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銀座の鐘

「神とその言葉に委ねられ」

説教集

更新日:2020年08月09日

2020年8月9日(日) 聖霊降臨後第10主日 銀座教会 主日家庭礼拝  藤田 由香里 伝道師

使徒言行録20章25~38節

 パウロはここまで、第一次、第二次、第三次宣教旅行をしてまいりました。神の国の福音を方々で宣べ伝え、多くの教会を建てて励ましてきました。本日の箇所は、第三次宣教旅行の終局部に当たります。エフェソからマケドニア州とギリシャを回り、再びアジア州に戻り、ミレトスに到着します。パウロは一路、エルサレムに急いでおりました。どうしても五旬祭までにエルサレムに行きたかった(20:16)と記されます。五旬祭、つまり弟子たちに聖霊が降ったペンテコステの時までに、パウロはかの地に戻りたかったのです。初代教会でも、すでに毎年の祝祭日を祝う習慣があったのでしょうか。自分でエフェソに立ち寄る時間はないけれど、エフェソの長老たちを呼べば来てくれるということをパウロは知っていたのでしょう。パウロとエフェソの教会の長老たちの信頼関係が伝わります。またエフェソは1世紀前後のキリスト教宣教の中心地域として栄えましたら、伝道の重要拠点として、認識されていたことと思います。本日は、パウロが呼び寄せたエフェソの長老たちに語った告別説教の箇所から御言葉をお聞きしたいと思います。
 この説教で、これからパウロはエルサレムの苦難へと向かうことを告げます。聖霊がパウロに 告げていたのです。そこで、自らのことを振り返ります。パウロは、自らの十字架を背負い、 「自らの決められた道を」、まっすぐに駆けてきました。「前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走」(フィリピ3:13~14 )ってきたのです。
 パウロは、エフェソの長老たちにいくつかの励ましの言葉を残していきました。
 パウロは、聖霊は、「神の教会(20:28)」の世話をさせるために長老たちを群の監督者 に任命したと言います。「世話をする」は、羊飼いの言葉です。餌をやる、牧するということです。
 長老たちは、群の監督を任されています。監督は、「エピスコポス」というギリシャ語です。 英国国教会の教派を「エピスコパルチャーチ」と言いますね。エピスコポスは、管理者、監督です。テモテの手紙に、監督はどのような人かが記されます。「だから、監督は、非のうちどころ がなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教 えることができなければなりません。(1テモテ3:2)」

 パウロは、説教で教会を「羊の群れ」にたとえます。ヨハネによる福音書で、主イエスは、「私は良き羊飼い」であると言われました。良い羊飼いは、羊のために命を捨てます。良い羊飼いは、囲いの中にいる羊を導き、また囲いの外にいる羊も導きます。羊は繊細な生き物ですが、羊には自分の羊飼いの声がわかるのです。監督者たちは、群れを養うことを託されました。「群れと自分自身とに気 を配りなさい(20:28)」長老もまた一匹の羊です。群れ全体とともに、自分自身にもよく気を 配らなければなりません。
 パウロは、パウロが去った後に、残忍な狼が群れを荒らすことを警告します。マタイ福音書によれば狼は「偽預言者」であり、ヨハネ福音書によれば、「羊を奪い、追い散らすもの」です。しかし、 パウロはこの脅威にも「恐れることはない」と告げています。むしろ、対抗する術があることを伝えます。

 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなた方をゆだねます」(20:32)

羊の群れを守るために、パウロは、「神」と「神の恵みの言葉」にあなた方をゆだねると言います。 本日の箇所には、何度もパウロや教会の歩みが「神のもの」であることが語られます。パウロが語ったのは、「神の恵みの福音(20:24)」であり、「神のご計画(20:27)」であり、エフェソの長老たちは「神の教会(20:28)」の世話をするのです。福音は神のもの、ご計画は神のもの、教会は神のものであるのです。私たち銀座教会の歩みも、神様のものです。私たち羊の歩みも、神様のご計画の中に置かれているものです。私たちを守っているものは「神」様であり、「神の恵みの言葉」にその深き神様のご意図が現れています。エフェソの長老たちは、巡回伝道者であるパウロとは物理的距離がありました。そして今、パウロが告別説教をしていることで大きな距離の隔たりをかつてないほどに経験することがわかりました。しかしながら、その距離は課題ではない、問題ではないのです。パウロはすでに神の福音を伝えたからです。「役に立つこと」は一つ残らず彼らに伝えているのです。それは、神様に立ち返っていくことであり、信仰に生きることです。私たち自身も新型ウイルスの対策で、一進一退の「物理的距離」を取らねばならない状況を経験しています。命を守るための最善を選択し続けるためです。けれども、教会は神の教会であり、私たちは神のものであり、私たちはすでに私たちに語られている神の恵みの言葉にゆだねられています。私たちが受けて来た神の言葉に守られているのです。この言葉は、私たちを「造り上げ」ます。狼は荒らすために来ますが、神の恵みの言葉は、私たちを「造り上げ」るものです。この言葉は、私たちをすべての聖なる ものたちとともに「恵みの相続者」としてくださいます。
 「委ねる」は任せる、です。パウロは教会から次の場所へ行くときに、「信じる主に彼らを任せた」というふうに言われます。神の教会は、主にゆだねられています。

この教会がどんな教会か、というとパウロは、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の 教会」(20:28)と言います。エフェソの信徒への手紙で、夫と妻についての教えのところで、 主イエスと教会の婚姻関係のイメージが用いられます。
さて、191番の賛美歌の英語の歌詞の一番はこのイメージを歌っています。直訳すると次のよう です。

「教会の一つの基礎はイエス・キリスト、彼女(教会)の主
 彼女は水と言葉による彼(キリスト)の新たな創造
 彼は天から来て、彼の聖なる花嫁とするため彼女を探した
 彼自身の血で彼は彼女を贖い、そして彼女の命のために彼は死んだ」

教会は、神の教会です。神様ご自身がご自分のものとして聖なるものとしてくださっている群です。 どのような教会であるかといえば、すでに、花婿キリストが、花嫁教会をご自分の血による贖いでご 自分のものとしてくださっているのです。教会は神のもの、キリストのもの、だから私たちもキリストのものであるのです。私たちのために命を惜しまず捨ててくださった主がおられます。この方が復活によって、すでにあらゆる罪に勝利してくださっています。私たちがどこにいても、今物理的に散 らされてしまっているとしても、私たちは神の恵みの言葉に委ねられています。この恵みの言葉に は、私たちを救い、守る力があります。主の言葉にゆだねられている私たちは一つの「神の教会」で す。

 今日の告別説教で、パウロは「涙ながら」に主にお仕えしたと二回も語ります。しかし、恵みの言葉は告げているように、「涙とともに種を蒔く人は 喜びの歌とともに刈り入れる(詩編126: 5)」のです。「受けるより与える方が幸いである」このように主イエスの言葉をパウロは引用しま した。神の教会で私たちが受ける恵みは命に溢れています。法外な恵みをいただいているのですが、 「与える」こと、「蒔く」ことの方がより幸いであるのです。
 この「与えること」は、誰よりも主イエス・キリストがまずそのお姿で示してくださったもので す。ご自分の命を惜しまず教会に与えられたキリスト。恵みの相続者である私たちもまた「与える方 が幸いである」のです。受けたものを、今自分がなしうるところで、「与える」幸いに生きて参りま しょう。

祈り
御在天の父なる神様、神の教会の嗣業の民としてくださった恵みに感謝いたします。私た ちは、愛するあなたと、あなたの恵みの言葉にゆだねられています。私たちのうちに蒔かれた御 言葉の数々を聖霊によって守り育ててください。私たちをあなたの恵みの言葉で作り上げてくだ さい。あなたから受けた恵みを蒔くものとしてください。小さな行い、小さな祈り、そのような ところから、あなたを深く知る道へと私たちを導き続けてください。社会的距離の制限の中に置 かれていますが、その中にもあなたが神のご計画によって福音を広めてくださることを思いま す。私たちを神の国の建設のためお用いください。この祈りを主イエス・キリストの御名によっ てお捧げします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン