内なる人を強くしてくださる神
説教集
更新日:2020年08月16日
2020年7月26日 聖霊降臨後第8主日 主日礼拝説教 近藤勝彦牧師
エフェソの信徒への手紙3章14-19節
14:こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。 15:御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。 16:どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 17:信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 18:また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19:人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
聖書をもっと知りたければ・・・
» 一般財団法人日本聖書協会ホームページへ
エフェソの信徒への手紙はなぜ書かれたか
手紙を書くときには、書かなければならない理由があるものです。聖書の場合もそうで、エフェソの信徒への手紙には書かれなければならない理由がありました。それはその時代、その地域の教会が生気を失い、信仰が形ばかりのものになり、弱々しく、中途半端なものになっていたことでした。信仰の弱体現象が起きていたのです。誰の場合にも、またいつの時代の教会にも起きることではないでしょうか。しかし弱体化した信仰では、ふりかかる試練に耐えることはできません。信仰によって本当に生かされているとも言えなくなります。ですから、エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロの祈りとして、信徒たちが強められ、御霊によって強化されるようにと祈っています。ここにこの手紙の一つの重大テーマがありました。「御父があなたがたを強めてくださる」というテーマです。強くされることは、私たち自身にとっても重大なことではないでしょうか。
なぜなら、私たち自身も崩れそうになるからです。いまもそうでしょう。強くされなければ、本当に生きることはできません。それならば強化されなければならず、「内なる人」が強められなければなりません。「あなたがたの内なる人を強めてくださるように」と祈られます。外面的な強化ではありません。外面を強めたところで、本当に強められたことにはならないでしょう。外面的な環境や事情が違ってくれば、もろく崩れるほかないからです。本当に強められるためには、「内なる人」が強められなければなりません。
内なる人が強められるとはどういうことか
しかし「内なる人」が強められるとはどういうことでしょうか。滝に打たれて修行をすることと考える人はいないでしょう。根性を入れ直すことでもないでしょう。強められるのは、強情な人になったり、ずうずうしい人になることでもありません。芯が強いといったことは、悪いことではないでしょうが、それが決定的と考えるなら、聖書をまったく誤解していると言わなければならならないでしょう。
使徒の祈りは、「どうか御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように」というのです。「内なる人」とは、神の御霊により、つまり自分の精神力でなく、神の力によって強くされる人、「内なる人」とは、神の恵みの働きで強くされる「信仰の人」です。信仰によって受けとる神の恵みの力を大事なこととする人、人間としての弱さの中でも信仰によって強められ、弱い時にこそ強い恵みの力によって強くされる人です。その人は外からの脅かしに左右されません。何よりも神を信じて生きている人だからです。
使徒の祈りは、この「信仰の人」が強められることを祈って、もう一つ祈りを重ねます。それは「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」という祈りです。キリストが御霊によって私たちの心の内に住むと言います。私たちの内なる人が強められるのは、信仰を与えられることであり、それはまたキリストが私たちの心の内に住んでくださることと言われます。
キリストがわたしたちの心の内に住んでくださる
これはどういうことでしょうか。キリストがわが内に住んでくださるというのは、「キリストの内住」と言われます。この信仰を使徒パウロの神秘主義と呼んだ時代もありました。しかしキリストがわたしたちの心の内に住んでくださるというのは、理解不可能な神秘主義を語ったものではありません。そうでなく理解できる、むしろ当然のキリストの恵み、キリストの真実、その現実を語っています。
私たちが今、内なる人が強められることを必要としているなら、イエス・キリストが聖霊によって私たちの心の内に住んでくださるとの信仰を受け入れ、信じて、承認する必要があるでしょう。キリストが心の内に住んでくださるとは、私たちの中心、私たちの生活全体の中心にキリストがいてくださることです。キリストが私たちの主として、私たちの生活の全部を捉えてくださるということです。
使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と語って、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2・20)と言いました。同じ様にフィリピの信徒への手紙でも、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリ1・21)と語っています。
今朝の祈りは、パウロのその信仰と同一の信仰を語っています。キリストが私たちの心に住んでくださるのは、イエス・キリストが私の主であるということです。主イエスが私を捉え、私たちの全部を引き受けてくださっています。ですから、わたしにとって生きるとはキリストであり、生きているのはもはや私ではない、キリストが私の内に生きておられるということになるのです。御父が「あなたがたの内にキリストを住まわせてくださるように」と言うのは、キリストがあなたの主であるように、そしてキリストがあなたのすべてを捉えてくださるようということです。そのとき、私たちの内なる人は強められます。信仰は、もはや外面的な形だけの信仰ではありませ。中途半端な信仰でもないでしょう。外からの試練にただ引き回されるだけではもはやないでしょう。私たちを引き回すのは、主イエス・キリストお一人です。主イエスが私たちの中心であり、私たちのすべてです。私たちはキリストのものとされています。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。
キリストが心の内に住み、どんなときにもキリストがわが主でいてくださる。そのとき、その人の信仰は熱い信仰にされているのではないでしょうか。熱くもなく冷たくもない状態ではもはやないでしょう。その人の愛が冷えることもないでしょう。キリストがわが心の内にあって主でいてくださることは、その人の中心に神の愛が働いていることです。それで使徒の祈りは、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかりと立つ者としてくださるようにとも祈られます。
愛にしっかりと立つ人
よく「ブレる」「ブレない」という表現がなされます。この国の政治家たちは残念ながら今、コロナ感染拡大の中でブレまくっています。2月からもう半年が経ちますが、およそなさなければならないことに無為無策です。しかし憤るのでなく、神の恵みの御支配があるように祈り、彼らのことも執り成さなければならないでしょう。むしろ教会とキリスト信仰者がブレてはならないでしょう。教会とキリスト者は、愛に根差し、愛にしっかりと立つ者にされるように、聖書の祈りはそう告げます。神の愛に根を置き、神の愛にしっかりと立たされ、人々の間にその愛をもって生きなければならないでしょう。それが内なる人が強められているあり方です。人間が強くされることは、確かな愛に現れると聖書は告げているのです。私たちの心の内にキリストが住んでくださることは、あなたがどれだけ愛せるかによって示されると言うのです。なぜなら、キリストにあってどれだけ神から愛されているかということがまず先にあるからです。内なる人が信仰の人としてどれだけ御霊によって強められているか、信仰によってどれだけキリストが心の内に住まわれているか、それはその人がどれだけしっかりと愛に根差し、他者を愛の内に覚えているかによって示されます。
御言葉を感謝して、神が御霊によって私たちの内なる人を強め、私たちの中心にキリスト・イエスを主としておらしめてくださり、私たちを神の愛の中に置いてくださることを信じて、私たちも愛にしっかりと立って、前進していきましょう。