「後にいる者が先になる」
説教集
更新日:2025年01月13日
2025年1月12日(日) 公現後第1主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満
マタイによる福音書 20章1〜16節
1:「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2:主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3:また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4:『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5:それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6:五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7:彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8:夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9:そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10:最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11:それで、受け取ると、主人に不平を言った。12:『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13:主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14:自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15:自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16:このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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1, ぶどう園の主人のたとえ
主の年、2025年が始まりました。この一年も、主なる神が私たちに与えてくださった一年として、主の御業に励んでいきたいと思います。そこで、本日私たちに与えられました御言葉は、マタイによる福音書第20章、1節から16節であります。「ぶどう園の労働者のたとえ」という見出しとなっております。長く信仰生活をしている方にはなじみの深い、主イエスのたとえ話ではないでしょうか。主イエスが語られるこのたとえの概観を簡単に説明いたしますと、天の国とはどういうものであるかということを、ぶどう園で雇われる人々にたとえて語られていくのですね。初めから説明してしまいますと、この主イエスのたとえでたとえられておりますのは、ブドウ園が天の国。この地上における神の御支配をあらわします。そしてぶどう園の主人は言うまでもなく神様です。そして朝の6時、9時、12時、3時、5時、と順に雇われていくのがこれは解釈が分かれますが、おおむね神の民です。ここで主イエスが想定しておられますのはおそらくファリサイ派なども含めたユダヤ人。生粋の神の民でしょう。それが朝6時に最初に雇われた、早朝組です。その後順に雇われていくのは、異邦人たちと考えても良いと思います。あるいは設定をわたしたち教会と考えるならば、小さな頃から信仰生活を歩んで洗礼を受けて、ずっと教会生活をしている人が早朝組。そして順に、若い日に救われた人。壮年時代に救われた人。晩年に救われた人といった感じです。
ここは解釈に少し幅があります。しかしいずれにせよ、神であるぶどう園の主人によって呼び集められて、御国のための奉仕にたずさわるキリスト者。御国の民なる教会をあらわしているのだと言えましょう。
このたとえの中で、ぶどう園の主人は、一日の中で何度も雇人を増やしております。日の出からすぐに働いて頑張った人。日がずいぶんと上に昇ってから働き始めた人。正午から働き始めた人。午後3時から働き始めた人。そして最後に午後五時に、日暮れに働き始めた人もおります。同じ労働者でも働く時間はもう全然違うのです。最後の人が1時間ほどであるのに比べて最初の人は12時間、丸一日働いております。しかし最後に主人は一人一人に一デナリオンの賃金を渡してくれるのです。それを、遅く働いた人たちから渡していったものですから、早朝組の人たちは、もっと沢山もらえるのだろうなと期待してしまったのです。しかし同じ一デナリオンです。あてが外れた人々は、この主人に対して文句を言いだすのです。一時間しか働いていない彼らと、一日中働いた我々が同じ賃金だなんておかしいだろう!不公平だ!と食って掛かったわけです。このたとえを聞いて皆さんはどう思われますか?いや、初めに一デナリオンの約束で納得したのだからわめくんじゃない。と思ったでしょうか。それとも、彼らの言うことはもっともだ。早朝組が一デナリオンなら、夕方五時組はもっと少なくするべきだろう、あるいは、夕方五時組にそんなにもやるならば、朝組にはもっと色を付けてあげないとおかしいだろう。そう思われるでしょうか。これは、この物語を単に傍から眺めているときに出てくる答えと、自分の身に降りかかった出来事として考えるのとで答えが違うのではないだろうか、と思います。私たちは、こと仕事のこと。賃金の発生することとなると目の色が変わってきます。何しろ生活がかかっていますから。そして自分の大切な時間をその仕事のために費やしたのですから。このように早朝から12時間もかけて働いた人々がぶどう園の主人に食ってかかったのは人間として当然の反応だと思います。きっとわたしもその立場なら、恥ずかしげもなくわめくに違いないと思います。そんなの不公平だろう。なんでそいつらにそんなにやるんだ。だったら我々にも!と思う。たとえ小心者ゆえに言葉にできなかったとしても、心の中でつぶやくと思います。これは不公平じゃないか、と。それを、ぶどう園の主人の寛大さと受け止めて、五時から組の皆さんもそれだけもらえてよかったな!などとは思えない。わたしはそんなにお人好しではありません。わたしは、この早朝組の人々の態度が必ずしも恥ずかしい利己主義とは思いません。むしろ人間の当然の心理状態を言い当てていると思います。
2, 人間の平等と神の平等
しかしそのような彼らに対してぶどう園の主人はこのように語ります。「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」ここでぶどう園の主人は、三つの理由をもって返します。一つ目にこの賃金の値段は最初に交わした契約であるということ。二つ目に、自分のものを自由に渡す権利があり、そこにあなたたちにとやかく言われる筋合いはないということ。三つ目に、これはわたしの気前の良さなのであって、それに言いがかりをつけることは妬みに過ぎないのだということ。確かに、彼らはこの主人と、最初に交わした契約は一デナリオンの賃金で働くということでした。そうです。それで彼らはちゃんと納得したのです。にもかかわらず、彼らは自分よりも働いていない人と比べてしまったとき、そこに不満を感じ始めたのです。そう考えると、心情的には同情できるかもしれませんが、彼らの発言は妬みから来るものだと言われても仕方がないかもしれません。あなたがたの持っているその感情は低劣な妬みの感情だ。そう言われて、びっくりしたかもしれません。自分が妬んで言っているなどと恐らく彼らは全く思っていなかったでしょうから。
このぶどう園のたとえにある、早朝組の人々の憤り。これは、こういうことです。朝から汗を流して働きづめの我々と、一時間しか働かなかった者たちの働きとが全然違うのに、自分たちと同じ賃金を五時からの人々に渡すのはおかしい、だったら我々はもっともらって当然だという怒りです。だから夕方五時組にはそんなにあげないでくれ。それはえこひいきだと言いたいのです。けれども、彼らは確かに、最初に、一デナリオンの約束で主人に雇われたのです。この主人が言うように、不当なことはされていないはずです。そして、このたとえは確かにたとえ話でありますが、このようなぶどう園などの主人が収穫期に多くの人々を雇うこと。そのために早朝から職にあぶれた人々が、立ちんぼをして待っているという、そういう状況が古代パレスチナではよくあった風景でした。あるいは今もあるのかもしれません。かなり現実的な話です。そしてそこで、雇ってもらえない人々にとって、それは明日の食事がないと言うことを意味します。貧しい人々は貯金するなどできませんから、この日、雇われることがなかったならば、家族を路頭に迷わせるということがあったのです。このぶどう園の主人は、自分の損得ではなく、彼らを助けてやりたいという思いから、12時になっても、3時になっても、5時になっても仕事をもらえなかった人々を集めて仕事をあげたのです。そして同じ額の賃金を払ってやったのです。彼らの家族のために。明日のために。6節で主人は、夕方になっても立っている人々に尋ねます。「『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。」とあります。夕方になっても誰も雇ってくれない。それでも待ち続ける苦しみ。その苦しさは、朝から働きどおしの早朝組の苦労とはまた違う苦しみです。実はもっと辛いことです。仕事がないなら今日の食事がないということだからです。そういうことを考えますと、早朝組の言い分は一見正しいように見えてやはりケチな了見としか言いようがありません。やはり自分のことしか考えていないのだということです。しかし、このたとえから私たちが受け止めなければならないことの一つには、わたしたちもこういう過ちをしてしまうことがあるかもしれないということではないでしょうか。
ここで出てくる妬みという言葉。それは原語で、目が悪いというい意味をもっています。目が悪いから。心の眼が暗く、本当のものを見るための視力がないから、ぶどう園の主人がなさるその気前の良さ。行き届いた配慮。愛を理解できずにふてくされてしまうのです。心が暗いと、神様の素晴らしささえも悪いものに見えてしまうのです。問題は私たちにこそあるのです。そうであるなら、これまでに、神様は私に対して不公平だと憤ったような事柄が、実はもっと大きな配慮の中で為されたことであって、自分の了見の狭さのゆえにそれを受け入れられなかっただけ、ということがあったかもしれません。わたしたちがもし、それはえこひいきだ、それは不公平だと不満を感じた時には、もう少し全体を見渡す視野が必要であるということもあるかもしれません。少なくとも、神様のなさりようにおいては、不公平はなく、えこひいきなどはないのです。にもかかわらず神様に対して不満を感じ、自分は神様にないがしろにされていると感じるなら、その自分の思いそのものを疑うべきなのです。そしてもう少し、わたしたちに働いてくださる神様の導きを待つべきなのです。そしてそのように神様のなさりようを待ち続けてこそ、わたしたちは本当に神様の御計画の深さ。その根本は常に愛であり、わたしたち一人一人を本当に生かすものなのだということに気付かされていくのではないでしょうか。
このたとえが語っている実に単純なメッセージ。それは、神様とは、このぶどう園の主人のような気前の良い方であるのだということです。その気前の良さ。つまり神様の公平と神様の善き御心。その愛と憐れみから注がれる導きは一人一人に十全に注がれていて、ただそれを信じて受け止めていくなら、決して私たちを損なうものではない。なぜなら神様の気前の良さは、わたしたちにも十分に与えられているからです。神様はわたしたちにも約束をしてくださっております。一人一人に御自身の命を与えてくださっております。イエス・キリストの十字架と復活を通して永遠の命を与えてくださっております。その命の中に生かされ続けるのです。心の内に主を受け入れる。「来てください、わたしの内に!」と心から願う。その時から主がわたしたちの内で生きてくださる。主イエスはこのようにも語られました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7章7-8)
またヨハネによる福音書6章37節においてこのようにも語られます。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」これが神様の気前の良さです。心から救いを求める者に決して天の御国を拒むことはないと約束してくださっている。救いを求めるなら必ず神様に出会える。いえ、もう今ここで皆さんは出会っておられるのです。その出会いそのものが神様の恵みです。これ以上に何かを求めることは本当はないのです。ただ、感謝して仕えていくだけなのです。仕えることそのものが喜びとなるからです。そうであるなら、あの早朝からぶどう園で働き続けた人たち。彼らこそ幸せな人々であった。その幸せにもっと気付くべきであったのです。それなのにどうして、あの人たちは自分たちよりも働きが少ないのに同じ処遇はずるいなどと言えるでしょうか。むしろ私たちの方がより多く働けて良かったと言うべきではなかったでしょうか。私たちもそうです。すでに主と共に生きている。人生の本当の意味を知らされ、神様の栄光をあらわす者とされている。生まれてきてよかったと心から言える道を歩んでいるのです。しかし、若い日に信仰を与えられた人も、晩年に信仰を与えられた人も、神様は同じように祝福してくださる。だから反対に、わたしはなぜ年をとってから神様と出会ったのだろう。もっと早く出会っていればよかったのに、とつぶやくこともまた違うことなのです。それぞれに神様との出会いの時があり、その時に神様がわたしたちを生かしてくださった。その時のその出会いを感謝するだけでよいのです。わたしたちの持っているもので、自分の力で手に入れたものなどはどこにもありません。命そのものも、人生も、その時間も、その持っている才能も、全て神様からの授かりものです。それを用いてどんなに努力して仕えても、それは私たちの功績ではない。神様の恩寵です。長生きすることを許された人々も、若くして死んでしまった人々も、同じ祝福で満たしてくださっている。だからわたしたちは、他人と自分を比べるべきではない。人と比べた時、神様の恵みを忘れてしまうからです。最後まで、神と私の関係に生かされて生きていきたいのです。そしてそれぞれ、神様のぶどう園の中で、神様の御業のために励んでいきたいのです。この地上において神の御栄光がなるために、用いられていきたいのです。お祈りをいたします。
天の父なる御神様。わたしたち一人一人があなたとの約束の中に生かされて、主のぶどう園で働く者とされましたことを心より感謝いたします。私たちはそれぞれ違う時代、違う場所に生まれ、違う時にあなたから招かれて、それぞれに違った賜物をもって働いておりますけれども、みな神のぶどう園の労働者として、この地上であなたの御業に励んでおります。そのようにして用いられていることを感謝し、他人と比べたり、妬んだりすることのないように私たちの心を自由にしてください。わたしたちが勝手に考えてしまう平等の原則にもとらわれず、あなたは人々に恩寵を与えてくださいます。その気前の良さにつぶやくことなく、わたしは私に与えられた人生を最後まで喜びをもって生き抜く者とさせてくださいますように。この感謝と願いを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン