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銀座の鐘

「弱さの中に働く力」

説教集

更新日:2020年07月01日

2020年6月21日(日) 聖霊降臨後第三主日  主日家庭礼拝  近藤 勝彦 牧師

エフェソの信徒への手紙3章7節~9節

コロナ感染の予防の中で「命と経済」あるいは「命か経済か」とよく言われます。命や健 康のためを思えば、人との接触を避け、外出を自粛するのが最良です。しかしそれでは経 済活動はできません。経済が回っていくためには、出勤もしなければならず、店も開けな ければなりません。命の維持と経済の維持は相反するところがあって、両方のバランスを とらなければならない、それが現在の課題と言われます。健康も仕事も確かに重要です。 しかし命と経済、あるいは健康と仕事、それらが一番大事かと問えば、聖書はそうは言っ ていません。エフェソの信徒への手紙はパウロ直筆の手紙かどうかには疑問があるという ことは以前申しました。しかしパウロ自身の信仰とその言葉が根底にあることは明らかで す。パウロは天幕作りを職業として生計を立てていたことはよく知られています。しかし 聖書の中で、パウロが天幕作りの仕事について重大だと記している個所はまずないわけで す。「命と経済」「健康と職業」、それこそ二つの根本問題とパウロは言いませんでした。
 今朝の箇所でパウロが語っているのは、「福音に仕える」ということです。「異邦人に 福音を告げ知らせている」と言い、「神の秘められた計画がどう実現されるかをすべての 人々に説き明かしています」と語っています。それがパウロの仕事にまさる仕事でした。 彼の命と経済、健康と職業は、「福音に仕える」ためにこそ営まれたと言ってよいでしょ う。それはパウロが使徒であったからでしょうか。確かにそうですが、使徒の生き様はま た、私たち誰もの生き方にとって無関係ではありません。私たちの誰もが、キリスト者と して召されたことによって、「福音に仕える」者とされ、そのためにそれぞれの命と職業 の生活を営んでいると言うべきでしょう。福音を告げ知らせ、神の御計画の実現をすべて の人々に説き明かすことに私たち皆がそれなりの仕方で関与しています。つまり私たちは 皆、誰もが、福音の伝道と証に召されています。私たちの命と経済はそのためのものと言 ってもよいでしょう。
 それでは「福音に仕える」とはどういうことでしょうか。「福音を告げ知らせ」「神の 秘められた計画の実現を解き明かす」とも言われていますが、どういうことでしょうか。 私たちにそれができるでしょうか。どうしたらできるのでしょうか。福音とは、一言で言 えば、神の御子キリストが私たちのために命をかけて死んでくださった事実です。それで 神との間に、また罪の者である私たち同士の間に、破られることのない平和が築かれ、キ リストの体である教会に新しい人として入れられて生きることが許されました。教会に生 きる者が福音に仕えることは当然なことです。福音によって一つの教会にされたからです。
 しかしこの当然なことがどのようになされるかというと、そこには奇跡的なものがある と言うのです。パウロはこう書いています。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜 わり、この福音に仕える者としてくださいました」(7節)。パウロが命と職業をささげ て福音に仕える者とされたのは、神の恵みによったというのです。誰でも神の恵みを賜わ ることなしに、福音に仕えることはできません。その人自身の能力によって福音に仕える ことはできないのです。逆にどんな人間でも、神が力を働かせて恵みを賜わるならば、福 音に仕えることができます。福音、つまり十字架に架けられたイエス・キリストの救いとキリストの復活を告げ知らせることができます。それはまた「キリストの計り知れない富」 を証しすることだと言われます。恵みを賜わることで、誰もが教会の証の営みに参加する ことができます。
 そうすると、私たちの命と経済がそのためにささげられる「福音に仕える」という在り 方は、私たち自身の能力や資格や取り柄によって遂行されるのでなく、もっぱら神の力の 働きにより、恵みが与えられることによって遂行されます。使徒パウロは当時の社会で見 れば、その学識や能力に関しておそらく抜群の人でした。しかし彼は、「この恵みは聖な る者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました」(8 節)と記し ています。別の手紙でもパウロ自身が「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒た ちの中でも一番小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(一コリ 15・9) と書いています。ここでは「使徒たちの中」でなく、さらに「聖なる者たちすべての中」 つまりおよそキリスト者全員の中でということです。すべてのキリスト者の中で「最もつ まらないもの」問います。これは最上級の「最もつまらない」にさらに比較級「よりつま らない」をつけて「最も卑小な者よりもっと卑小」という言葉です。徹底した自己卑下の 表現ですが、そう語ることによって、圧倒的な恵みの働きを語ったと言えるでしょう。
 私たちは福音に仕えています。特にそうは言えそうになくとも、福音を告げ知らせる教 会の働きに共に参加し、神の秘められた計画がどう実現されるか人々に解き明かす教会の 伝道運動の中にいます。その中で皆さん自身、キリスト者として生きて、証ししています。 誰もその能力や資格があるとは言わないでしょう。言いたくても言えないかもしれません。 しかしキリスト者とされて福音に仕えているのは、ただまったく神の力の働きによって、 恵みを賜わっているからです。ですから、私は資格がないから福音に仕えないとも言えな いわけです。ただ恵みの賜物がなかったなら、到底できないことに今ともにあずかってい ると承認するだけです。恵みを語る主の言葉は、パウロが聞いたように、「恵みはあなた に十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」です。
 エフェソの信徒への手紙は、ある研究者の言い方では、「自分たちが悪魔の王国によっ て抑圧されていると感じていた小アジア西部の諸教会」に宛てて記されたと言われます。 悪魔的な力による圧迫は外から来ますが、内部に蔓延します。コロナウイルスのようなも のです。すると信仰者の心がすさみ、不安が生まれ、主にある人々の間に分断が生じ、信 仰は曖昧になり、冷たくもなく熱くもないものになり、そして愛が冷えます。そのとき聖 書はパウロという一人の立派な模範を示しました。しかしその人は真っ先に自分に倣えと は言いませんでした。自分は全信仰者の中で最も卑小な者よりももっと卑小な者であると 言い、その自分に、神はその力の働きによって恵みを賜わったと語ったのです。彼はその 弱さの中でこそ発揮される神の恵みの力によって、キリストの福音に仕える道を歩むと語 ったのです。神の恵みの力なしにやれることは、およそ大したことではありません。人生 の決め手にも、社会の決め手にもなりません。世界の政治を見ればよくわかることです。 人間の救いになりません。救いは、神から、恵みによって、人間の弱さの中でこそ力を発 揮して前進します。
 私たちが仕える福音は、キリストの計り知れない富とも言われます。主は私たちのため にその命をささげてくださった。そして復活のキリストとして共にいてくださいます。そ の富は計り知れません。恵みを数えるとよく言います。私たちは気付かないうちに多くの恵みを受け、今現在に至っています。その恵みは、数えることができるほどに具体的だと いうことです。しかし数えるといって数えられるものではありません。いま自分がここに こうしてあること、私たちが今日あるのは神の恵みです。振り返って、色々な時に与えら れた助けがあります。人々との出会いを介し、家族や友人との交わりを通し、支えられて きたことも神の恵みです。特に信仰を求める者とされ、そして神を信じる者とされたこと は神の恵みです。礼拝にあずかり神の言葉を聞く者とされ、祈る者とされたことは神の恵 みです。何よりも罪を赦されたこと、そして神の子とされたこと、神の国を継ぐものとさ れ、約束のしるしとして聖霊を与えられたことは神の恵みです。それゆえどんなときにも 望みを失わず、何ものによっても神の愛から引き離されない者に、キリストにあったされ たこと、それは神の恵みです。福音は、恵みであり、キリストの計り知れない富と言うし かないでしょう。キリストにある神の愛から計り知れない、数えきれない恵みが注ぎ出し ています。そのすべてが神の恵みであることは、すべての慰め、喜び、力が、私たち自身 の弱さによって少しも衰えないで、むしろ私たちの弱さの中でこそいよいよ生き生きと力 を発揮させることでわかります。感謝して祈りましょう。

〔祈り〕
天の父なる神様。聖書の御言葉に聞きつつ、礼拝をささげることができます幸いを、心より感謝いたします。あなたの恵みは私たちの弱さの中でいよいよ力強く働く力です。そ の恵みの力によって、福音に仕える者とされておりますことを感謝いたします。世界中の 人々が、本当は求めている福音を、各地域の教会が生き生きと伝えることができますよう に導いてください。銀座教会の幼子から高齢者まで、一つになって、福音に仕えることが できますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。