神を畏れる純真な生活
説教集
更新日:2025年01月18日
2025年1月19日(日)公現後第2主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦
ペトロの手紙一3章1~6節
1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。5 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。6 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
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人間の生活は、時代の変化と共に随分と変わってきました。結婚生活や家族の在り方もそうです。かつての家父長主義的と言われた家族形態と最近の家族とでは随分と異なり、結婚のあり方も時代と共に変わるかのように見えます。今朝の聖書の箇所は、教会の結婚式の中で「妻に対する教え」として、よく読まれてきた箇所です。ここには時代と共に変わっていく夫婦の有り様というよりも、むしろどんな時代の結婚の中にも変わることなくあり続ける真実の核が語られています。それはどういうことでしょうか。ペトロの手紙一の3章は、「同じように」という言葉からはじまります。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」。「同じように」とは、何と同じなのでしょうか。それは前の章、2章13節に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」とあり、さらに 18 節には「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい」とあります。「同じように」とあるのは、それら前からの続きを受けて、召し使いたち、つまりキリスト信徒となった奴隷たちが主人に従うように、「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と言っているわけです。
それでは聖書は妻たちを奴隷扱いしていることにならないでしょうか。実際、古代のユダヤ人社会でもギリシアやローマの社会でも妻たちは、家父長主義的社会の中で夫の所有物のような扱いを受けていたと言われます。男女平等の関係はありませんでした。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」という言葉は、その時代の家族関係を自由と平等の関係に改革しようとはしていなかったことを意味するでしょう。
人間の生活は時代の変化と共に随分と変わってきたと申しました。そして実際、キリスト教伝道が歴史を変革し、新しく歴史を形成する力を発揮してきたとも言われます。ですが、そうした社会変革そのものが伝道の意図する目的であったわけではありません。社会そのものを変えようとして妻たちに対して、「同じように」、つまり奴隷たちと同じようにと語りかけたわけではありません。しかしこのあとの 7 節をみますと、「同じように、夫たちよ」と続きます。そして「妻を自分よりも弱いものとわきまえて生活を共にし、・・・尊敬しなさい」と語ります。「同じように」とは、だれをも平等に扱う言い方とすれば、ただ妻たちに奴隷と同じようにと語っただけでなく、夫たちにもまた「同じように」、つまり奴隷や妻たちと同じように行為するようにと記すわけです。
聖書が重大として中心に置いているのは、その時代の社会制度や家族制度ではありません。どんな社会制度や家族制度であれ、そこには「信仰によって共に生きる生活」があって、誰であれ「同じように」「仕える」生活があるということです。聖書が決定的とするのは、信仰によって仕える生き方です。だから「同じように」奴隷は主人に仕え、妻たちもその夫に仕え、また夫たちも妻の弱さを理解し、尊敬しなさいと言われます。
妻たちに対するこの言葉の中で、信仰生活は、特に「神を畏れる純真な生活」と表現されています。「神を畏れる」と言うことは、神を信じ、神を敬い、神をまことに神として礼拝する信仰でです。神を畏れるとは、神をまことに神として信じることです。そこに聖書と教会の関心の中心があります。神をまことに神として信じ、生きるとき、奴隷も主人も、妻も夫も、男も女も何ら本質的な区別ではなくなります。「神を畏れる」信仰、神をまことに神として真実に敬い畏れる信仰から、人々に対して「同じように」仕える生活が、営まれます。
現代は人間の平等や自由が熱烈に主張されます。しかしその一方で「神を畏れること」は、迷信のように扱われ、まったくと言っていいほど真剣には語られません。神関係に根拠を持った人間の自由や平等でなくなっています。神を畏れることを失っています。それで果たして人間の自由や平等の主張が、どこまでやっていけるのか、危ういと言わなければならないでしょう。
「神を畏れる」信仰を持ったキリスト者婦人の装いが語られています。婦人の装いというと、金の飾りや派手な衣服のことと思われがちです。古代人もそうした服飾品や金の飾り物を大切にしたことは、古代の墓からでてくる装飾品によってよく知られています。しかしそうした飾り物でなく、「神の御前でまことに価値あるもの」として、「柔和でしとやかな気立て」(「柔和で穏やかな霊」)という「朽ちないもの」を心の内に秘めた人であることだと言われます。「神の御前でまことに価値あるもの」と言われます。「神の御前」を失えば、本当に価値あるものが何であるかは分からなくなるでしょう。人間の平等や自由も、神を忘却し、神との関係を失ったなら、分からなくなるでしょう。肝心要なものとその結果的な果実の転倒、それが現代に起きています。「神を畏れ」「その御前に」に生きることをもう一度回復しなければなりせん。
婦人たちの「無言の行い」が語られています。「神を畏れる純真な生活」は無言の振舞いの中に現われると言うのです。そしてそれが決して無視できない力を発揮することが記されています。それによって夫が信仰に導かれるようになると言うのです。「信仰に導かれるようになる」というのは、正しくは「獲得される」という言葉で、妻の無言の振舞いによって夫が獲得されると言います。この言葉の用法は、パウロの手紙の中で知られています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです」(コリ一9・19)。この「得る」という言い方です。その人が神のものとされること、そして救に入れられることです。それが妻たちの無言の振舞いによる。「神を畏れる純真な生活」が無言のうちに神の伝道に用いられる。そういう仕方で力を発揮すると言うのです。
もちろん伝道は人間の思い通りにはいきません。私たち人間の勝手になるものではありません。しかし神はキリスト者である妻たちの無言の行いを、御自身の伝道の業にお用いになると言います。御言葉を信じない夫もその妻の信仰の生活を見ることによって伝道されているわけです。御言葉を信じない夫であってもそうだと言うのですが、信仰にすでにあずかっている夫も、神を畏れる妻の清い振舞いを見ることで、一層神のものと確かにされ、救いに入れられることを信じられるのではないでしょうか。
初代教会の時代、信仰のない夫に仕えたキリスト者夫人は多かったと言われます。教会はそういう結婚を否定したり、離婚を勧めたりはしませんでした。日本でも未信者の夫に仕えて苦労したキリスト者夫人の話が聞かれます。聖書は妻の無言の行いの成功や失敗を語っているわけではありません。伝道の成功や失敗は人の目には分からないものです。神はその憐みの中で確かにキリスト者婦人の無言の振舞いを伝道する力として働かせてくださると語っています。そしてこの婦人の信仰の関連で「神に望みを託した聖なる婦人たち」とも言われます。「神を畏れる信仰」は「神に望みを託し」ます。神を畏れ、神をまことに神として信じる信仰は、神に希望を置きます。世の中や自分に降りかかる困難の中で、何事も結局、最後は絶望でしょうか。そうではありません。神を畏れる信仰は、神が主イエスにあって示された憐みを最後まで貫いてくださると信じて、希望を失いません。
パウロは信仰の手本をよくアブラハムに見て、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(ロマ 4・3;ガラ3・6)と語りました。そして「信仰によって生きる人々こそ、ブラハムの子であるとわきまえなさい」と言いました。それと同様にペトロは、自分の夫に従うキリスト者婦人をアブラハムの妻である「サラの娘たちとなる」と語っています。サラはアブラハムを主人と呼んで、彼に服従したと言い、神を畏れる信仰の生活は、「善を行い、また何事も恐れない」とも語られています。弱いと見られる婦人が、その神を畏れる信仰によって「善を行い、また何事も恐れない」と言われていることは、興味深いことであり、また真実であると言うべきでしょう。
主イエス・キリストの父なる神様、あなたはわたしたちのまことの神、すべてのものの造り主、あらゆる出来事のまことの主でいらっしゃいます。あなたを主イエス・キリストにあって、畏れ、信じ、礼拝することができますように。また、主にある婦人たちをはじめとして、私たちそれぞれの無言の行為があなたの伝道に用いられますように。どんな時にもあなたを正しく畏れて、あなたに希望をかけ、世の一切の災いや困難のゆえに絶望に陥ることがありませんように、助け導いてください。主エスにあってあなたを信じ、畏れ、尊ぶゆえに、互いに仕え合い、善き行いをなし、何事も恐れることのない日々を生きていくことができますように。あなたの御子、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。