたちの生活の中心にいつも来てくださり、日々、わたしたちの人生の主権を担ってくださる方として、わたしたちにとってかけがえのない方となることを望んでおられる。神様とはそのような方なのであります。「神は我々と共におられる」とは実にそういう事なのであります。信仰とはわたしたちにとって、人生のアクセサリーのようなものとして、私たちの心を豊かにしてくれるような良いものとして、神を信じることなのではないのです。むしろ、救い主を信じて歩むときに、イエス・キリストこそが人生の全てだと告白する者となることを、神様は私たちに願っておられるのであります。ですから、今日、この待降節の物語を聞いていく中で、わたしたちの心の内に一つの矢が刺さるようなことが起こらなければ、本当に物語を聞いたということにはならないのであります。神がわたしたちに放たれた恵みの矢が、たとえ何らかの痛みを伴うようなものであったとしても、それがのちにわたしたちを本当の喜びに導くならば、それは必要なものであったと言えるのではないでしょうか。この物語が、ここに集う皆さん全てにとっての救いの物語となることを願ってやみません。

2、 ヨセフの人生に介入される神

 今日与えられました聖書の物語には、マリアの婚約者であるヨセフの人生に神が突如、入って来られたことが記されております。恐らく、まだ若かったヨセフの人生において、これほどに大きな悩みが生じたことはなかったと思うのです。婚約者であり、生涯のパートナーとして共に歩むことを約束した女性、マリアが、自分の知らないところでそのお腹に子供をはらんでいる。これはヨセフにとって、打ちのめされるような出来事でありましたし、人間不信に陥るほどの苦しみであったに違いないのです。この悩みは、ヨセフ自身の罪や、愚かさなどから生じたことではありません。降って湧いたような出来事なのであります。ヨセフ自身には何の落ち度もないのであります。ヨセフは、正しい人であったと記されておりますから、神を畏れ、律法を忠実に守る真面目な男であったのでしょう。大工という、良い仕事でありますが、社会的な地位の高い職ではなかったので、慎ましやかな生活の中で、謙遜な歩みをして、素朴に神を信じて生きる人であったのでしょう。そういうヨセフが、彼に相応しい、真面目で素朴なマリアという少女と結婚の約束をしていた。そのまま順風満帆に結婚に導かれると思っていた矢先の出来事であります。信じていた女性に裏切られる。それはヨセフにとっていきなり頭を打ち付けられたようなショックであったと思います。怒りとか、悲しみとか、悔しさとか、そういう思いがないまぜになった、しかしそのような思いを、どこにもぶつけることができない。親しい友人にも話すことができない。そういう悩みでありました。なぜならそれを誰かに語ってしまうと、マリアの立場が、非常に危険になってしまうからであります。マリアが、当時の律法の掟によって、姦通の女としてとらえられて死刑にされるかもしれない。マリアに裏切られたという悲しみはあったとしても、マリアがそのようになることは絶対に避けたい。だからひそかに婚約関係を破談にして、マリアとは縁を切ろうと、そう思っていたと思うのです。真面目に生きているわたしがなぜこんな目に遭わなければならないのか。そうヨセフは思っていたに違いないと思います。しかし、この出来事は、神がヨセフの人生に介入して来られたがゆえに起こった悩みなのであります。わたしたちの人生においても、様々な形で悩みや苦しみが生じることがあります。真面目に生きていても、トラブルに見舞われることがあります。信じていた人に裏切られたり、仕事がうまくいかなかったり、家族や、仕事仲間などとの人間関係で悩むことがあります。あるいは病気など、思わぬところで降ってわいたような不安にさいなまれることもあります。真面目に生きていれば、悩みなどは生じないかというと決してそうではない。そんな時、わたしたちはこう思うかもしれない。神様を信じていても何にもならないではないか。神を信じても、不幸はやってくるではないか。そうであるならば神を信じることには意味はない。毎週礼拝に行ってもしょうがない。
 しかし、神は、神を信じたら、それから後は何の不幸も、ストレスもない生活になる、などという約束はしておられないのです。聖書にも、神を信じればすべてがうまくいくなどと書いてはいないのであります。そういう、この世をうまく渡り歩くための処方箋として神を信じる道が掲げられているのではないのであります。むしろ、この物語の中に登場するヨセフのように、真面目に神を信じて生きるからこそ、起こるような出来事もあると思います。ヨセフが神を信じる人でなかったならば、深く悩むことはなかったかもしれません。これほど真面目ではなかったなら、裏切られたと言って苦しむこともなかったかもしれません。ヨセフは悩みに悩みました。これは神を信じない人の悩みではないのであります。神を信じている人の悩みであります。そして、彼が下した一つの決断は、マリアと縁を切るということでありました。それが最善であると彼は信じたのでありましょう。婚約していながら、自分を裏切り、自分以外の男と関係を持ったような女性とどうして一緒になることができるでしょうか。マリアのお腹の子供は自分の子ではないのです。それがヨセフの出した答えでありました。そしてそれが、神を信じる正しい人、ヨセフの限界なのでありました。わたしたちの正しさには限界があります。自分は正しい。そのように言い張るところで、しかしその正しさが何の救いにもならないということがあります。わたしたちは、皆自分の正しさを持っています。生き方があります。言い分があります。その言い分をお互いに主張し合う時、いつまでも話がまとまらず平行線で、理解し合えなくなると言うことがあると思います。
 私たちは、実にしばしば、この時のヨセフのように、神を信じて生きていると言いながら、本当に大切な決断の時、神様を私たちの心から追い出し、神様、ここはもうわたしの決断で行きますのでちょっとそちらに行っててくださいと言いながら、自分で突き進もうとすることがあるのではないでしょうか。しかし、主はそのように、ヨセフが自分で結論を出そうとしたときに介入してくださったのであります。

3、ヨセフの夢

 ヨセフはその日、夢を見ました。天使が夢に現れて、主の御心を告げられるのであります。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」驚いたとことに、主の天使は、マリアを迎え入れよと言うだけでなく、生まれてくる子供の名前さえも、指示されたのであります。ヨセフの悩み、ヨセフの苦しみを越えたところで、実はマリアのお腹の赤ちゃんのことについては、神が大いなる御計画の下に導いてくださっていたのであります。ヨセフよ、これはあなたの悩みなのではない。私の計画がここにあるのだ。主はそう言ってくださる。そして神がそこに一条の光を与えてくださったのであります。ヨセフはその光に導かれて、全てを委ねようと決心したのであります。
 ある人がこのようなことを述べております。「人間という者は、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあります。そこでしか神にお目にかかる場所は人間にはない。人間がだれはばからず喋ることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで人間は誰も神様に会うことができない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず自分だけで悩んでいる、恥じている、そこでしか人間は神様に会うことができない。」わたしたちも、この時のヨセフのように、誰にも言えない心の一隅を持っているのであります。持っていない人などは実はいないのであります。そしてそういうところに私たちは誰も招き入れようとしません。しかし神様はまさにそういうところでこそ出会ってくださるというのであります。そうであるならば、ヨセフに与えられたこの大きな悩みは、実は神からの大きな恵みであったとも言えるのではないでしょうか。悩み自体は良いものではありません。しかしその悩みのただ中に、神が来てくださる。悩んでいることそのものよりも確かなものとして、私たちの生きる喜びとなってくださる。そういう経験をわたしたちも皆、することが許されているのであります。わたしたちがその心に主をお迎えするならば、主は喜んで入ってくださるのであります。主こそが、私たちの心の一隅に入ってくる権利を持っておられるのです。そして主こそが私たちの心を慰める力を持っておられるのであります。ヨセフは、神に全てを委ねて、マリアと、そのお腹の赤ん坊を、引き受ける決意をしました。そして生まれた子供を、イエスと名付けたのです。
 イギリスの作家でありますディケンズという人の書いた小説に、クリスマスキャロルという作品があります。ご存知の方も多いかと思います。わたしはこの小さな物語を小学生の頃に読みましたが、近頃、ディズニーからアニメ映画で出たのを見てとても感動いたしました。スクルージという、老人が主人公であります。彼はお金だけを信じて生きている、お金持ちだけれども誰にも心を許さない、頑固で冷たい人でありました。しかしそんなスクルージにクリスマスイブの夜に三人の幽霊がやって来ます。一人の幽霊はスクルージの少年時代。青年時代に連れて行ってくれる。そこで大切にしていた人や、大切にしていた心を捨ててしまったことを思い起こすのです。貧乏を恐れて、お金持ちになろうとするあまりに、愛する女性との結婚を断念してしまった時のことを思い出すのです。次に、現在を見せてくれる幽霊が現れます。冷たいスクルージが、町の人々に陰口をたたかれたり、嫌われているのを目にします。しかしそれでも、スクルージを愛し、クリスマスのパーティーに呼べなかったのを惜しんでいる甥の言葉を聞きます。スクルージの下で働く男が、実は体の弱い子供を抱えながらも、慎ましい生活をしていること。またどれだけスクルージに感謝しているかを知らされます。どれほどに町で貧乏に苦しむ人々がいるか。そこで自分がどれほどそのような人々に対して冷たく冷酷であったかを知らされていきます。最後に、第三の幽霊が近い未来を見せてくれます。評判の悪い金持ちの男が死んだと言う噂。誰もその男の死を悲しんでいない様子。そしてそれがおそらく自分であると言うことに気付きます。最後に、幽霊が連れて行ってくれた墓場の墓標に自分の名前が掘っているのを目にします。スクルージはそこで深い悲しみと後悔の中で、自分の歩みが全く間違っていたことを思い知らされ、まだ、未来を変える可能性があるなら、どうか助けてほしいと懇願します。悪夢のような幻から目覚めたスクルージは、近隣の全ての人に愛情と、金銭を惜しまない、素晴らしい人物へと生まれ変わります。彼は心から、神への感謝を持ってクリスマスおめでとう!と叫び、絶対に寄付などしないと言って追い返した慈善団体に、恵まれない子供への寄付を誰よりも多くします。甥の誘いに対してクリスマスなど自分は絶対に祝わないと告げた、そのパーティーに行って、一緒にクリスマスを喜び合います。彼の下で働いていた男の給料を倍にし、その男の子供にとっての第二の父親とも言えるような人になります。この物語は、ディケンズの書いた小説の中では短い物語ですが、ディケンズの信仰と人生観が豊かに現れていると思います。ディケンズ自身もまた、優れた小説家ではありましたが、その人生は矛盾のあるものでありましたし、深い悲しみがありました。誰にも入ってもらいたくないというような心の一隅があったと思うのです。そしてそういうところで神の救いを求めていたのでありましょう。ディケンズは、自分の半生を考えながらこの小説を書いたのではないだろうか。また私たちの内にも、このクリスマスキャロルの、スクルージのようなところが全くないとは言えないのではないだろうか。しかし頑固なスクルージに、厳しい現実が示されたのは、彼が本当に大切なことを思い起こすためであったように、神がわたしたちの悩みや苦しみや、誰にも入ってきてもらいたくないと思うその心の一隅に入ろうとしてくださるのは、そこでこそ、わたしたちが神と出会い、神と共に歩む者とされるためであります。神のお計らいの中に人生を委ねて行くためであります。「神は我々と共におられる」。この御言葉がわたしたちにとって最も大きな慰めであるのは、私たちの魂の最も深いところ。その最も深いところに、私たちの罪がある。悲しみがある。誰にもわかってもらえない醜いものがある。しかしそれを全て主が知っておられ、赦してくださり、引き受けてくださるからであります。わたしたちがどんな者であったとしても、神は私たちと共におられるのであります。そのために神の御子が私たちの内にお生まれになったのであります。
ここに集う方々は皆、人生のあるときに、キリストを信じて洗礼を受けて銀座教会に連なりました。その、これまでの信仰生活はしかし、順風満帆ということはなかったかもしれません。途中で、信仰生活に疲れて、教会から離れていた時期があったという方もおられるかもしれません。しかし、神は、御自身のものとされた人間一人一人を、決してお見捨てになることはない。その心の一隅において語りかけ、介入してくださり、正しい道に導いてくださる。そのような恵みの中に初めから終わりまで支えられて、今日まで生かされてきたのです。私たちを本当に救うことができるのは、わたしたちの救い主であるイエス・キリストのみであります。この主イエスを信じて洗礼を受けたのは、私たちの思いではなく、ひとえに神の恵みなのです。この神の恵みの中に生かされていることを今日改めて思い起こし、神のなさる恵みの業の中に生かされていきたいのです。この待降節に与えられている、主イエスの降誕を待ち望む喜びを感謝しつつ、日々、キリストを心の内に迎える歩みを進めて行きたいのです。お祈りをいたします。

 天の父なる神様。わたしたちをとらえ、私たちの心の内に来てくださり、正しい道へと導いてくださる幸いを心より感謝いたします。この待降節のときに、わたしたちの救い主、主イエス・キリストの招きを受け入れて、主の招きに応える者とならせてください。信仰生活を長く歩む一人一人にも、また今年も新たに、クリスマスの喜びを新しい心で味わうことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン