「宦官の洗礼式」
説教集
更新日:2020年06月30日
2020 年6月7日(日)三位一体主日 主日家庭礼拝 髙橋 潤 牧師
使徒言行録8章34節~40節
34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っ ているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」35 そこで、 フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知ら せた。36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水が あります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
(*37 節)38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、 フィリポは宦官に洗礼を授けた。39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ 去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。40 フィ リポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサ リアまで行った。
37 (†底本に節が欠落 異本訳)フィリポが、「真心から信じておられるなら、 差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると 信じます」と答えた。
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本日より、家庭礼拝と同時に、礼拝堂に集まる礼拝をささげる二本立てという新しい試 みをはじめました。まだまだ礼拝開始を諸手を挙げて喜ぶ日ではないことを私たちは知っ ています。新型コロナウィルスの感染がまだ収束・終息しているとはいえないからです。 自分自身が感染者かどうか不安を拭えない日々を過ごしています。同時に以前からの一人 一人の人生の課題を背負いつつ、どのように生きるか、新しい生き方が求められています。
緊張した生活を続けながら、今、神は私たちに何を与えようとしているのでしょうか。 一つには集まる礼拝者と家庭礼拝をささげている人々が相互に祈り合い、お互いのために 祈りながら、次の段階を模索することではないかと思います。再び、集まることが出来な い日が来る可能性があります。しかし、そのような事をくり返しながらも、いつの日か安 心して、誰もがいつでも礼拝堂に集える日が来るように願っています。感染危機の中、私 たちは、隣人愛に生きる訓練の機会を与えられています。現在、教会は、お互いを思いや り、隣人の痛みを受け止め、執り成しの祈りに生きるための訓練の時を神さまから与えら れていると思います。この隣人愛は、家族、教会、地域、国境を越えて広がる力です。
本日与えられた聖書の御言葉は、聖霊なる神の計画による異邦人第一号となる宦官の洗 礼式です。はるばるエチオピアからエルサレム神殿まで片道約 1500 キロの旅をして礼拝を ささげ、その後、エルサレムからエチオピアへ帰る途上、洗礼式が行われたことが記され ています。この洗礼式は、聖霊なる神のくすしき導きによって、異邦人伝道の第一歩とし て記録されています。この洗礼式によって、初代教会の土台が築かれ、伝道の喜びが広くエチオピアまで広がりました。聖霊なる神は、伝道者フィリポを遣わし、宦官の洗礼志願 を公にし、洗礼式へと導きました。異邦人である私たちの洗礼はじまりの物語として覚え て良いと思います。私たちの受けた洗礼のルーツがここにあるといって良いのです。
皆さんは、自分の洗礼式を思い起こすことがあるでしょう。又は、親しい友人や家族の 洗礼式に駆けつけた経験を持っていることでしょう。私たちが教会で経験する喜びは数え 切れないほどありますが、その中でも最も喜びに満たされる時が洗礼式です。この喜びは 人間の喜びと神さまの喜びが一つになる時です。私たちが神さまに結び合わされる喜び、 それが洗礼式です。
今年は、イースター礼拝とペンテコステ礼拝において洗礼志願者が受洗準備をしていま した。教会全体で喜びを分かち合いたいと願い、話し合いつつ洗礼式を延期しています。 近い将来、この方々の洗礼式が行われます。その時、使徒言行録 8 章の異邦人最初の洗礼 式を思い起こして、一緒に喜びを分かち合いたいと思っています。
8 章の洗礼の記事には 37 節が抜けています。37 節は、新共同訳聖書の翻訳に用いられた 有力な写本にはないからです。しかし翻訳に採用されなかった写本には記されていること と内容的なことから、本文と区別して巻末に記載されています。このように記されていま す。「37 フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、 宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。」
この言葉は、初代教会における洗礼式の誓約の言葉だと考えられています。有力な写本 になくても、歴史的には、古代教会の洗礼式の誓約を確認出来る重要な資料です。古くか ら現在にいたるまで、変わらない信仰告白と誓約の言葉を読むことができるのです。
エチオピアの高官であるこの宦官は、ユダヤ教の聖典、イザヤ書を読みながら、フィリ ポの手引きによって、イエス・キリストは神の子であると信じる信仰を与えられました。 宦官は、イザヤ書を読んで、どうしてイエス・キリストを神の子と信じることが出来たの でしょうか。エチオピアへの帰路、水のある場所で洗礼を受けたいと願った宦官は、どの ような恵みに与ったのでしょうか。宦官は「ここに水があります。洗礼を受けるのに何か 妨げがあるでしょうか。」と心からなる洗礼志願を表明し、「イエス・キリストは神の子 であると信じます」と告白しました。そして、喜びにあふれて旅を続けました。
旧約聖書から福音、そして信仰告白へというキリスト教会にとってとても大切な信仰の 筋道が与えられました。旧約聖書を通してキリストへ導かれる道が開通したといえましょ う。教会にとって大切な伝道の道路が開通したのです。旧約を新約聖書の光で照らして読 む道です。
宦官は、自分自身が「羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙してい る小羊のように口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その 子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」イザヤ書 53 章 7、 8 節の言葉です。この言葉を朗読していて、宦官は、イザヤ書の中に自分自身を発見した のです。そして、この言葉の背景には、どなたがおられるのだろうかと、疑問が湧いてきました。そこにフィリポは遣わされ、イザヤ書 53 章から説き起こし、53 章 1-6、更には 56 章の異邦人の救いへと読み解いて、宦官に福音を説明したと思います。特に 56 章の 3 ~5 節は宦官にとって忘れられない大切な言葉です。
「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。4 なぜなら、主はこう言われ る 宦官が、わたしの安息日を常に守り わたしの望むことを選び わたしの契約を固く 守るなら5わたしは彼らのために、とこしえの名を与え 息子、娘を持つにまさる記念の 名を わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」
フィリポは、イザヤが語る苦難の僕を通してキリストの苦難を伝え、宦官の人生の主は イエス・キリストであることを伝えたのです。イエス・キリストこそ、私たちの苦難を理 解し、受け止められたお方であると喜びの知らせ、福音を伝えました。宦官は、このお方 と共に生きたい、このお方のもとで死を乗り越えたいと洗礼志願が与えられました。
実は、フィリポが遣わされる前に、この宦官の心を誰よりも深く知っていたお方がいま す。それは、聖霊なる神です。聖霊は、伝道者フィリポを宦官のところに遣わし、宦官に 同伴するように命じられました。聖霊なる神は、宦官の心を知っていたからこそ、ガザへ 下る道、寂しい道へ派遣したのです。宦官は、エチオピアから数ヶ月もの道を旅してまで も、救いの確さを求めていることを知っていたのです。私たちが心から、本気で救いの確 かさを求めるとき、聖霊なる神は受け止めていて下さるのです。求めよさらば与えられん、 と主イエスがお語りになった通り、私たちの志を受け止めて下さるのが聖霊なる神さまで す。聖霊は、私たちを死に追いやる風ではなく、命と喜びへ導く風です。
聖書は、異邦人伝道最初の洗礼志願者、エチオピアの高官である宦官の名前は記してい ません。しかし、名前以上のことを記しています。それは、エチオピアの女王の全財産を 管理していた宦官であったということです。この言葉から宦官の姿が浮かび上がってまい ります。彼は、自らの子孫を残せなくても生涯女王に仕える決断をしたのです。そのため に自らの体を去勢し、女王のそば近くで仕える決断をして、女王に命をささげました。命 をかけて女王に仕えた宦官は、女王が最も信頼する側近になりました。女王の全財産を管 理するほどの信用と信頼を得る地位が与えられました。しかし、女王の信用と信頼が揺る ぎないものになっても、宦官自身の苦悩は消えることなく、深まるばかりだったのではな いでしょうか。決して誰にも語る事の出来ない弱さ惨めさをもっていたのではないでしょ うか。神を求め救いの確かさを求めていたのではないかと思います。真の救いと平安を求 めたのです。
この宦官にこそ福音が必要です。私たちは宦官ではなくても、この宦官の心を共有して いるのではないでしょうか。家族のために献身的に働きます。会社のためにすべてを犠牲 に生きてきました。そのような中で、この自分のうめきを理解してくれる方を求めます。 このような自分が救われるのかどうか案じる時があります。誰もが、自分自身を理解して くれる方、自分を愛し、受け入れてくれる方を必要としています。
宦官は、エルサレム神殿において、宦官に関する旧約の律法として、申命記 23 章 2 節「睾 丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。」を聴いていたでしょう。この言葉によって宦官は主の会衆に加われないことになります。すなわ ち、ユダヤ教の律法によっては、宦官は救いから排除されてしまいます。しかし、主イエ ス・キリストの福音の光によって聖書を読む時、苦難の僕、イエス・キリスト、宦官が愛 の絆で結ばれるのです。主イエスの恵みによって、私のために苦しみ、愛してくれるお方 は、この地上に今なお、復活の主として生きているという希望を与えられるのです。
この希望は聖霊が宦官に与えた新しい救いの光です。これが喜びの福音です。宦官がエ チオピアに帰っても、今一度女王のそばで仕えようとも、消えることのない福音の喜びが 宦官を満たし続けるのです。宦官の喜びは、その後のエチオピア伝道へと広がっていった と思われます。2世紀ころアフリカ大陸において最初のキリスト教国になったのがエチオ ピアでした。宦官の喜びがさらに多くの人々へ伝えられたと思います。フィリポと離れた 後、宦官は「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。宦官の喜びの旅を今や私たちが受 け継ぐのです。
私たちも、イエス・キリストによって、私たちのどんな苦しみも悲しみも弱さも惨めさ も受け入れられている福音を受け入れましょう。この福音によって、喜びを与えられて生 きましょう。苦難の僕、主イエス、宦官、そして私たちが繋がっているのです。洗礼の恵 みを感謝して、三位一体主日からはじまる一週間を歩みましょう。
祈り
天の父なる神さま。聖霊なる神が宦官のもとにフィリポを遣わし福音を聴き、洗礼へと 導かれました。私たちもまた、あなたの喜びに迎えられていることを思い、感謝いたしま す。父、子、聖霊なる三位一体の神さまの交わりに迎えられている喜びを覚えて、あなた の喜びを宦官の喜びを共に喜ぶものとして下さい。キリストの御名によって祈ります。
アーメン