「最も重要な掟」
説教集
更新日:2025年02月09日
2025年2月9日(日)公現後第5主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村 満
マタイによる福音書 22章34節~40節
4 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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あるとき、主イエスを試そうとして、ファリサイ派の人々がやってきました。その中の一人の律法の専門家がこう尋ねます。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」なぜそのように尋ねるのでしょうか。律法の専門家であるならそれぐらいわきまえていて当然だと思います。しかし、これにはそれなりの意味がありました。律法とは、十戒をことこまかく生活に適用させて分類させていった規則です。それらは、道徳律法以外にも祭儀におけるさまざまな規定や、社会法規。その他の勧告など、全てを含めると、613もの規定がありました。また、それらの規定の適用として、口伝伝承などを含めると膨大で、それゆえにさまざまな学派に別れていたそうです。そのようなわけで、律法学者。専門家と言う人たちがいたのです。そのような戒めのどれが一番大切なのか。それは自明のことではなかったのです。なぜ自明のことではなかったかというと、律法をあまりに細かく分類しすぎてしまって、その中心を見落としてしまっていたのです。主イエスはすぐに言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」主イエスは、律法は大きく分けて二つであるとおっしゃるのです。神を愛する。垂直の次元。そして隣人を愛する。水平の次元。実はこの二つは分けて考えることはできません。神を愛していると言いながら、隣人を愛さなかったり、赦さなかったりするならば、それは神を愛しているとは言えないのです。
この律法の元となった十戒の初めを見てみたいと思います。一戒から四戒までが、神を愛しなさいという戒めにまとめることができます。そして、五戒から十戒までが人を愛しなさいという戒めとして見ることができます。
ここで律法の専門家はこう言いました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」しかし主イエスはこう言い換えられました。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」預言者と付け加えます。なぜでしょうか。実は、律法という言葉で、広い意味では、創世記、出エジプト記。レビ記、民数記、申命記と言ったモーセ五書と言われる書物を指すのです。そして預言書と言われるものはそれ以外の書を指します。ですから、「律法と預言者」、という言葉によって、旧約聖書全体を表す言葉として用いられたのです。旧約聖書は律法書だけではないと主イエスは暗にこの専門家を批判しているのです。なぜ主イエスはそのように批判されたのでしょうか。この小さな言葉遣いの中に、彼らの律法に対する間違った姿勢があることを見逃さなかったからです。律法学者やファリサイ派といった人々は律法を一点一画の狂いもなく、守り通してはいましたが、律法を守ることの意味を忘れて、守っている自分だけを愛し、誇っていたからです。律法を守りながら、なぜか神を見つめ、隣人を見つめていくことができていなかったからです。そしてそれが、律法主義という状態となっていったのです。律法をさえ守っていれば義人と見なされると考えて、神様なしに自分を誇る尊大な態度です。律法を守れていない人々を裁き蔑む姿勢です。しかし預言書の中には、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記なども含まれています。これらはイスラエルの歴史です。これらは、神がイスラエルを導いていった歴史書です。歴史の中には神との愛の交わりがあります。出会いがあります。そのような出会いなくして、神を知ることはできなかったはずです。しかし律法の専門家は、その言葉の端々にこだわるあまり、忘れていたのでしょう。出エジプト記の20章で、神がモーセを通して十戒をお与えになったときの言葉を見てみたいと思います。最初にこう語ります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」この言葉は重要な言葉です。神は、イスラエルが、神によってエジプトの奴隷状態から贖われたことを思い起こさせるのです。それは神が、イスラエルをその契約の民として心から愛しておられたからです。そしてその愛は、このように表されます。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」この熱情の神、という言葉は口語訳では「ねたむ神」とありました。神様が妬みを持つなんておかしい。そうは思いませんか。でも、主は御自身の民が他の神々の方に心が向いたなら、妬むほどに、愛しておられる。そのような深い熱情の神だからこそ、そのイスラエルの歴史の中で、イスラエルが信仰を失いかけてきたときに、何度も預言者を送って、御言葉を語り続けてきたのです。そういう、神の愛の歴史が旧約聖書の歴史です。そのような愛をもっていつも神はイスラエルを導いてくださっています。そして新しいイスラエルとなったキリスト教会をも導いてくださっています。わたしたちの人生をこれまで導いてくださった神は、これからも変わらない愛で導いてくださるのです。熱情の神だからです。妬むほどに愛してくださっている神だからです。
このことを、わたしたちの人との出会いにおいて考えてみたいのです。家族にも歴史があります。その歴史があるからこそ、わたしたちは家族をいとおしく思うのではないでしょうか。父と母に、子供のころから、愛されてきた記憶があります。だからこそ、今、年を取った親を介護したり、助けたりすることを当たり前だと思えるのではないでしょうか。愛された歴史がなければ、やはりなかなかそれは難しいと思います。夫婦にも歴史があります。若いころの馴れ初めを思い出します。結婚したばかりの蜜月の日々を経て、子供が与えられて一緒に育てた歴史があり、倦怠期の時をも越えて、共に年を重ねて、なお共にいる喜びがあります。あるいは、結婚していない人であっても、友達との長い友情を持つ人にとって、そのような歴史と記憶があるからこそ、今も仲良く歩むことに感慨深いものがあるのではないでしょうか。長く付き合っているからこそ、わかることがあります。そのようなわたしたちの人生における人間関係からわかることは、神こそがわたしたちをそのように見てくださっているということです。私たちを、その母の胎内にいるときから愛してくださり、幼い子供の時を経て、少しずつ成長していく。その人生の途上で神は私たちに出会ってくださり、信仰をお与えくださいました。神のその導きなくして、わたしたちは神と出会うことなどできませんでした。神がわたしたち一人一人を選び、その救いの道に招いてくださったのです。そして、まず神が私たちを愛してくださった。だからわたしたちもまた神を信じ、応答する者へと変えられていったのです。また、日々、成長し、もっと神の愛を知らされ、より深い応答。主に従う者へと変えられていくのです。わたしたちは律法では救われません。そのことを、イスラエルの歴史が物語っています。しかしそうであるなら、律法は悪いものなのか。そうではありません。律法は霊的なものであり、良きものです。しかしそれを悪く用いてしまうのは、私たちの自己中心の罪なのです。神の熱愛は、律法を守ることができないイスラエルに、それでもなお注がれていきました。その結果、天の父なる神は、その御子をこの地上に送ってくださったのです。この御子なる神、イエス・キリストが、神でありながら、人間となって、しかし私たちと違い、全く罪のない汚れない人間となって、この地上で唯一神の律法を守り切ってくださいました。私たち罪人が不可能であった、律法を守り切り、一切の罪を犯さずに、神と人とを愛し抜いてくださいました。そのようにして律法を完成してくださったのです。そのキリストの義を。キリストの正しさを、私たちは信仰において受け取るのです。わたしたちは罪人でありながら、律法を守ることができないにもかかわらず、この主イエスの十字架を仰ぐだけで、救われるのです。キリストの義によって天国の門が開かれたからです。
ローマの信徒への手紙の10章4節で使徒パウロはこのように語っております。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」つまり、ここで語られていることは、主イエスが、人間の代表となって律法の全てを守り通してくださり、人間に対する神の求める正しさを。義を成し遂げてくださった。律法を満たしてくださった。そのキリストの義が私たちに与えられることによって、わたしたちがあたかも律法を成し遂げたかのように、見做されるのです。
ある神学者が、キリスト教とは何か、という問いに対して、このように語ります。「キリスト教とは何か。キリスト教とは、キリストである」、と。ロシアの文豪でありますトルストイという作家は、キリスト教というのはキリストの教えだけでよいと考えて、ほかの者は要らないと考えたそうです。トルストイという偉大な作家でさえ、そのような思い違いをしてしまうのです。主イエスが語られた教えや、御言葉は大切ですが、実はその御言葉を語られた、主イエス・キリストその方が、私たちの内に生きてくださっているということ。それこそが大切なことなのです。わたしたちは哲学や他の宗教の教えのように、教えによって、人間の高みに上るとか、悟りに至るとか、そういうことが救いなのではないのです。そうではなく、イエス・キリストにあって、罪を赦されて、神の御支配に与ること。それがわたしたち教会の信仰です。イエス・キリスト。この方を救い主として仰ぐことによって、あの十字架がわたしの罪のために主イエスが死んでくださった十字架であり、復活してくださったことによって私も復活の命が与えられたのだ、と信じる。その信仰によって、何の功績もないにもかかわらず、神のものとなるのです。神の愛の中に。恵みの中に、生かされていくのです。聖霊が私たちの内に来てくださっているからです。そして、信仰を与えられ、聖霊を受けた人はどのようになるか、と言うと、聖霊を通して神の愛を注がれているのですから、神を愛する者となるのです。神の愛に応答する者とされていくのです。その応答で一番大切なことが、礼拝なのです。今、わたしたちは礼拝をささげております。なぜでしょうか。神の愛が私たちの心に確かに注がれているから、礼拝をささげることこそが、わたしたちの喜びとなったからです。あるいはここには求道者の方々もおられるでしょう。神様を信じたい。聖書の伝える信仰の道を歩みたい。そのような願いをもって礼拝をささげている方がおられると思います。それは、今生きておられる神。イエス・キリストがあなたの心をそのように導いてくださっているからです。あなたを心から愛し、聖霊を注ごうとしておられるからです。ですから、どうか、その心を開いて、聖霊を賜物としていただいてください。イエス様、わたしの心に来てくださいと願ってください。あなたが本当に今も生きておられる神であり、私のことを愛し、わたしの人生を導いてくださる方であることを教えてください、と願ってください。必ず、主イエスはあなたの内に来てくださいます。
そして、そのようにして神の愛を注がれた時、初めてわたしたちもまた、聖霊によって、少しずつでありますが、神を愛する者とされていく。そしてその神の愛の中で、わたしたちの人生で出会う人々を愛する者へと。共に生きる者へと変えられていくのです。わたしたちは礼拝の中で、毎週、御言葉を通して、主イエス・キリストと出会っているのです。キリストの愛に支えられ、キリストの霊に導かれて、神を愛し、隣人を愛する者として歩んでいきたいと願います。お祈りをいたします。
天の父なる神様。私たちの心に愛を注いでくださり、わたしたちはあなたに応答する者となりました。あなたを愛し、隣人を愛する者とされましたことを心より感謝いたします。あなたがわたしたちと共に生きてくださっておりますから、聖霊に導かれて、あなたに従い、あなたに応答していくことができますように。礼拝を何よりも大切にしていくことができますように。出会う人々を愛し、その人の幸せを願い、助けあい、歩む者とならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン