「私を強くしてくださった主」
説教集
更新日:2020年04月03日
2020年2月9日 公現後第5主日 夕礼拝説教 藤田 健太伝道師
テモテへの手紙一 1章12~20節
12:わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。13:以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。14:そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。15:「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 16:しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。17:永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
18:わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、 19:信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。20:その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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新約聖書テモテへの手紙は「信仰継承の手紙」であると言えます。「キリスト・イエスの使徒となったパウロ」から「信仰によるまことの子テモテ」に宛てて書き送られた手紙です。パウロはテモテのことを「信仰によるまことの子」と呼びます。パウロとテモテの間には、いわゆる血縁関係はありません。「血縁」によってはなく「信仰」によって、テモテは彼の「まことの子」であると言われます。手紙の冒頭から、信仰による「親子関係」のおおもとには「父である神」と「主イエス・キリスト」の関係があることが推察されます(1章1~2節)。先ほど礼拝の中で「主の祈り」が献げられました。主イエス・キリストが教えてくださったこの祈りは「天にましますわれらの父よ」と始まっていました。主イエス・キリストが与えてくださった「信仰」によって、わたしたちもまた神さまに「父なる神よ」と呼びかけることができるようになりました。信仰による「親子関係」のおおもとには、「父である神」と「主イエス・キリスト」の関係があるのです。パウロとテモテも私たちも、その「父」と「子」の信仰による繋がりの中に入れられています。私たちの時代は“個人化”の時代であると言われます。「信仰」によって形づくられる教会の交わりに、“個人化”の閉塞状態を打ち破る力があると思います。
本日の箇所には「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています」とあります。それからしばらくパウロは自分のことについて語ります。キリスト教の熱心な迫害者であった自分、「神を冒瀆する者」であった自分、「迫害する者」、「暴力を振るう者」、「罪人の中で最たる者」であった自分、そんな自分を神さまが赦し憐れんでくださったことが語られます。このようなパウロを神は「忠実な者」とみなしてくださり、人々の「手本」となるように「使徒」の務めに着かせてくださったと語ります。―それら全てのことについて、パウロは簡潔に、「主はわたしを強くしてくださった」と語ります。そしてそのことを思う時、パウロは神さまに感謝せずにはいられなかったのでした。
パウロの関心は今や「テモテ」へと移ります。「あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい」とあります。―テモテは教会の指導者として、長老たちから「按手」を受けました。その時の様子について、4章14節に次のような言葉があります。「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。」私たちにはそれぞれ仕事があります。やり遂げなければいけない務めがあります。その務めをやり遂げる「力」は神様から与えられます。「恵みの賜物」というのはそのことです。教会員を役職に任じる時、私たちは礼拝の中で「任職式」を行い、聖書に記された御言葉を読み上げます。これが「預言」であると言えます。読み上げられた御言葉によって、私たちは自分の働きが神様の力ある言葉によって支えられていることを知ります。教会の指導者になったテモテの働きも、この「預言」によって支えられていました。「その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい」とパウロは語ります。
「わたしを強くしてくださった主」がテモテを「力づけ」、「雄々しく戦う」ことを可能にしてくださると激励します。「信仰によるまことの子」=テモテに残すことのできた最大の「遺産」は御言葉による励ましでした。
「信仰によるまことの子」と呼ばれたテモテが、エフェソの町の監督を務めたことには大変な意義があったと思います。1章3節には、次のようなパウロの言葉があります。「―マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。」「作り話」というのは「神話」のことです。「神話」のなかでは神々の系図が延々と伝えられます。神々の世界というのは言うなれば「巨大な家系図」のようなものです。ギリシャ神話の場合、最高神であるゼウスを頂点として、その下に森羅万象あらゆる神々がひしめき合います。当時のエフェソの町には5つの神殿がありました。1つはエジプトの神々に、2つはローマの皇帝に、残りの2つはギリシャの神々に、とりわけ子孫繁栄や豊かな財産を保証するとされた女神アルテミスに捧げられました。アルテミス崇拝は、エフェソの文化的な中心であり、主要な経済源でもありました。女神アルテミスは神話の世界ではゼウスの娘であり、アポロの姉妹であるとされます。「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように気をつけなさい」という言葉の背後にはエフェソの町の宗教的背景が関係していたと思います。また「異なる教え」という言葉の背後には「グノーシス」の通称で知られる異端的な教えがあったかもしれません。
パウロはテモテに次のような忠告を与えます。「このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。」「巨大な家系図」のような神話の町エフェソに「信仰によるまことの子」=テモテがやって来たのです。パウロはテモテに対して、エフェソの教会の人々が神話の世界の無意味な詮索に耽らないよう指導をおこなうよう勧めます。リュストラの町に生まれ、祖母や母の信仰を受け継ぎ、パウロの良き理解者として各地で宣教し、長老たちの「按手」によって監督の務めへと任じられたテモテでした。「信仰」によって、テモテは祖母や母だけでなく、パウロからも「まことの子」と呼ばれるようになりました。何より、父なる神さまご自身がテモテを「まことの子」と見なしてくださいました。「信仰によるまことの子」として神さまがテモテを受け入れてくださったのです。自分の人生が神さまに受け入れられていることを知る人は、神話の世界の「無意味な詮索」に逃げ込む必要はありません。そのような世界に逃げ道を求めなくとも、その人の生涯それ自体が神様によって肯定され、受け入れられていることを知っているからです。テモテの務めは、エフェソの人々もまた神様によって受け入れられている、彼らもまた「信仰によるまことの子」であることを伝えることでした。ギリシャの神々のもたらす「豊かさ」とは異なる真の「豊かさ」を伝えるため、テモテはエフェソの町にやってきました。その困難な仕事を成し遂げることができるように、パウロは「信仰の父」としてテモテに激励の言葉を送りました。
「パウロとテモテ」の関係は旧約聖書の「モーセとヨシュア」の関係に似ています。信仰の生涯に終わりが近づいたことを悟ったパウロは「信仰の子」であるテモテに向けて励ましの言葉を送ります。「預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい」。約束の地を目前に死ななければならなかったモーセもヨシュアに励ましの言葉を送りました。「強く、雄々しくあれ。…主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。」「パウロとテモテ」、「モーセとヨシュア」に共通するのは「信仰の継承」のテーマです。神さまはいつの時代も、信仰の灯が消えないよう導いてくださっているのです。
神さまは教会の兄弟姉妹たちとともに、私たちを「信仰によるまことの子」と見なしてくださいます。「神様のまことの子」として歩むところに私たちの人生の「豊かさ」があります。人生の中では時に「無意味な詮索」に陥ってしまうこともあります。けれども私たちの生涯には、「信仰によるまことの子」という決定的な意味が付与されています。
モーセはヨシュアを、ヨシュアはイスラエルの民を、パウロはテモテを、テモテはエフェソの信徒たちを励ましました。願わくは私たちも兄弟姉妹に対して「あなたも神さまのまことの子なのだ」と伝えてゆけるようになりたいと願います。主はそのために、私たちを「強くして」くださいます。