全能の父なる神
説教集
更新日:2020年09月19日
2020 年9月6日(日)聖霊降臨後第14主日 振起日・十歳児祝福式 主日家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書7章7~11節
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をた たきなさい。そうすれば、開かれる。 7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門 をたたく者には開かれる。 7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与 えるだろうか。 7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 7:11 このように、あなた がたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、 あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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2020年度、主日礼拝においてこれまで使徒言行録を読み進めてまいりました。今年度 は、イースターの翌週4月19日より先週の8月30日まで「教会の働き」という主題で御言葉を読んでまいりました。
本日から11月22日まで約3ヶ月間「教会の教え」として使徒信条を学びます。使徒信条は、ニカイヤ信条、アタナシウス信条とともに「基本信条」、「世界教会信条」としてキリスト教会が重んじてまいりました。使徒信条の成立は、主イエスの弟子たちが使徒と呼ば れましたが、その狭い意味での使徒によって成立したのではなく、紀元2世紀のローマ教会 の洗礼式の信仰告白に遡ることができるといわれています。その後、5世紀には、現在の使徒信条の言葉が確定しました。
使徒信条が確定するには、長い時間がかかったのです。この使徒信条が成立するまでの同 じ期間、同時に新約聖書の27巻、マタイによる福音書からヨハネの黙示録までが確定しま した。新約聖書と使徒信条が確定することによってキリスト教会の土台が確立しました。
1954年、私たちの銀座教会が属する日本基督教団は、日本基督教団信仰告白を制定す るためにこの使徒信条に前文をつける形を採択しました。私たちは、信仰告白のたびに使徒 信条を唱えてまいりました。私たちが、使徒信条を告白することによって、初代教会から変 わらない信仰を正しく受け継ぎ、この教会の信仰を正しく引き継いでいくことが求められて いるのです。使徒信条をもって信仰を告白する度に、キリストの命に与っていることを喜ぶ 事が出来るのです。
信仰を告白することは、確信をもって神さまを信頼する事です。ただ漠然と神について考 えたり信じた気分になることではなく、生けるキリストへの感謝です。キリストが神の愛を もって私たちを命をささげてまでも愛してくださった神の救いに対して感謝し喜ぶ事が信仰 告白です。本日から12週間に亘って使徒信条のいのちの言葉に聞きます。
「全能の父なる神を信ず」と告白する、全能とは、どのように理解すれば良いのでしょう か。日本語では「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と翻訳されていますが、使徒 信条の原文であるラテン語本文の語順は「信ず、神を、父を、全能の」となっていますので、 「天地の造り主」は次週取り上げることになっています。
「神を信ず」は、どの民族も神を求めてきました。神が存在しなければ、世界も人生も無意味な混乱に過ぎなくなります。そして、結局は人間が神ならぬ偶像になる世界です。人間は真の神ではないので、誰もそれに耐えることはできないのです。神でない者を神であるかのように扱う混乱した世界です。神を見失ってしまうことも同じ混乱した世界になります。使徒信条は、そのような混乱した世界から神を指し示す道を示します。それが「神を信ず」という最初の言葉です。神を信じることによって人間世界の悲惨さに光が与えられます。神が 存在するのは、人間が求めた為に与えられたのではありません。神の憐れみによってイエス・キリストによって神が示されました。私たちを赦し、愛して、神を信じる信仰を無償で与 えてくださいました。ゆえに、神を信ずと告白することが出来るのです。ですから、神を信 じるという時、私たちの思いや考えで勝手に神を作り出して礼拝する事は、偽の神でしかな いのです。真の神が神を示してくださらなければ私たちは神を信ずと告白できないのです。
「父なる神」の父とは誰の父でしょうか。イエス・キリストが「そのひとり子」と告白され ていることから、父なる神はイエス・キリストの父であることが分かります。使徒信条は、 父なる神、ひとり子なる神、聖霊なる神という三位一体という三位一体の神を信じると告白 しています。全ての基本信条は三位一体の神を信じることを表明しています。
主イエスは、「アッバ、父よ」と祈りました。主イエスは弟子たちに祈りを教える時、われらの父よと祈ることを教えてくださいました。私たちが父なる神と祈る時、私たちは主イ エスによって教えられた祈りを主イエスと共に祈っていることを想い出すことになるのです。神は父として、私たちはひとり子イエス・キリストと共に父よと祈る祈祷会に加えられているのです。その時、私たちは主イエスと共に神の子とされる恵みを味わうことが出来る のです。
ある求道者が、その方のお父さんについて丁寧に語られ、天の父なる神は私の父に似ていますかと質問されました。私たちが知っている父は、私たちの親である人間の父です。人間 の父を基準に父なる神を理解しようとすると、様々な父がいますし、父も変わりますから混 乱することになります。父なる神は本当の神を父として呼ぶことが出来る恵みを与えています。父なる神は愛と憐れみの父です。人間の父と母に問題があっても私たちは、真の父を呼んで祈る道が与えられているのです。
「全能の」とは、どのように理解したら良いでしょうか。聖書による神を説明する表現は沢 山あります。例えば、神は愛なり、憐れみの神、神の忍耐、聖なる神、義なる神という言葉です。そのような聖書の表現を知りつつ、使徒信条は「全能の父なる神」と語ります。神は無力な神ではありません。聖書に登場する言葉には「万軍の主」「大能の神」という力強い 表現が用いられることもあります。武力によって圧倒される時、私たちは強敵をなぎ倒す圧倒的な力の神を求めます。そのような、私たちが求める武力や権力や経済力などこの世の力 に対して、どんなことでも出来る力を全能と表現しているのではありません。そうではなく、 私たちの期待やわがままに答える全能ではなく、神の意志を実現する全能です。私たちはい つでも自分の期待に応える力を持っているかどうか、神の力を品定めすることがあります。 私たちの期待に応えるのが全能の神であると思うことが間違いなのです。そうではなく、父 なる神として全能なるお方なのです。父として子を愛するのに全能なのです。父のご意志に よる愛において全能なるお方です。父なる神のご意志による正義を示す全能なるお方です。 死に対して、罪に対して、人間を救い出すために全能を発揮されるのです。神が自ら十字架 を引き受ける力が全能です。神が死の力を克服し勝利し、復活の主イエスのお姿に神の全能 が明らかになりました。
本日与えられた聖書の御言葉は、父なる神が神のご意志によって、「良い物を」くださる ことを主イエスが語られています。注目すべき事は、良い物とは何かではなく、父と子の関 係が語られている事です。主イエスは神を父と呼んで祈る交わりに招いてくださっています。
主イエスは弟子たちに、そして私たちに、あなたがたは「悪い者でありながら」神の子なの だとという格別な愛を与えられていることを教えてくれているのです。
私たちの神は父として私たちを子としてくださるご意志を表明し実現してくださる全能の 神なのです。神のこの愛の決断を感謝して、神のご意志が行われることを祈り願いたいと思 います。全能の父なる神の言葉としてもう一度御言葉を聞きましょう。
7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたき なさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をとい うたたく者には開かれる。9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与え るだろうか。10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。11 このように、あなたがたは悪 い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたが たの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
ヨハネの手紙一3:1「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。そ れは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」
神は、私たちを子として全能の愛をもって良い物をくださるのです。神への祈りを熱くし て使徒信条を告白し続けましょう。
祈りましょう
天の父なる神さま。あなたが私たちが悪い者であることを知りながら、子としてくださるほど愛してくださっていること感謝いたします。あなたの愛に気付かずに無礼の日々、お赦 しください。あなたの御心をしっかりと受け止めて、使徒信条を告白する者としてください。 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン