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銀座の鐘

「主イエスの問いかけ」

説教集

更新日:2025年02月01日

2025年2月2日(日)公現後第4主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書22章15~22節

 聖書は人は自分勝手に生きる者ではなく、神に造られた者として、神との関係において生きることを伝えています。同時に聖書は人間の罪の姿を明らかにします。
 私たちは神からの呼びかけに応えて生きる者として造られています。神の呼びかけに対して、神への賛美、祈りという形で応答します。しかし、私たちは神がお与えになった愛と自由のなかで、いつの日か神の声ではなく、サタンの言葉に耳を傾け、神の御前に立つことが出来なくなります。創世記のアダムとエバの物語で彼らがサタンの言葉を聞くようになり、神から自分たちの身を隠すようになったように、神の前に立つことが出来なくなります。人間の罪は、最初は小さい何気ないことからはじまります。しかし、いつのまにか大きくなっていきます。私たちの罪はどこまで大きくなるのでしょうか。神から離れて生きる人間は、いつしか神のようになろうとして、神に従うことをせず、神に対立し、罪に落ちていきます。神になろうとする人間は、真の神がうっとうしくなります。それだけでなく、ついには人間の罪は、神さえいなければと考え、神を殺すことを考えはじめるのです。私たちは聖書を通して、人の罪の姿を自分の姿として直視なければなりません。本日の聖書の御言葉は、何とかして主イエス・キリストを陥れたいと考えているファリサイ派の人々が集まっている場面からはじまります。彼らは主イエスを殺す相談をしています。主イエスがこの地上にいては困ると考えています。ファリサイ派の人々の中には、主イエスによって神殿の商売を邪魔されたと怒っています。主イエスがたとえ話をするたびに民衆の心をつかみ、自分たちへの当てつけとしていらだっていました。彼らのいらだちは怒りとなり、憎しみになっていきました。
 主イエスがいることがうっとうしいと感じるファリサイ派の人々は、主イエスがいない世界をのぞみました。そのために、彼らは主イエスを落とし入れる罠を練りはじめました。ファリサイ派の人々は、大変賢い人々です。人間の知恵は、神を罠にかけようとします。主イエスを罠にかけるためには、節操を捨て本来敵対していたヘロデ派に近づいて行きました。敵であるはずのヘロデ派に何と協力を求めるようになりました。ファイリサイ派がヘロデ派に協力を求めるということは通常では決してありえないことです。しかし、主イエスを殺すためには手を組むことが出来ました。ファリサイ派は自分たちがローマ帝国の支配下に置かれている状態を神ではなくローマ皇帝を神にしなければならない事態に苦しんでいました。ユダヤの信仰者として、ヘロデ派のようにローマ皇帝の権力を振りかざすような人々にはできるだけ近づきたくなかったはずなのです。しかし、ファリサイ派の人々はヘロデ派に近づき、主イエスという男は危険だとささやいたのです。主イエスをこのまま自由にしておくとローマ皇帝の座を脅かしかねないとささやいたのです。そうして敵の敵は味方。水と油のファリサイ派とヘロデ派が、共通の敵として主イエスを攻撃するために共に戦う体制を築いたのです。こうして主イエスを落とし入れるシナリオを完成させました。神の言葉ではなくサタンの言葉に聞き従う時、立場を超えて神に敵対するものは簡単に協力し合うことができるのです。これも人間の罪の恐ろしさを教えている事実ではないでしょうか。
 主イエスを落とし入れる罠です。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
 ファリサイ派とヘロデ派が一体となって作り上げた罠は見事なものです。主イエスを「先生」と呼ぶ余裕さえ見せます。主イエスを信頼する姿を装っています。主イエスに敵対していることを隠して声をかけました。まず最初に主イエスに対してあなたは「人々を分け隔てなさらない」お方であると語ります。ファリサイ派とヘロデ派が一体となっていることを指摘させないためです。その上で、あなたはファリサイ派とヘロデ派のどちらに従うのか、どちらに敵対するのか、立場を明らかにするように迫るのです。ファリサイ派もヘロデ派も共闘しています。もし皇帝に税金を納めないでよいといえば、ヘロデ派がローマ皇帝の権力を振りかざし黙っていません。ローマ皇帝の支配を否定するとは何事かと処罰の対象にすることでしょう。もし税金を納めて良いといえばファリサイ派は黙っていられません。彼らは立ち上がり、主イエスの正体は皇帝を礼拝する、偽物の信仰者であると暴露することになります。どちらに転んでも、彼らの勝利しかないと考えられる、絶体絶命の危機に直面していたのが主イエスと弟子たちです。
 しかし、主イエスは「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。19 税金に納めるお金を見せなさい。」と語りました。主イエスはファリサイ派とヘロデ派が手を結んで、彼らの心の底にある罪を見抜いています。ゆえに「偽善者たち」と呼びかけました。ファリサイ派とヘロデ派の人々が結託して質問をする時の姿勢は、御言葉を聞く姿勢ではなく、サタンが主イエスを荒れ野で誘惑する姿勢と同じではないでしょうか。ファリサイ派もヘロデ派もサタンの顔を隠し、紳士のように振る舞いました。主イエスを尊敬して主イエスに聞き従いたいという姿勢で近づいています。しかし、主イエスは罪人の心の底を見抜いておられます。主イエスは私たちがどんなに罪の正体を隠しても、罪人の心を見抜かれるお方なのです。
 私たち人間は神のテストや試みを受けることはありますが、私たちが神である主イエスを試したりテストすることはしてはならないのです。私たちがサタンになって神を打ち負かそうとする姿勢だからです。「なぜ、わたしを試そうとするのか」という言葉は、なぜ、あなたは自分が神ではないことを知りつつ神になろうとするのかと、私たちに問うているのです。主イエスの前で、この問いに答えられなかったファリサイ派、ヘロデ派と同じように、私たちも自らが主イエスの御前にサタンになっていないか吟味しなければならないのです。続けて主イエスは、税金を納めるローマ皇帝が刻まれているデナリオン銀貨を手にして、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお語りになりました。
 この主イエスの言葉は、ファリサイ派の人々に対してもヘロデ派の人々に対しても、皇帝のものとは何であるのか、神のものとは何であるのか、あなたがたがよく知っているはずなのだから自分で判断して行動しなさいという答えです。
 この主イエスの答えは一ミリも隙のない言葉ではないでしょうか。同時に神の愛と自由を伝える言葉でもあります。主イエスの姿勢は決して、彼らの悪意に対して悪意で答えたり仕返しをしたり、攻撃する姿勢ではないのです。もしヘロデ派の人々が自分自身の身も心も皇帝のものだと考えるのであればそうしなさい、そうすることをよしとするという自由を与えています。ファリサイ派の人々に対しても、このような悪巧みを指摘したり反論するのではなく、神のものは神に返すことを人生の問いとして真剣に生きることを求めているのです。すなわち、主イエスは、殺人を考えている人々に、審きではなく、愛と自由を与え、神のものとは何であるのか、自分自信の身も心も神のものであるならば、身も心も神にささげなさいと、神に立ち帰る機会を与えようとしているのです。主イエスは全体絶命の危機を深い神の憐れみによって受け止め、いつのまにか主イエスが彼らに問いかけているのです。
  イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
 ファリサイ派もヘロデ派も、自分たちの知恵によって、主イエスを罠にかけて落とし、勝利だけを思い描いていたはずでした。しかし、神の御前に人間の知恵はこんなにももろくつまらないものであることを神の言葉によって知ります。人間の浅はかさが思い知らされているのです。彼らは主イエスから離れていきました。しかし、彼らの怒りは益々倍増していきます。主イエスを十字架刑に処するまで、この怒りはエスカレートに燃え上がっていきます。人間の罪の恐ろしさです。
 主イエスが敵意を持って近づくものに対して、愛と自由を与え続ける姿を見抜けないのが私たちです。主イエスの深い憐れみに気付けないのが私たちです。神の愛と自由に気付けないだけでなく、この対決で負けたことからますます過激になり、罪が罪を生み、エスカレートして落ちていくのが私たちなのです。
 「神のものは神に返しなさい」との主イエスの御言葉を神の言葉として聞くことを求められています。私たちは主イエスのこの問いの前に立たされているのです。「神のものは神に返す」という言葉をサタンの言葉として聞く時、自分のものはすべて自分のものであり、神のものがなんであるのか分からなくなるのです。神への感謝も隣人への感謝も失われてしまいます。神さえいなければ、すべてを自分のものにすることが出来ると考えてしまうのではないでしょうか。
 私たちは神に愛され、神に造られた者です。神の声に聞き従って生きる時、サタンではなく神を神とする道を歩くことが出来るのです。人生には様々な誘惑があります。神の声を否定することから、その隙間から聞こえるサタンの声を聞く誘惑です。しかし、神に愛されている者は、神の愛と自由の言葉に立ち返ることが出来るのです。そのために私たちは神を礼拝し、神になろうとする誘惑を避ける力を身につけなければならないのです。
 私たちが神になる誘惑の第一歩は、主イエスをうっとうしいと思いはじめることではないかと思います。讃美歌を歌わない、聖書を開かない、注意信号です。
 神に愛されていること、たとえ神に敵対しても、神に立ち帰るための、愛と自由を保証する主イエスの言葉をしっかりと聞き、主イエスに従う者でありたいと願います。