「復活の証人として生きる」
説教集
更新日:2020年05月03日
2020 年5月3日(日)復活節第4主日 主日家庭礼拝 髙橋 潤 牧師
使徒言行録4章32節~37節
32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者は なく、すべてを共有していた。33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証し し、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34 信者の中には、一人も貧しい人がいなか った。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35 使徒たちの足も とに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。36 たとえば、レビ 族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプ ロス島生まれのヨセフも、37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足も とに置いた。
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教会とは何でしょうか。本日の御言葉で答えるとするなら、教会とは「信じた人々の群 れ」であり、「心と思いを一つにしている群れ」です。
主イエスの十字架によって、特に弟子たちは自分の弱さ惨めさに打ちひしがれていまし た。しかし、思いもかけない復活の主との出会いが与えられました。キリストの教会は、 復活の主との出会いが決定的な経験になり命を与えられました。「信じた人々」が「群れ」 として共に生きているのは、弟子たちの誰かの発案や計画ではなく、復活の主が私たちと 共に生きておられる、この決定的な経験が「信じた人々の群れ」となり、教会を形成する 出発点となりました。主イエスの復活を信じる信仰によって、私たちは復活の主とつなが っているのです。これが教会の命を表す姿です。聖書の御言葉は、このつながりを「信じ た人々の群れ」は、「心も思いも一つにし」ていたと表現しています。使徒言行録の2章 44節以下によると、毎日ひたすら心を一つにしていたと記されています。
私たちも今、共に集うことが出来ませんが主イエスの復活を信じる信仰によって一つと されているのです。礼拝においても日常生活の中においても、復活の主に見つめられてい ます。復活の主の声を聞いて生かされているのです。「心も思いも一つ」とは、信仰によ って一つにされているということです。私たちが、信仰以外の何かで一つになったとして も、それは「信じた人々の群れ」とはいえません。しかし、たとえ、数名であっても、主 イエスを救い主と信じる信仰によって一つであるならば「信じた人々の群れ」に相応しい 教会といえましょう。教会は、私たちの思想や誰かの思いで一つになるということではな く、復活の主が共に生きておられるという、初代教会に与えられた決定的な信仰の継承よって一つにされるのです。
使徒言行録には、最初の教会の人々の生活が生き生きと記されています。たとえば、2 章の44節以下には、毎日ひたすら心を一つにして神殿に出かけたことや、家ごとに集ま ってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていた様子が記されています。神殿 での祈りやパン裂き、喜びの食卓によって、心も思いも一つとなったのです。さらに、復 活を信じる群れの大きな特徴があります。それは、使徒たちが復活の主の証人として、主 イエスこそ私たちの救い主であることを伝えているいうことです。「信じた人々の群れ」 は、復活のキリストを伝えました。使徒言行録2章32節には、「神はこのイエスを復活
させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と記されています。「信じた 人々の群れ」は、主イエスの復活の証人であるとの自覚が与えられました。これは、誰か に頼まれたのではありません。復活の主に出会った人々は、復活の主を証しする証人にな っているのです。証人は、誰の前でも忖度することなく、キリストの復活を証しするのです。
銀座教会が証しを大切にしていることの原点がここにあると言って良いでしょう。「わ たしたちは皆、そのことの証人です」という声です。復活信仰を与えられた喜びの声が、 教会であり、「信じた人々の群れ」なのです。
「信じた人々の群れ」は、主イエスの復活によって心と思いを一つにされ、復活の証人 として生かされていました。この群れは、誰の前に立ってもキリストの証人として生きて 行くとき、2章のペトロの説教に記されているように、ナザレのイエスこそ、神から遣わ された方であることを大胆に語るのです。
教会の原点は、主イエスの復活をその証人として喜びをもって語る姿の中にあります。 礼拝において、説教が語られるのも、復活の証人としてです。証人として生きるというこ とは、主の復活を語らないではいられない群れのなかで生きるということです。2章14 節でペトロが11人の弟子たちと共に立って「わたしの言葉に耳を傾けてください」と話 し始めているように、主イエスの復活の証人は「共に立つ」のです。彼らは「知っていた だきたいことがあります」と言って語り始めました。知って欲しいという思いに押し出さ れています。これが、「信じた人々の群れ」の姿です。
最初の教会であるペトロとヨハネは、「美しい門」で生まれながら足の不自由な男と出 会い、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キ リストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語りました。ペトロとヨハネがこの男に この言葉を語る事が出来たのは、はったりでも空元気でもなく、復活の主を証しするため です。生まれながら足の不自由な男こそ、復活の主によって神を賛美する者へ変えられま した。目撃者になりました。復活の証人となったのです。
このように復活の主の力を大胆に語ったために、4章の前半でペトロとヨハネは捕らえ られ翌日まで牢獄に入れられてしまいました。しかし、このような逮捕される力をものと もせずに、彼らの証しは、益々力をもって広がっていきました。彼らの復活の主を信じる 信仰による証しは、ペトロたちの逮捕によって、しぼんでしまったのではありません。そ うではなく彼らは、逆境の中で益々、力を与えられていったのです。その力は、4章23 節以下に記されている祈りによって確認することが出来ます。迫害が祈りの力になりまし た。逆境の中で、ますます熱心な祈りが与えられました。
私たちも今、主日礼拝に集まることの出来ない逆境の中に置かれながら、ますます熱い 祈りが与えられています。
33節には「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から 非常に好意を持たれていた。」とあります。「人々から非常に好意を持たれていた。」と いう言葉は、口語訳聖書では「大きな恵みが彼ら一同に注がれた」と訳されています。こ ちらの方が原典をよく表現しています。復活の主を指し示すとき、大きな恵みが注がれる のです。それが教会です。神の恵みは大きいのです。そして豊かに注がれるのです。
「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを 売っては代金を持ち寄り、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおの に分配されたからである。」
復活の主によって結ばれた教会は、与えられた神の恵みを分かち合う力に生きていまし た。お互いの祈りが助け合う力に変えられて歩み出しました。小さな群れでありましたが すべてを信頼し、すべてを神さまに委ねて歩み出しました。私たちの状況がどのように変 化しようとも、主の恵みは絶えず注がれていることを忘れることなく、新しい一週間を歩 みましょう。
《祈 祷》
天の父なる神さま。復活の主によって新しい力に生かされている教会の原点に 立ち帰り、御言葉を与えられました。私たちが主イエスの復活を信じる信仰により、十分 な恵みを受けていることを感謝いたします。復活の主を仰ぎつつ主の証人として祈る私た ちの一週間をお導きください。
主イエスの御名によって祈ります。 アーメン