銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘
  3. 「真実の喜びは神の導きによって」


銀座の鐘

「真実の喜びは神の導きによって」

説教集

更新日:2024年12月29日

2024年12月29日(日)降誕後第1主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師  山森  風花

マタイによる福音書 2章1~12節

 主の年 2024年最後の主日礼拝において、本日私たちに与えられました聖書箇所はマタイによる福音書 2章1-12 節に記された、クリスマスの物語です。もうクリスマスは終わったのに、と思う人もいるかも知れません。しかし、教会の暦の上では 1月6 日の公現日までがクリスマスとして守られています。ですので、私たちは本日もクリスマスの物語を聖書日課によって与えられているわけです。
 さて、本日の箇所にはクリスマスの最後の日である公現日に起きた出来事が記されています。マタイによる福音書は「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来」た、と2章1節で私たちに伝えています。この日、ユダヤの都エルサレムにやって来た占星術の学者たちは、ユダヤ人から見れば外国人、つまり異邦人でした。異邦人とは、神の民として選ばれていると自負していたユダヤ人たちからは、神に選ばれなかった民、救いから遠い者、罪人と見なされていました。このように罪人、神の救いから遠い者と自分たちがユダヤ人たちから見なされていたことを占星術の学者たちは当然知っていたことでしょう。しかし、それにも関わらず、占星術の学者たちは、遠路はるばるユダヤの都エルサレムへとやってきたのです。異邦人である彼らがエルサレムへとやってきたその理由。それは 2章2-3節にこのように記されています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
 この占星術の学者たちの言葉から、彼らがユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を見た、つまり、神から選ばれず、神から救われることなどないと思われていた異邦人に対して、天地万物を造られ、支配される天の父なる神様が星という不思議なしるしを彼らに与え、導いてくださったことが示されているのです。そして、彼らは星を通して与えられた神の導きによって、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝むために、つまり、イエス・キリストを礼拝する、そのためにこの都エルサレムへと遠路はるばるやってきたのでした。
 何故、この占星術の学者たちがイエス様を礼拝しにやってきたというクリスマスの物語が公現日と呼ばれるのか、その理由がここにあります。それは本日の聖書箇所にはっきりと書かれているように、神の導きによって、異邦人である学者たちが、私たち異邦人の代表としてイエス様に礼拝をささげたからです。つまり、ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス・キリスト、この方こそ、ユダヤ人も異邦人も関係なく、礼拝をささげるべきお方であることがこの日、公に現されたのです。このように、クリスマスにお生まれになったまことの「ユダヤ人の王」はユダヤ人だけではなく、異邦人をも含んだすべての民をお救いになるお方であることがこの公現日の日、明らかにされたのです。だからこそ、私たち教会は異邦人である学者たちがイエス・キリストに礼拝を捧げた公現日までをクリスマスとしてお祝いするのです。
 このように、本日の聖書箇所には、天の父なる神様がまことのユダヤ人の王がお生まれになったというこの喜ばしき知らせを、異邦人である自分たちに示してくださったことを喜び、彼らの故郷から遠いユダヤの地への危険な旅を乗り越えて、礼拝をささげるために都エルサレムにやってきた占星術の学者たちの姿が記されています。
 しかし、その一方で、当時ユダヤ人の王として君臨していたヘロデ王と、都エルサレムに住む人々が「ユダヤ人の王がお生まれになった」という学者たちの言葉を聞いて不安を抱いたことがはっきりと記されているのです。ここで登場するヘロデ王は、王と呼ばれてはいるものの、あのユダヤ人の偉大な王、ダビデ王の血筋に属する者でもなく、そもそも生粋のユダヤ人でもありません。それにも関わらず、ヘロデが王になれたのは彼がローマ皇帝に取り入り、皇帝から推薦をもらったためでした。
 そして、このヘロデ王のもとで大都市として繁栄したのがエルサレムでした。このエルサレムという都はユダヤ人にとって歴史的にも宗教的にも特別な場所です。なぜなら、エルサレムはダビデ王の統一王国時代の王都であり、王国分裂後も神殿のある場所としてユダヤ教の中心的な都だったからです。
 しかし、本日の聖書箇所にはっきりと記されているように、ダビデ王の都であり、ユダヤ教の中心地であるはずのこの都エルサレムにおいて、ユダヤ人の王の誕生を喜び祝おうとする者は今、誰一人いないのです。占星術の学者たちが、王が生まれるに相応しい場所と考え、長い旅を経てやってきた都エルサレムには、偽りの王ヘロデしかいません。また、ここにはまことのユダヤ人の王、メシア、救い主が生まれる場所がユダヤのベツレヘムであることを知っていたにも関わらず、学者たちから告げられたユダヤ人の王誕生の知らせを聞いても喜び祝わない、祭司長たちや律法学者たち、そして、ヘロデ王と共に不安を抱く人々しかいないのです。
 では、かつて見たあの不思議な星を通して、神に導かれてやってきた占星術の学者たちが礼拝を捧げようとしたまことのユダヤ人の王、イエス・キリストはどこにお生まれになったのかというと、それは、大都市エルサレムとは対照的な、ユダヤのベツレヘムという本当に小さな村でした。しかし、この小さな村、ユダヤのベツレヘムこそが、あのダビデ王の出身地だったのです。そして、エルサレムの祭司長や律法学者たちが知っていたように、旧約聖書にはこのベツレヘムから指導者であり、牧者となる方、つまり、メシアが生まれるという預言が記されているのです。
 こうして、旧約聖書の時代から預言されていた神の救いのご計画が、イエス・キリストの御降誕によって確かにクリスマスの日に成就しました。それはヘロデ王や都エルサレムの人々が喜んで受け入れようとしない、いや、それどころか拒絶し、殺そうとする、そのような罪と暗闇に支配された世界において、それでも、この罪と暗闇の支配のもとに置かれた私たちを救うために、愛すべき御子を遣わしてくださった神の憐れみと恵みによって成就されたのです。
 このような暗闇の世界に、それにも関わらず、まことの光である神の御子、イエス・キリストがお生まれくださったという驚くべき事実が私たちに示された後、9 節以降には、まことのユダヤ人の王がお生まれになったのはベツレヘムであることを知った占星術の学者たちについて記されています。
 彼らは都エルサレムの人々、またヘロデ王の不安など知らず、エルサレムからベツレヘムへと向かうことにしました。もしかすると、エルサレムを出発する時、学者たちは「ベツレヘムの家を一軒一軒まわっていけば、いつかはユダヤ人の王としてお生まれになった方にお会いできるはずだ」と話し合っていたかも知れません。しかし、私たちはベツレヘム中の家を一軒一軒探し回る彼らの姿を目撃することはないのです。なぜなら、9-10節には、「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」と書かれているからです。
 この 9-10 節を他の聖書訳と比較して読むとき、私たちが礼拝でお読みしている新共同訳聖書では、原文のギリシャ語を省略している部分があることに気づくことができますし、また表現が少し控えめになっているように感じると思います。なぜなら、他の聖書訳では9-10節をこのように訳しているからです。
「9博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
 今日私たちが特に注目したいのは 10 節です。なぜなら、10節を原文で見ると、このたった 1 節の中に「喜び」という意味のギリシャ語と「喜び祝う」と訳せる言葉が二つ同時に使われて強調されているからです。また、さらに「非常に」という言葉と、「大きな、甚だしい」と訳せるギリシャ語もこの 10節で使われているのです。
 ですから、ここにはかつて故郷で神様によって示された、あの神の導きの星を見ることが再びゆるされたことで、言葉では表現できないほどの大きな喜びが学者たちに与えられていることが分かるのです。このような神の憐れみによってのみ与えられる、言葉では表現できない、この上もなく甚だしい喜びこそ、真実の喜びということが私たちはできるでしょう。
 真実の喜び。それは私たち人間の力では決して得ることなどできない喜びです。この真実の喜びはただ神の恵み、神の導きによって学者たちに与えられました。
 しかし、ここで注意したいのは、彼らに与えられたこの真実の喜びは神の導きの星を見たことで終わりではないということです。なぜなら、再びこの星を見つけることが彼らの旅の目的ではなかったからです。彼らはその神の導きの星が留まり、星が指し示す、その場所でついに彼らの旅の目的達成するのです。それは 11節に、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」と記されているとおりです。
 こうして、神の導きの星によって始められた彼らの旅は、神の民として選ばれたユダヤ人だけでなく、異邦人をも含んだすべての民を救う、そのためにこの暗闇の世へ「ユダヤ人の王」としてお生まれになった方、主イエス・キリストを礼拝するという目的をついに果たしたのでした。
 11 節に記されている占星術の学者たちが長い旅の間、宝箱の中に入れて大切にしていた黄金、乳香、没薬について、これらの宝物は彼らの商売道具、仕事に必要不可欠な道具であった解釈する人もいます。そうだとすれば、彼らは自分の最も大切なものをこのときイエス様に献げたということになります。学者たちがこのように自分の最も大切な宝物をイエス様に献げることができたのは、彼らが占いや星の動きによって見つけようとしても見つけることのできなかった真実の喜びが、この日、神の導きによって与えられたからでしょう。しかし、この真実の喜びは学者たちだけに与えられたのではありません。なぜなら、私たち異邦人の代表であるこの学者たちのように、私たち一人一人の信仰者も、主イエス・キリストという救い主が私たちのためにクリスマスの日に与えられたという真実の喜びを、ただ神の導きによって与えられた一人一人だからです。
 最後に、家庭礼拝のしおりによって礼拝を守られている皆様に、説教前の讃美歌として記した二編 128番を是非開いて頂きたいと思います。この讃美歌の 1節には、「世のひと忘るな、クリスマスは 神のみ子イエスのひととなりて、みすくいたまえる よき日なるを。よろこびとなぐさめの おとずれ、きょうここにきたりぬ。」と歌われています。ここにはクリスマスが、まことの神でありながら、私たちを救うため、私たちの代わりに十字架にかかって死ぬために、お生まれくださった神の御子の御降誕日であることがはっきりと記されています。そして、このクリスマスこそが、私たちにとって真実の「よろこびとなぐさめのおとずれ」の日なのです。なぜなら、まことの光である神の御子が暗闇の中で生きる私たち一人一人の人生の中に、訪れてきてくださったからです。それも、ただ一度訪れてきてくださっただけではないのです。主イエス・キリストは、私たちを罪から救うそのためにお生まれくださり、そして、世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださるお方だからです。このような真実の喜び、まことの慰めを自分の力ではなく、ただ神の憐れみと愛によって与えられていることを覚えつつ、新しい主の年2025年も神に感謝と賛美の声をあげながら歩んで参りたいと願います。