「キリストの十字架」
説教集
更新日:2020年11月22日
2020年10月4日(日) 世界聖餐日・世界宣教の日 聖霊降臨後第18主日 主日家庭礼拝 髙橋 潤 牧師
ルカによる福音書23章13~33節
13:ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 14:言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15:ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 16:だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 17:<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。† 18:しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 19:このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 20:ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21:しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。 22:ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23:ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 24:そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。25:そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。26:人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 27:民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 28:イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 29:人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
30:そのとき、人々は山に向かっては、
『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、
丘に向かっては、
『我々を覆ってくれ』と言い始める。
31:『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
32:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日は、使徒信条の「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」について学 びます。そのために与えられた聖書がルカによる福音書の御言葉です。
主イエス・キリストを十字架刑に処刑することを決定したのは、誰でしょうか。
それは、ルカによる福音書23章24節によれば「ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した」 とあるように、ピラトが主イエスの処刑を決定したのです。主イエスの十字架刑の決定にいたるま でには、本日の聖書に記されているとおり、ピラトの判断は、22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」でした。すなわち、ピラトは、尋問したけれども「この男」と 呼ばれている主イエス・キリストには、死刑に当たる犯罪は何も見つからなかったのです。ピラト は、当初死刑ではなく、鞭打ちの刑でもって釈放するという十字架より軽い処分が妥当であると考 えていました。当初のピラトは、主イエスが死刑に値する犯罪者ではないと考えていたのです。に もかかわらず、「人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声 はますます強くなった」ために、彼らの要求通りの決定を下したのです。
この成り行きから、主イエスを十字架につけたのは、ピラトではなく、「人々」と記されている 当時の民衆であるユダヤ人だという理解が広がりました。そしてユダヤ人がキリストを殺したとい う宣伝が広まり、とうとうナチスドイツのホロコーストによってキリスト殺しのユダヤ人という安 易なレッテルが貼られ、世界最大の悲劇的ユダヤ人虐殺にいったのでした。この言葉に踊らされた のは、キリストを信じる人々でした。この罪深い理解が、多くのユダヤ人を虐殺する事件を無責任 にも見過ごしにしてしまうことにつながったのです。現在のヨーロッパでは、キリスト殺しのユダ ヤ人ということに関連するような誤解を生む言葉や理解に非常に敏感になっていると聞きます。
聖書を読み、ホロコーストを知っている私たちは、主イエスを十字架刑にしたのは誰かという問 いに、どう答えたら良いのでしょうか。私たちは、民族差別を生み出すような思考回路から信仰によって自由にならなければなりません。
使徒信条の「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という信仰告白の言葉を、どのように理解したら良いのでしょうか。なぜ、ポンテオ・ピラトという主イエスの死刑決 定者の固有名詞が信仰の告白の中に入っているのでしょうか。
私たちが信仰を告白する際、使徒信条のポンテオ・ピラトという名詞を唱える事は、どんな信仰を告白しているのでしょうか。果たして、ポンテオ・ピラトなる人物は、歴史上の人物なのでしょうか。
聖書に関係する考古学はめざましい成果をもたらしています。現在、ピラトの史実姓は、疑う余 地はありません。カイサリヤの海辺において発見された石の碑文が、ピラトの史実性を証明しまし た。この石の碑文に、ポンテオ・ピラトについて詳しく記されていました。そして、彼の称号は、 聖書に記されているとおり「プラエフェクトゥス」すなわち属州総督であることが確認されました 。そのほかにも、主イエスが歩いた神殿へと通じる階段や破壊された神殿の壁が主イエスの時代の ものであることが分かっています。また、主イエスをピラトに引き渡した大祭司カイアファの骨壺 が、エルサレム南壁近くで発見されています。さらにカイアファの義理の父アンナスの素晴らしい お墓まで発見されていますし、主イエスと同時代、十字架刑で処刑された痕跡が発掘され木製の十 字架に固定された板と足首の骨と釘がそのままで発掘され研究されています。
26節に登場するキレネ人シモンの骨壺が墓の中から見つかっています。そして、主イエスの十字架刑が執行されたゴルゴタの岩の場所が確定しています。
考古学の成果として理解出来ることは、ピラトがエルサレムの治安に責任を負う総督だったこと と、主イエスの十字架を巡る聖書の舞台が現実のものとして受け取れることです。
このように、考古学の研究によって、ポンテオ・ピラトと共に主イエスが実在したことが更に明 らかにされました。聖書の研究によって、ピラトの時代、主イエスが十字架刑で処刑されたことの 史実が証明されていると思います。史実であるということは、古代の教会会議の結論の「主イエスは真の神であり真の人である」の「真の人」が明らかにされていることを意味します。この史実性の証明によって、古代の教会を揺さぶったグノーシス主義の説明が崩れることになります。グノーシス主義者は、主イエスは十字架上で死んだのではなく、死んだように見えたのだと主張していたのです。しかし、そうではなく、主イエスは真の人間として本当に死んだのであることが告白されているのです。
私たちは、民族感情によってではなく信仰をもって聖書を読まなければなりません。聖書には、 主イエスの十字架を巡る人々が多く登場します。その中で一人主イエスは、人間として苦しみを受 け十字架につけられたのです。本日の聖書の御言葉の中には、主イエスご自身の苦しみの声や痛み は記されていません。しかし、主の言葉が響いてきます。
「26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架 を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イ エスに従った。28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしの ために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言 う日が来る。30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘 に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。31『生の木』さえこうされるのなら、『枯 れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
ここに記されている主イエスの言葉は、「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」です。主イエスがポンテオ・ピラトのもとに苦しみをうけたということは、人となった神が人間の苦しみを苦しんで下さったということです。私たちが主イエスの代わりに主イエスの痛みを覚えて共感して、主イエスはさぞくるんだことでしょうと主イエスの苦しみを思い巡らすのではなく、主イエスが私たちの苦しみを苦しんでくださっていることを信頼して、私たちが自らの苦しみを苦しむことが大切なのではないでしょうか。
私たちは、調子の良い時は、主イエスの苦しみを覚えていることが出来ますが、いざ、自分が苦しみのどん底に落とされた時、私たちは自分のことだけで精一杯になり、キリストの十字架を見上げることもしなくなるのです。主イエスが人間として地上の苦しみを担って下さったことを忘れることなく、「自分と自分の子供たちのために泣くこと」が求められているのです。主イエスこそ、 孤独の中で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」ておられるのです。主イエスこそ肉体の痛みをもって十字架刑に処刑され、この地上で経験する最も残酷な苦痛を十字架上で経験しておられ るのです。
主イエス・キリストが十字架にかけられたということは、およそ人間が経験する苦しみを神自ら 苦しんで下さったということです。誰が主イエスを苦しめたのでしょうか。それは、ピラトだけではありません。アンアスや大祭司カイアファだけでもありません。神の民と呼ばれ、選ばれた民と自負していたユダヤ人だけが主イエスを苦しめたのでしょうか。それだけでなく、神を仰ぐ全ての人間が主イエスを苦しめているといわなければならないと思います。今礼拝している、私たちこそ、主イエスを苦しめているといわなければならないのです。主イエスは人間の罪の結果を引き受けて、苦しみを受けられたのです。しかも、こんなはずではなかったというような思いではなく、父なる神に祈りながら、神の御心を受け入れながら苦しまれたのです。神の御心を受け入れながらということは、愛の決意をもって苦しまれたということです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを 受け」という信仰の告白は、現実に史実としてあの日、ピラトのもとで神の愛の決意をもって苦しんでおられる主イエスのお姿を信仰をもって覚えたいと思います。キリストの苦しみは、父なる神への信頼と服従を示しています。そして、同時に私たちへの愛が働いているのです。神の愛の決断 が主イエスを十字架の道へと歩ませました。神への信頼と服従をもって主イエスは苦しまれている のです。
私たちは、御言葉を通して主イエスの苦しみを直視しなければなりません。そして、私たちが主 イエスの苦しみを人ごととするのではなく、私たちに与えられている苦しみをしっかりと神への信 頼と服従をもって、受け止めたいと願います。
祈 祷
天の父なる神さま。私たちが十字架上の主イエスの苦しみを見上げる時、目をそら せることなく、しっかり見つめさせて下さい。主イエスの御苦しみをとおして、神への信頼と 服従を心に刻むことを得させて下さい。愛の決意を現す主イエスの御苦しみを覚えさせて下さ い。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン