「復活の主に近寄り、ひれ伏す」
説教集
更新日:2020年04月11日
2020年4月12日(日)復活日(イースター) 主日礼拝 髙橋 潤牧師
マタイによる福音書28章1~10節
1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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本日は、主の復活をお祝いするイースターです。十字架の上で息を引き取られた主イエスのご遺体は、ヨセフという議員に引き取られ、きれいな亜麻布に包まれてヨセフの新しい墓に納められていました。
安息日の土曜日の日没後、夜が明けた時の事でした。マグダラのマリアともう一人のマリアは、主イエスが収められた墓を見に行きました。
すると、地震が起こり、大地が揺れました。
主イエスが十字架で大声の祈りをして息を引き取られたときも地震が起こりました。この十字架の地震に続いて、再び大地が揺れたのです。
マタイによる福音書が強調していることは、主イエスの十字架と復活は、地球の大地が大きく揺れ動く出来事であったということです。
主イエスの十字架の時、地震によって「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と記されています。そして次の地震の時には、主の天使が出現し、天使の声を聴きました。
「恐れることはない…あの方は、ここにはおられない…復活なさったのだ」と。
主イエスの復活の出来事は、大地が揺れ動く重要な出来事であることを地上の人々は天使によって知り、同時に身をもって経験したのです。天使の姿は「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります。旧約聖書のダニエル書に姿を現した大天使を思い起こさせます。この天使の出現によって、神さまが主イエスの墓に決定的な介入を実行したことが宣言されているのです。
主イエスの墓の前にどんなに強い兵隊が立ちふさごうとも、人間の知恵と力では主イエスの復活を妨げることは出来なかったということが示されています。人間の力を遙かに超えた圧倒的な神の力がここに臨んでいることを示しています。そして、この出来事は、神の御前に人間がいかに無力であるかが明らかにされたのでした。主イエスの復活は、人間の力が全く及ばないような神の御力による出来事だったのです。それが主イエスの復活の出来事です。人間は恐怖のあまり、震え上がり死人のようになったと記されているとおりです。
主イエスの母マリアは、どのような気持ちで愛する息子の遺体をさがしたでしょうか。私の息子はどこにいるのか、十字架刑というむごい仕方で殺された愛する息子を墓の中に捜しているのがマリアたちです。しかし、主の天使は語りました。
5 節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
天使はマリアたちに墓の中を見なさいというのです。マリアたちの悲しみと恐れの墓を指し示して、主イエスはここにおられないことを教えるのです。
主イエスの復活とは、悲しみと絶望の墓を見つめ続ける者の心と体の方向を転換させる出来事なのです。マリアたちが墓に向かって歩いてきた道、墓の中を見ていた目、墓の中に愛する主イエスを捜していた心を、全く別の方向へ向ける出来事なのです。私たちが今まで見ていた方向は、間違っていたのです。
天使は「恐れることはない」と語りかけています。直訳すると「あなたがたは、恐れるな」となります。「あなたがたは」という言葉が原文にはあります。それは一つには、番兵たちとは違ってあなたがたは、ということでしょう。番兵たちは、地震が起こり墓をふさいでいた石が転がされたことで、幽霊に遭うような恐怖を感じていました。しかし、あなたがたはそのように恐れることはない、といってくださっているのです。しかしさらに大切な意味を読み取ることが出来ます。それは、神様がマリアたちに「あなたがた」と語りかけておられる、神様がマリアたちを顧みているのです。マリアたちを見ているのです。主イエスを捜している者に直接声をかけてくださるのです。神様が私たちに、「あなたがた」と語り掛け、そして「恐れるな」と言って下さっているのです。
この言葉は、イースターの朝、私たちの教会に語りかけられている言葉です。
天使は、主イエスの墓が空であることを見なさいといいます。更に、主イエスを墓の中に探すのではなく、先に「ガリラヤ」におられ、そこで「お目にかかれる」と告げ知らせています。ガリラヤとは主イエスが伝道した場所です。すなわち、弟子たちにとっては、信仰の原点です。主イエスは先にガリラヤで待っていてくださるというのです。弟子たちは取り返しのつかないことをしてしまったと思い込んでいました。人生の挫折を経験していました。そのような者に、もう一度やり直そうと信仰者に敗者復活戦を与えるといってくださっているのです。弟子たちやマリアたちにガリラヤからもう一度、伝道しよう、もう一度やり直そう、もう一度一緒に歩こうと言って下さっているのです。
イースター復活の主イエスは、私たちにもう一度、信仰者としての歩みを再出発する時と場を用意してくださったのです。
主イエスと一緒に信仰生活、教会生活を始める場所に招かれているのです。
この御言葉は、現在の私たちにとってガリラヤは銀座教会です。銀座教会は創立130年を迎える2020年。はじめて、教会の決断として、すべての礼拝を自ら中止する苦渋の決断をいたしました。神さまの守りと導きがどこにあるのか見えない思いを与えられてきました。礼拝を中断するという、経験したことのない決断をしました。神さまの前に祈りつつ、御心を求めつつ、苦渋の決断をしました。喜びのイースター礼拝を中止しました。今や、共に集まり一緒にイースターの礼拝を献げることが新型コロナウィルス感染から身を守るため、中止しました。この苦しみの中に置かれています。教会がバラバラになっている現実の中で、心は一つになっていることを疑うものではありません。
そのような恐れの中に墓を見つめている私たちに、主の天使は、見るところが全く違うとを教え示しているのです。私たちは今、墓だけを見ています。そのような私たちに対して、墓ではなくガリラヤに目を向けなさいと語られている言葉に謙虚に耳を傾けなければなりません。ガリヤラで復活の主イエスともう一度やり直すという、思いがけない招きの言葉が聞こえてきているのです。
聖書は、主イエスの肉体がどのように生き返ったかということには関心を持っていません。復活とはそういうことではないのです。主イエスの復活とは、主イエスが墓の中にはもういないということに気付かせ、主イエスが復活し、生きたお方として私たちに出会って下さるのだと告げているのです。それが主イエスの復活の最も大切なことなのです。
主の復活を知らされた婦人たちは、「恐れながらも大いに喜び」ました。ただちに墓を立ち去り、弟子たちに知らせに走りました。婦人たちは、復活の主イエスに「近寄り」、主イエスの「足を抱き」、「その前にひれ伏した」のです。この姿勢こそ復活の主の御前に立つ者の模範的姿勢です。
私たちが家庭礼拝を献げているこの姿は、主の御前に立者として、相応しい姿なのです。復活の主と共に生きる姿勢なのです。
婦人たちに出会って下さった主イエスは、「おはよう」と声をかけられました。「おはよう」はギリシャ語ではカイローという言葉です。この言葉は、「喜べ」という意味をもっています。おはようとかごきげんようなど日常生活の挨拶の言葉として用いられていました。それゆえに、「おはよう」と訳されています。しかし、この言葉に込められている大切な意味として「喜べ」という意味を受け取りたいと思います。復活の主イエスが、私たちに出会ってなんといって下さるのか。一言で言うなら「喜びなさい」なのです。
主イエスはさらに、天使たちが告げた言葉をもう一度語っています。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。
天使の告げた「恐れるな」と共に、復活の主イエスは、弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼んでくださいました。
弟子たちと呼ばれるのと兄弟たちと呼ばれるのとどっちがうれしいでしょうか。天使は「彼の弟子たち」と語っていました。そこにも、神様が、つまずき裏切った彼らをなお主イエスの弟子と呼んで下さっていることにも恵みが満ちていると思います。しかし、主イエスはさらに「わたしの兄弟たち」と呼んで下さったのです。私の兄弟とは、弟子として十分でなくても、主イエスの家族でいられる安心感があります。私たちは復活の主イエスの家族の一員として招かれているということです。
これこそ、今朝私たちに対して与えられている大変うれしい法外な愛の言葉ではないでしょうか。
こういう発見が聖書を読む醍醐味です。主に招かれなかった時の私たちは、主イエスに従いきれない裏切り者であり挫折した者でした。私たちは信仰において主の弟子と呼ばれることさえ相応しくない者です。十字架の下にいて主イエスをののしり嘲る者らと同じ穴の狢です。そのような私たちを、復活の主イエスは、弟子である以上に、「わたしの兄弟」と呼んで下さったのです。私たちの罪のゆえに十字架にかかり、復活された主イエスが、罪を赦して下さり、復活の主イエスの家族の一員として再び招き入れて下さったのです。私たちは自分の罪の精算のために何もしていない者です。にもかかわらず、一方的なこれ以上ない恵みの言葉をくださり、その上で「喜びなさい」とお語りになってくださったのです。
私たちは2020年イースターを迎え、素直に主にあって喜びましょう。復活の主イエスの愛のご命令に従って、「喜びましょう」。ここに復活の主イエスとの新しい出会いが与えられます。それが礼拝です。私たちは礼拝を通して喜びましょう。復活の主イエスと出会う者は、復活の主イエスに近寄り、ひれ伏し、恐れと喜びの礼拝をすることによって共に歩き直し、主イエスにお従い出来るのです。
祈祷
天の父なる神さま。十字架に架けられた御子イエス・キリストが私たちのために苦しんで死んでくださいました。私たちは死によって支配されている者でありましたが、死に勝利したキリストが復活されたことを知らされています。復活のイエスさまの御前に近寄りひれ伏す恵みを感謝いたします。
復活の主イエスを一人でも多くの方々に伝えることができるようにお導きください。
主イエスの御名によって祈ります。
アーメン