「共に生きる生活」
説教集
更新日:2025年04月06日
2025年4月6日(日)受難節第5主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村 満
ヨハネによる福音書 13章1節~20節
01 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。02 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 03 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 04 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 05 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 06 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 07 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 08 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 09 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模1範を示したのである。 16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。 17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。 18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。 19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。 20 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日私たちに与えられた御言葉は、主イエスの洗足の箇所であります。この、主イエスが弟子たちの足を洗ったという記は、福音書の中ではヨハネによる福音書だけが記しております。そしてそのあとに主イエスが、愛することの模範として行われたがゆえに、「愛の戒めの木曜日」とも言われております。ここに、主イエスが十字架におかかりになる深い決意の中に、主に選ばれた人々。教会に対する愛がどれほど深いものであるかということが語られていると思うのです。
1, 弟子たちをこよなく愛された主イエス
「さて、過ぎ越し祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」この御言葉の中に、主イエスがどれだけわたしたちを愛してくださったかということが読み取れると思うのです。
このとき、主イエスは、イスカリオテのユダが間もなく御自分を裏切ることをご存じでした。また、ペトロがご自分のことを三度も知らないと呪いの言葉さえ吐きながら否むことをもご存じでありました。主はペトロのことを愛して、いつも一番弟子として共に歩んだということは有名ですが、イスカリオテのユダのことも愛していたでしょう。ですからユダが御自分を裏切ること。祭司長たちに御自分を売るようなことをすることを深く悲しまれたでしょう。しかしそれでも、きっとユダのことをも愛し抜かれたのであります。
主イエスが愛し抜かれたユダであるにもかかわらず、なぜ主イエスから離れていったのか。なぜそのまま救いから外れることとなったのか。それはわたしたちにはわからない秘儀であります。そしてこのユダの裏切りによって主イエスは祭司長や大祭司に引き渡され、ローマ総督ピラトの下で十字架刑に処せられる。弟子の裏切りという痛ましい出来事もまたわたしたちの救いのために用いられたのであります。
主イエスはしかし、最後まで弟子たちを愛し抜かれました。途中で愛想をつかして、もうお前たちのような不信仰な者たちは見限った、とは言われなかったのです。そして、この主イエスの愛は、この最後の晩餐のときにいた弟子たちだけではない。この御言葉を聴く、全ての時代の教会の人々がそこに含まれていると言えるのです。
この「世にいる弟子たち」という言葉。口語訳ですと「世にいる御自分の者たち」という訳であります。イエス・キリストの者とされる。わたしはもう私自身のものではない。イエス・キリストのものとされている。これこそが、わたしたちキリスト者の最大の慰めなのであります。ペトロも、その他の弟子たちも、途中で裏切ったり、恐ろしくなって逃げてしまう。そういう弟子たちであったにもかかわらず、主イエスは最後まで愛し抜いて、御自分のものとしてくださった。そしてご自分の者と決めた彼らのために、主イエスはこれから十字架におかかりになるのです。
わたしたちが信仰生活を歩んでいく中で、わたしたちの信仰の篤さで主イエスに従って行かなければ、主イエスに置いていかれる。あるいは見放される。だからわたしたちは自分の信仰を頑張って守り通さなければならない。そう考えると信仰生活は辛いものになります。自分の救いが自分にかかっているのですから。しかしそうではないのです。
ご自分の者たちを愛し抜かれた。それゆえに十字架におかかりになり、死んで復活してくださったのです。このキリストの愛。ご自分を裏切る弟子たちを愛し抜いてくださり、今も決してお見捨てにならない愛。その愛の中に今わたしたちは生かされている。このキリストのものとされているということを受け止めていきたいのです。その恵みに気付かされるとき、私たちの内に、神を愛し、従う心が育まれていくのだと思うからです。
2, 遠慮するペトロ
その、主イエスの愛の御業が、このあと始まる弟子たちの足を洗うという行為によって表されます。食事の時であります。主イエスは、立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。そしてたらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗っていきました。それを一人一人の弟子たちに、丁寧にしていきました。もちろん、イスカリオテのユダの足をも洗ったのです。このことは弟子たちにとって、とくにペトロにとって本当に驚きであったようです。
初め、ペトロは遠慮してこう語ります。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか?」と。ペトロが驚くのも無理はありません。足を洗うと言う行為は、この当時、奴隷が主人にするという、最も下の位の人間のする奉仕であったからです。それを、先生であり、神の御子、主と仰ぐ主イエスが上半身裸で、ごしごしと自分の足を洗ってくださるなどもったいなくて、申し訳なくてとんでもないとペトロは思った。これは人間の自然の思いであると思います。そこでペトロは言います。「わたしの足など決して洗わないでください」と。すると主イエスは言われます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と。
主イエスが弟子たちとかかわりを持ってくださるということ。それは、何よりも、彼らに仕えるということを通してであると言うのです。人と人とのかかわりにはさまざまな形があると思います。親と子の関わりには、親には親としての厳しさがあり、教育する姿勢があります。上司と部下の関わりでは上司は部下に命令する権限があります。それは仕えるのではなく、むしろ相手に従順や服従を求めるところがあります。しかし主イエスは、だれよりも権威あるものでありながら、弟子たちの足を洗うという行為を通して、仕える者としての姿勢を貫いてくださったのです。このように、一番下で仕えることを通して、愛するということの模範を示してくださったのです。
そして、それは、今も、聖霊を通して主はわたしたちに仕えてくださっている。私たちを助け導いてくださっている。その意味で、神は私たちに仕えてくださっている。その神に、わたしたちも仕えていくのであります。わたしはよく思います。神様はわたしなんかによく仕えてくださるなあと。コリントの書でパウロがこう語ります。わたしたちは神の神殿であると。つまり神は私たちの内に来てくださっている。私たちの内に生きてくださっている。にもかかわらず、わたしたちの心はなかなかきれいにはなりません。主イエスがわたしたちの内に来てくださって少しずつ清めてくださっているから、聖化されて、少しずつ、清くなっていくのです。
けれども、その霊的成長は遅く、三歩進んで二歩下がる、というようなものではないでしょうか。相変わらず、愚かで、あらゆる罪をなかなか捨てることができないのです。だから時々思います。わたしのようなものの内によく聖霊が来てくださっているなあ。嫌になるんじゃないだろうか、と。でも祈っていて、主の霊の臨在を感じるとき、やっぱり主はわたしの内に生きてくださっていると確信することがあります。主がわたしの祈りを聞いてくださっている。心を慰めてくださる。道を示してくださる。そういうことが実際にある。ときに、厳しく叱られることもありますが、その懲らしめによってわたしたちは打ち砕かれて、新しくされる。神の子どもとして扱われていることを信仰生活の中で知らされる。そのように神様はいつもわたしたちに仕えてくださっている。そんな神様に、わたしたちも従って行くのです。
3, 洗足の意味
さて、主イエスが、一人一人の弟子たちの足を丁寧に洗い終えた後、弟子たちにこのように語られました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」主イエスは、私たちに、愛するということの模範を示してくださいました。
一つには愛し抜くということです。愛することを止めない。あきらめない。どんなにダメに見える人であっても、不信仰に見える人であっても、私たちは裁くのではなく、愛することが求められている。
もうひとつは、一番下で仕えるということです。へりくだって、仕えるということです。これは、さあ、そうせよ、と言われてすぐにできるものではないと思います。しかし、このために、主イエスが、わたしたちの足をも洗ってくださったのです。主が今も仕えてくださっているのです。
そしてこの愛の模範を示された後、十字架に身をささげてくださいました。弟子たちのために。そして救われるべき全ての人々のために、十字架におかかりになることによって、自分を捨てて最後まで仕え切ってくださったのです。その主イエスが、わたしたちに命じられる。「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と。そのようにわたしたちは、お互いに仕え合っていく。支え合っていく。共に生きる生活の中で、信仰生活を共にする人々のことを、心にかけていきたいのです。
お祈りをいたします。
祈り
天の父なる神様。洗足の木曜日に示された、弟子たちへの尽きることのないあなたの愛を知らされて心より感謝いたします。ふがいない弟子たちを愛し抜かれたキリストの愛が、今わたしたちにも注がれていることを信じて感謝いたします。主イエスが弟子たちの足を洗ってくださいました。今もわたしたちの足を洗ってくださる。わたしたちに仕えてくださる。そのような主に導かれてわたしたちも、隣人に仕える者とならせてくださいますように。受難節の歩みの中で十字架の主を仰ぎつつ、わたしのために主が死んでくださったその愛の深さを知る者とならせてください。銀座教会に連なる全ての兄弟姉妹の上に主が恵みをもって伴ってくださいますように。悩みを抱えておられる兄弟姉妹の上に。病床にある兄弟姉妹の上に。癒しと慰めが豊かにありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン