「キリストと共に」の三つの表現
説教集
更新日:2020年03月28日
東京神学大学名誉教授 近藤勝彦協力牧師
エフェソの信徒への手紙2章1節〜6節
1:さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 2:この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 3:わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 4:しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 5:罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 6:キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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人間は変われるか
人間は自分を変えることができるでしょうか。自分を変えることができなくて、悩んでいる人も多いのではないでしょうか。自分の人生を変えることは容易でないことは、誰もが知っていると思います。しかし決して変えられないとしたら、今、苦しんでいる人に救いはないことにならないでしょうか。
聖書は人間は自分や自分の人生を変えられるとは見ていません。人間が救われるのは、自分で人生を変えることによってではありません。聖書は「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と語っています。自分の過ちや罪によって死んだ状態にあったら、死んだ人間が自分を変えることができるはずはありません。その上、「この世を支配する者」、「かの空中に勢力を持つ者」の支配下にあるとも聖書は言います。「不従順な者たちの内に今も働く霊」という、何か背後で働く力に人間は支配され、押さえつけられている。それで、「肉の欲望」のままに生きてきたし、「神の怒り」を受けるべき者だったと言うのです。
それでは救いはないのでしょうか。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かしてくださった」と言います。ですから、人間は変えられます。自分では、過ちと罪とで死んだ状態であり、不従順な者たちの内に働く邪悪な霊によって支配され、肉の欲望に従っていました。自分で自分を変えることはできませんが、しかし愛によって、人間は変えられると言います。憐れみ豊かな神が、「この上なく愛してくださり」とあります。キング・ジェームズ・ヴァージョンは、「憐れみに富んでいる神の偉大な愛によって」と訳しました。イエス・キリストとその出来事に働いている神の偉大な愛、何物も私たちをそこから引き離せないとパウロが語った偉大な愛です。その偉大な愛によって、神は私たちを死んだ状態から生かされた者へと変えてくださったというのです。
これがキリスト教のメッセージです。これによって、罪に支配された「以前」と、神の愛に生かされる「今」の違いが、人生に起きたというのです。以前は死んでいました。しかし今は生かされています。
キリストと共に生かされる
この神の愛によって生かされていることを、聖書は「共に」という言葉を含む三つの表現で語っています。第一は、「共に生かす」で、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」(5節)と言われます。救いは、ひとりで生きることではありません。自分一人で生きたとして、生きるに値する人生を生きることになるでしょうか。そうでなく「キリストと共に生かされる」のです。キリストが生きておられ、そのキリストと共に生かされます。それが救われた人生です。過ちと罪で死んで、肉の欲望に従って生きることしか知らなかった者が、キリストと共に生かされています。キリストの十字架の贖いがあって、キリストに贖われた者が、贖いの主であるキリストと共に生かされます。そうしてくださるのが、神の憐れみ深い偉大な愛です。
神の愛による第二の「共に」の言葉は、「キリスト・イエスによって共に復活させてくださった」(6節)です。復活させられるのは、終わりの日に起きることとして約束されています。しかし、エフェソの信徒への手紙は、キリスト・イエスにあって共に生かされる中で、終わりの日に起きる復活が今すでに起きていると言います。すでに今、キリストと共に復活の命にあずかっているのです。将来の復活がないわけではありません。そうでなく、今すでにキリストと共に復活させられる仕方で、終わりの時の復活にもうあずかりはじめているわけです。
第一の「共に」は、「キリストと共に生かしてくださった」でした。これは分かるのではないでしょうか。主イエス・キリストが生ける主であると信じる者は、「キリストと共に生かされ」ます。第二の「共に」は、「キリストと共に復活させてくださった」です。復活はただ将来のことだけではない、もうすでに、復活のキリストと共に、復活の命が始まっています。このことも分からないことではないでしょう。特に「キリスト・イエスによって」とあるのに注意をしますと、「キリスト・イエスにおいて」(エン・クリストー)です。具体的に洗礼を意味する言い方です。洗礼によってキリストの十字架の中に入れられ、キリストに結ばれたとき、罪によって死んでいた者がキリストと共に生かされ、贖われた命に生かされたのです。そして洗礼によってキリストに結ばれたとき、生ける復活のキリストに結ばれたのであり、キリストと共に復活させられた、それが私たちの人生を変えて生かしているということです。
洗礼を受けて変わったか
私は洗礼を受けて60年になります。洗礼を受けて、お前は変わったかと問われれば、洗礼を受けた当日には何の変化もありませんでした。深い意味で変化はあったのですが、分かりませんでした。洗礼を受けて熱い喜びに打たれた人も多いでしょう。私はそうではありませんでした。その次の日も特に変化があったわけではありません。しかし今、思いますと、洗礼を受けたことで、私の人生はまったく変えられました。あのとき洗礼を受けず、その後もずっと洗礼と無関係なものとして生きてきたら、どうなっていたか、私には分かりません。分かることは、イエス・キリストを知らず、神を知らず、神の偉大な愛も知らず、礼拝の生活も、祈りも知らなかったでしょう。神の召しも知らず、それゆえ人生の使命も知らず、希望も持たず、肉の欲望以外に何もなく、キリストと共に復活の命に生かされることはなかったでしょう。洗礼によってキリストと共に生かされ、すべては変わりました。今日あるのは神の恵みによると言うほかありません。
第三の「共に」
―キリストと共に天の王座に―
第三の「共に」は、「キリストと共に天の王座に着かせてくださいました」というのです。私は、この驚くべき御言葉を今までしっかりと受け止めてきませんでした。これはエフェソの信徒への手紙に特有な表現ではないでしょうか。キリストに結ばれ、キリストと共に生かされ、死から命へ移されたことは、他の聖書箇所にも記されています。洗礼がゴルゴタのイエスの十字架にあずかると共に、その主の復活の命にあずかることも、説教の中で幾度も語られ、聞かれてきたでしょう。それによってこれまでの過ちや罪からの解放があることも語られてきたと思います。しかしこの第三の「共に」はどうでしょう。キリスト者として生かされている者は、キリストと共に生かされ、キリストと共に復活させられ、それゆえにキリスト・イエスにあって、「共に天の王座に着かせていただいている」というのです。これはもう相当のことです。これ以上のことはないでしょう。「神の子とされた」のは、こういうことであったのかと思わされます。そうであれば、この世を支配するどんな邪悪な霊があっても問題にはならないでしょう。空中に勢力を持つ者、不従順な者たちの内に今も働く霊があっても、何も脅かされたり、屈したりすることはないでしょう。キリストにあって「天に本国がある」と聞かされてきました。さらに「キリスト・イエスにあって共に天の王座に着かせていただいている」。それは、キリストが世界の王であり、その王なるキリストの勝利に、私たちはあずかっているということでしょう。キリストと共に生かされる恵みの中には、キリストの勝利にあずかり、キリストの王的支配にあずかることが含まれています。謙遜に、しかし確信をもって、この御言葉を受け入れて生きていきたいと思います。希望と勇気が湧いてくるのではないでしょうか。