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銀座の鐘

「美しい門の出来事」

説教集

更新日:2020年04月26日

2020年4月26日(日) 復活節第3主日 銀座教会 主日家庭礼拝 藤田健太伝道師

使徒言行録3章1~10節

 エルサレム神殿の「美しい門」と呼ばれる場所について、はっきりしたことはよく分か っていません。ヘロデ王が新しく建てた神殿の門は、高さおよそ25メートル、金や銀の装 飾がふんだんに使われ、コリント様式の豪奢な造りをしていたことが分かっています。歴 史的に判明しているのはその程度です。いずれにせよ、エルサレム神殿の門が「美しい門 」と呼ばれるのは、聖書のなかでも、本日のこの箇所だけです。

 敢えて想像力をはたらかせて申し上げるなら、こんなことが言えるかもしれません。使 徒言行録に収められた、本日のこの物語のゆえに、この門は「美しい門」と呼ばれるよう になったのではないか。使徒たちによる「癒し」の物語を通して、この門ははじめて「美 しい門」と呼ばれるに値する門となったのではないか。―そんなことを思い巡らしながら 聞いてみると、本日の聖書のお話が、大変印象的なお話として聞こえてくるのです。
 エルサレム神殿の門を「美しい門」たらしめた出来事は、「キリストの名による癒しの 出来事」です。キリストによって癒された使徒たちによる癒しの出来事です。キリストに よって癒された使徒たちが他者を癒す者へと変えられ、他者を癒した出来事です。

 生まれながら足の不自由だったそのひとが、「ナザレの人イエス・キリストの名」によ って立ち上がり、神を賛美し始めました。主イエス・キリストを賛美しながら、使徒たち のあとに続き、神殿の門をくぐりました。「美しい門」は言わば、キリストの名による癒 しの出来事を目撃した最初の証人となったわけでした。
一行が門をくぐると、神殿の中で他の参詣者たちが礼拝をささげていました。参詣者た ちのなかには、門をくぐる前、足の不自由だったそのひとにいくらかの金銭を与えた人た ちがいたと思います。生活困難な者に施しを与えることは、当時のユダヤ教で主流を占め たパリサイ派において、とりわけ敬虔な行いとして評価されました。足の不自由なそのひ とに金銭を与え、パリサイ的な敬虔を示した参詣者たちもまた、キリストの名による癒し の出来事の証人となりました。

 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」―使徒がそう言って、そ のひとに与えたのは、金や銀にまさる何かでした。参詣者たちがそのひとに与えることの できなかった何かを、使徒はそのひとに与えました。それは「キリストの名による癒し」 でした。かつてキリストによって救われ、癒された使徒は、今や「キリストの名」によっ て、他者を癒すことのできる者へと変えられました。「ナザレの人イエス・キリストの名 によって立ち上がり、歩きなさい!」―キリストの名による癒しこそ、私たちが他者に与 えることのできる最大の施しです。
 
 足の不自由なそのひとに向かって、「わたしたちを見なさい」と使徒は言います。「わ たしを見なさい」と自信満々に言える人は、そんなに多くはないと思います。人に誇れる ほど「美しく」もなく、人に誇れるほど「金」や「銀」を持ちません。それにも関わらず 、使徒はそのひとに向かって、「わたしを見なさい」と言いました。「わたしを見なさい 」というのは「キリストに癒していただいた、わたしを見なさい」ということです。もっ と言えば、「わたしを通して、キリストを見なさい」ということです。さらに言えば、「 キリストの名によって、あなたも癒されなさい」ということです。突き詰めて言えば、「 キリストによって、あなたも他者を癒す者へと、変えられなさい」ということです。
 
 するとその人は立ち上がり、使徒たちに続いて神様を讃えながら門をくぐりました。そ の光景を目の当たりにしたことで、参詣者たちもまた、キリストの名による癒しの出来事 に加わりました。癒されたそのひとは、参詣者たちに、キリストの名による癒しを伝えま した。キリストの名による癒しが、使徒からそのひとへ、そのひとから参詣者たちへと広 がりました。主の癒しが人々に広まっていく光景に「美しさ」があります。旧約聖書のイ ザヤ書が次のように伝える通りです。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知ら せを伝える者の足は。」神殿の門は、この出来事のゆえに「美しい門」と呼ばれるように なったのでした。

 「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」―朝・昼・夜にさ さげる3度の祈りと、神殿への参詣は、使徒たちの日常の営みでした。「美しい」という言 葉を使うのは、どこか気恥ずかしい印象があり、日常では、あまり使い勝手のよくない言 葉と感じられてしまいます。しかし、キリスト者の日常には、「キリストの名による癒し 」があり、その喜びが人々のもとに広がっていく「美しさ」があるとされます。わたした ち、キリスト者の日常とは本来「美しい」ものなのです。

 現在、新型のウイルスの猛威のなか、日常の営みをおくることのできない日々が続いて います。閉塞した日常の中に「美しさ」を見出だすことのできない日々が続いています。 しかし、ウイルスの猛威に怯える生活の中にも「キリストの名による癒し」があります。 金や銀に換えることのできない「美しさ」も依然としてあります。
 神殿で物乞いをしていたそのひとにとって、日常の中の「美しさ」はまったく予想外の ものでした。パリサイ的な宗教理解のもとでは、そのひとは、自らの日常の中に「汚れ」 を見出すほかなかったからです。キリストの名による「癒し」は、そのようなひとに与え られました。そしてその人を通して、より多くの人たちが、キリストの名による癒しに触 れ、神を信じて歩む日々の「美しさ」に気づかされたのです。

 目に見えないウイルスの侵攻を恐れる私たちの日常に、キリストの名による癒しが与え られます。「美しい門」での出来事は、キリストによって癒されたわたしたちが、他者を 癒し、励ますことのできることを、それがわたしたち本来のあるべき姿であることを、わ たしたちに向けて、はっきりと伝えてくれているのです。

〔祈祷〕
 天の父なる神様、御子イエス・キリストの復活を覚え、復活節第3主日の主日 礼拝をお捧げすることが許されました。感謝いたします。新型コロナウイルスと戦う医師 たち、各地域の指導者たち、人々の癒しを願うわたしたちを通して、あなたはキリストの 御姿を世にあらわしてくださいます。秩序ある生活をいとなみ、内面の健康を守り、隣人 への配慮をおこなってゆくことができますように。わたしたちの毎日の生活の「美しさ」 を保たせてください。復活の主を信じる信仰が、今日も私たちの心を満たしますように。
銀座教会の兄弟姉妹が主にあって、一つの霊で結ばれ、一つの信仰に生きることができ ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。