「わたしの家は祈りの家」
説教集
更新日:2025年01月25日
2025年1月16日(日)公現後第3主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書21章12~17節
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」17 それから、イエスは彼らと
別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日のみ言葉の舞台はエルサレム神殿です。エルサレム神殿が建設されたのはダビデ王の後継者ソロモン王の時代です。この神殿が建てられる前は、神殿はなく幕屋と呼ばれる移動式のテントでした。サムエル記下7章によりますと、出エジプトの時代からダビデ王の時代までの礼拝は神の幕屋で行われました。羊とともに移動する遊牧民にとって移動することが出来る幕屋が信仰生活の中心でした。ソロモン王は列王記上5章以下に記されているようにソロモンの栄華を極めたカナン風の神殿を建てました。この神殿がエルサレム神殿の始まりです。しかし、この神殿は、紀元前587年バビロニア帝国によって破壊されてしまいました。神殿の中心の至聖所に置かれていたモーセの十戒を収めた契約の箱もこの時に失われてしまいました。バビロニア帝国によるバビロン捕囚から解放されたユダヤの民は神殿跡に第二神殿を再建しました。それから約500年、紀元前20年頃、ヘロデ大王がエルサレム神殿の大改修に着手しました。これが本日のみ言葉の舞台であるエルサレム神殿です。しかし、この神殿も紀元70年、ローマ帝国によって破壊されてしまい、重要な祭具も持ち去られてしまいました。現在、エルサレム神殿は残っていません。
神殿が建つことで制度が重んじられるようになります。神殿で働く祭司の宗教的権力が大きくなります。祭司に対する批判等、許されなくなりました。神を信じることより制度に従い、祭司の顔を見て信仰生活を続けることになっていきました。旧約時代にも例えば預言者アモスは神殿の祭司たちや権力者を批判したことで彼らから睨まれてしまいました。主イエスもエルサレム神殿の権力者に対して語ったことから彼らから睨まれ、とうとう逮捕されて十字架刑に処せられてしまいました。主イエスが十字架刑に処せられたとき神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと記されています。この出来事は、十字架の主イエスを信じるものにとって、もはや神と人とを分け、隔てていた垂れ幕が不要になったということを現しているのです。コリントの信徒への手紙一3章16節以下には、使徒パウロによる神殿理解が記されています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」一人一人が生ける神の神殿なのです。祭司の許しなどなくても神を賛美し、神に祈りを捧げることが出来るのです。これが、主イエスが見ていた真の神殿、神と信仰者の直接的な関係の回復です。私たちは主イエスの怒りが私たちのためであることに目を向けたいと思います。
本日の聖書のみ言葉は、主イエスが神殿の境内に入り、神殿で商売をしている人々だけでなく買う人々まで追い出したことが記されています。神の国の福音を宣べ伝えて愛の業を行う主イエスとは別人のような乱暴な主イエスの姿に見えますが私たちと神を結ぶ生命線を回復するための怒りなのです。主イエスはなぜ、両替人の台を倒したり、鳩を売る人の椅子を倒したり、集まってきたお客さんたちまで追い出したのか理解したいと思います。
主イエスの怒りは、「私の祈りの家」を強盗の巣にしてしまったと記されています。幕屋で礼拝を捧げていた神との関係とはほど遠い、神の名を利用した祭司たちによる集金屋敷になり下がっていたのです。神にお会いし、礼拝をするために、神の名を利用して人々から神殿硬貨を集め、自分たちのために用いる、神のものを強盗する神殿になっていたのです。主イエスは神殿の境内の商人たちを追い払い、本来あるべき神殿、すなわち祈りの家を回復するために戦っているのです。
神殿で商売をしていた人の中で例えば両替人の仕事は、人々が日常生活で用いているローマ硬貨(例えばデナリオン銀貨)や場合によってドラクマ銀貨等のギリシャ硬貨を神殿銀貨に両替していました。ローマ皇帝が刻まれた硬貨を神に献金するのはふさわしくないと考え、様々な硬貨を神殿用の硬貨に両替していました。神にささげるためには、シェケル銀貨と呼ばれる神殿用硬貨に両替してからささげる決まりになっていました。そのためには硬貨の重さを正確に計り、神殿硬貨に両替する必要があったのです。両替人がいなければ神殿での献金が出来なくなるようになっていました。
鳩を売る商人は、ローマ帝国全土から神殿に来る人々が自らの罪の許しのために自分をささげる代わりに犠牲の動物を献げて、神の許しと憐れみをうけていました。何日もの旅をして神殿に来る人にとっては、神殿の中で犠牲の動物を買うことができることは便利だったこでしょう。犠牲の動物を献げる儀式が出来るのはエルサレム神殿だけでした。神殿制度において、犠牲の動物を売り買いすることは必要不可欠だったと誰もが受け入れていたことでしょう。しかし、主イエスは隠されていた大問題に対して怒っておられるのです。
神殿の中には、祭司の庭、男性の庭、女性の庭、異邦人の庭、そして中央に聖所がありその奥に至聖所がありました。神殿は巨万の富が集まりました。ローマ帝国全土から入ってくる献金や律法によって定められた税金があります。大きな神殿を維持する費用にも用いていました。エルサレムの住民の約 8 割が神殿の仕事で生計を立てていました。一見平和な神殿で主イエスは売り買いしている人々を追い出した理由は、異邦人の庭を商売人たちに占有させ、異邦人を神殿に入れないようにしていました。主イエスがお語りになった13節は、旧約聖書イザヤ書56章の引用です。イザヤ書56章は「異邦人の救い」という見出しからも分るように、ユダヤ人以外の人々の救いについて語られています。イザヤ書56章のみ言葉に聞きましょう。
イザヤ書 56:3 主のもとに集って来た異邦人は言うな
主は御自分の民とわたしを区別される、と。
宦官も、言うな
見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
イザヤ書 56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら
7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに
連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
主イエスはイザヤ書56章3節を引用して、ユダヤ人と異邦人は区別されないことを教えているのです。神が預言者イザヤにこのように語っているではないかと、み言葉を引用して、神の言葉に反している神殿を問題にしているのです。イザヤ書56章6節以下には
「…主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、
…
わたしの契約を固く守るなら、
…わたしの祈りの家の喜びの祝いに
連なることを許す。」と語られています。主イエスの怒りは、預言者イザヤの語られた神の言葉が無視され否定され、神の支配ではなく祭司の支配に堕落している神殿経営に怒りを現しているのです。神のみ言葉が軽んじられ、異邦人を排除し、神の喜びではなく祭司が笑っていることへの怒りであることがイザヤ書の引用から理解できるのです。
主イエスが見たエルサレム神殿は、本来、異邦人たちの祈る場所が、神殿の権力者と商人が手を握り、両替人や鳩売りの店を並べて、異邦人を神殿から締め出していたのです。主イエスの怒りは、祈りの家から異邦人、すなわちユダヤ人以外の人々を締め出していることを問題にしているのです。神の御心に反しているこの現実に怒りを表しているのです。主イエスは、本来神殿は神の祈りの家であり、異邦人を招く場を奪い取っている、祭司などの宗教的権力者に神の怒りをあらわにしているのです。祭司が聖書を読まず、預言者イザヤの言葉に反して、神殿を私物化していると痛烈に批判しているのです。一方、主イエスのこの怒りに対して、祭司長、律法学者たちは主イエスに腹を立てたと記されていることから、双方の緊張関係が頂点に達していることが分ります。
主イエスの批判を聞いて、これは神殿の権力者だけの問題ではないと思われます。私たちにとってもこの問題は、そもそも神殿とは何であるのか、私たち一人一人が神の宮、神の神殿であると理解する時、私たち自身が、真の祈りの家となっているかどうか、今一度問われなければならないのではないでしょうか。主イエスが祈りの家を回復するために戦っておられるのです。主イエスの戦いに答えて、私たち自身が神殿であり祈りの家であることを、再確認し、自覚したいと思うのです。
主イエスは「都を出てベタニヤに行った」と記されています。べタニヤは、主イエスの祈りの場があるところです。神殿批判をした主イエスは、自らを祈りの家として真の神殿として模範を示してくださったのです。
私たちは神の宮です。教会は祈りの家です。私たちを祈りの家としてくださったのは主イエスなのです。主イエス自ら私たちのために祈り続けてくださることを忘れてはならないのです。主イエスは昨日も今日も明日も祈ってくださるお方です。べタニヤに退き祈ってくださる主イエスに応えて、今週も熱心に祈りたいと願います。
祈りましょう。天の父なる神さま、主イエスが神殿に異邦人を迎え入れるために戦ってくださいました。主イエスが私たち一人一人を祈りの家とするためにも戦ってくださったことを感謝いたします。御前に悔い改め、私たち一人一人が神の宮であることを忘れることなく、あなたとの祈りの交わりを深めるものとしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン