銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

「初めであり、終わりである神」

説教集

更新日:2025年04月26日

2025年4月27日(日)復活節第2主日礼拝 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 副牧師 岩田 真紗美

ヨハネの黙示録22章12~21節

 復活節第二の主の日を迎えました。今日は新約聖書の一番最後の書物、『ヨハネの黙示録』の御言葉をご一緒に聞いています。先週は主のご復活、イースターを共々にお祝いしました。復活された主イエスが私たちの所に再び来てくださる「再臨の日」、「終末の時」について、主イエスご自身が語っておられるのがこの『ヨハネの黙示録』です。
 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」と主は、言われます。黙示録の「黙示」というのは、そもそも神さま御自身が、御自分のことを諸教会に対して明らかに示される、その内容を指す言葉ですから神さまは今、この聖書正典66巻の最後の文書において、御自分がすべての出発点であり、また同時にすべての終着点であることを「花嫁」(黙 22:17)である私たち教会に示されたのだと言えます。
 先週漸く復活の喜びを共に味わったところですのに、主の昇天日やペンテコステを飛び超えてどうして今日は『ヨハネの黙示録』に聞くのかと疑問に思われる方があるかも知れません。しかしそれは、お手元の週報をお開きになると分かるのですが次主日から私たちの教会は『創世記』に始まる旧約聖書の御言葉に聞いてまいりますので、このような順番で福音主義教会連合の先生方が計画を練ってくださったのではないかと察します。来月から銀座教会では大人も子どもも『創世記』に始まる旧約聖書を主日毎にお聞きします。ですからその前に、世界の、と申しますか、この地上だけではなく天上のすべてを含んだ「世」の終わりの「黙示」を、主イエス御自身の口からお聞きすることで、一層旧約聖書が語る天地創造の御業に私たちの信仰の眼が開かれていくことを、聖霊なる神に教会は願うのです。この世の土台を据えられたのが三位一体の神さまであられるならば、その世の終わりの時もまた主の御手によって、神さまがご計画される摂理に基づいて迎えられることになるのです。そこで本日は、ローマ帝国の迫害の中で苦しむ諸教会に対して、天から主イエス・キリストがお与えになった黙示録を、私たちは自分たちの教会に与えられた御言葉として味わいたいと思います。
 「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」(13 節)とイエスさまは言われます。天地創造の頃に既に、父なる神と聖霊なる神と共におられた子なる神である主イエスは、最初におられて後は人間の思うままに世をお任せになる無責任な神さまではありません。そうではなく、終末の、約束されたその最後の時まで、いつ如何なる時も常に私たち教会と、花婿と花嫁のような愛に溢れた自由な、何にも代えがたい豊かな関係を保ってくださっています。その関係において主は諸教会と共に手を取り合って、生き生きと生きてくださるのだという事を御言葉ははっきりと、聖書正典の末尾でまとめとして語るのです。事の始まりである『創世記』の第1章が「地は混沌であった。」(創 1:2)と語るしかない深い「闇(同)の中で、支離滅裂に物質が入り乱れた「混沌」との闘いで始まりながら、この世の最後の時を語る『ヨハネの黙示録』は豊かな終末の、平和に満ちた恵みの時で結ばれています。私たちの心の中に渦巻く、まさに「混沌」としか喩えようのない「闇」のようなあらゆる罪と死を、十字架によって完全に滅ぼしてくださった主イエスが、再びこの世にその御姿を現してくださることを教会は、花嫁が花婿を待つようにして、一刻も早く「来てください。」(黙 22:17)と願い祈りながら待つのです。「自分の衣を洗い清め」(同 14)て待つのです。そのように抜かりなく調えながら、あのマタイ福音書でお聞きした「賢いおとめ」(マタイ 25:1-13)のようにして、希望を持ってその時に臨めと聖書は命じます。私たちの「希望」が何故この「終末の時」にあるのかと申しますと、それはこの時に至れば玉座から主が語られる通りの、新しい天と新しい地がここに現れるからです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。」(黙 21:3-4)と、「万物を新しくする」(同 5 節)約束された主が、お言葉通りに確かにこの世に、全く新しい時と場所と被造物を植えてくださるのです。
 「もはや死も労苦も涙もない」そのような平和に満ちた神の国が必ず来るのだということを、主イエスは約束してくださっています。十字架の上で主が私たち全ての罪の贖いのために、非常に人間の言葉では喩えることができないほどの激しい痛みと苦しみとをこの「私」に代わって受けてくださって、陰府に降り、三日目に復活してくださったが故に、罪と死は完全に滅ぼされました。そしてその主が、天に昇られて神の右の座に着座なさったからこそ、私たち教会は終わりの時に向かって毎日礼拝をおささげしながら、「マラナタ、マラナタ」と讃美の歌声を高く響かせつつ希望を持って、何の苦しみもないその主の再臨の時を待つのです。最後の審判が開かれて神の御前に進み出るそのキリストの再臨の時に、教会がこんなに明るく希望を持って臨む事が許されるのは、よみがえりのキリストが既に私たちの心の中に渦巻くあらゆる罪を完全に滅ぼされて、洗礼の恵みに与った者に新しい「義の衣」を着せてくださっているからです。使徒パウロが第一コリント書の中で告げているように、「最後のラッパが鳴ると共に(中略)死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、死よ、お前のとげはどこにあるのか」(一コリ 15:52-58)と、死の「とげ」である罪に対してクリスチャンは堂々と、主の口から宣言される「この者は義である」という言葉によって勝利を与えられるのです。「蒔かれるときは卑しいもの」であったのに、「輝かしいものに復活」(同 15:43)し、「天に属するその人」、つまりキリストの「似姿」になるのです。
 復活の主への申し訳ない思いや主においていかれてしまった寂しさを抱えて取り敢えず漁に出た弟子たちのことを先週私たちは主日礼拝でお聞きしました。そして今日、黙示録からお聞きするようにそのような人間の心の空模様は、再び曇ったり、霧のような憂いが射すことは一切ないと聖書は告げています。本当に爽やかさ100%で、その先は「神の幕屋が人の間にあって、神は自ら人と共にいて、その神となり、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙 21:3-4)のですから、永遠に新しい命に満ちた新しい霊と肉で、主と共に歩めるのです。主イエスの名によって洗礼を受けて罪の赦しを授けていただいたすべての者には、裁きの座におられる主ご自身が「義である」、「正しい者である」と宣言を与えてくださるのです。そこが非常に大きな恵みの神のご慈愛であって、「大胆に恵みの座に近づこうではないか」とヘブライ書が4章 16 節で喜び勇んで綴っている通りなのであります。黙示録のこの恵みの御言葉を聞いていた当時の教会は、ローマ帝国からの激しい迫害のさなかにありましたから、「主よ、来たりませ」と祈り歌いながら神を讃美する礼拝をささげ続けることで、日々の苦しみも嘆きも、精神的、肉体的な重荷もすべて神の御手に委ねました。そして主の口からの「わたしはすぐに来る」という言葉を聞いて、心の底から光が射しこんでくるような励ましを受けたのです。
 本当に苦しい時に人間は、「苦しい」と叫ぶことも、「魂が渇いている」と言うことも出来ないものです。心も魂も萎え果てて、助けを求める力すらない、そのような時であっても、主は私たちの嘆きに身を寄せて「渇きを覚えている者は、来るがよい。価なしに飲むがよい。」と言ってくださいます。この黙示録の言葉の源となった『イザヤ書』55 章の御言葉は、本日の礼拝の招きの詞でご一緒に聞きましたが、バビロン捕囚のさなかにあっても、主が民を見放さずに養い続けてくださったことを伝えています。教会は今日も、この主の愛の御腕の中に抱かれた幼な子のように、心から平安に満たされて、安心のうちに祈り合って過ごすのです。お祈りをいたします。