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銀座の鐘

「三日目に死人のうちよりよみがえり」

説教集

更新日:2020年11月22日

2020年10月18日(日) 信徒伝道週間・聖霊降臨後第20主日 主日家庭礼拝  藤田 由香里 伝道師

ルカによる福音書24章1節〜12節

 本日は、使徒信条の「三日目に死人のうちよりよみがえり」という教会の信仰の中心にあ
たる告白についてです。
 まず、「三日目に」について考えてみましょう。具体的な日数によって、イエス様が死に
て葬られてから、一度完全に死なれてから、復活なさったことがわかります。また、復活が、 歴史において刻まれる約2000年前のポンテオ・ピラトの時代の「三日間」に起こったこ とを告げます。「三日間」は象徴的な数字でもあります。預言者ヨナは、大魚の腹の暗闇に 一人、3日間過ごし、悔い改め、救われました。ヨセフ物語のヨセフも、三日間投獄されて おりました。使徒パウロ(サウロ)は、復活の主イエスにダマスコ途上で出会ったとき、3 日間目が見えず、暗闇の中で悔い改め、目からうろこが落ちて、洗礼を受けました。主イエ スの十字架の際も、象徴的な三日間が実現しました。安息日をはさむことにより、律法の掟 に従い安息日の明けるのを待たねばならなかったからです。

 本日の聖書箇所の婦人たちはとても戸惑っています。十字架から主イエスを葬り、律法に 従って安息日が終えるのを待って、主イエスの葬りの備えをして十字架の三日後に墓に来ま した。すると墓は「空」でありました。しっかりとおさめた誰も入ったことのない墓、石が 脇に転がしてありました。婦人たちは中に入っても「主イエスの遺体」(3節)が見当たり ません。「遺体」は「身体」という単語です。「主イエスの身体」がどこにも見当たりませ ん。婦人たちは、墓の中にいるはずの主イエスの身体を、存在を探すのです。けれども、お りません。婦人たちは、「途方に暮れ」ました(4節)。イエス様がいると思っているとこ ろにいないのです。「途方に暮れる」は、「資源や手段、道を失う」という語源があります。 婦人たちはなすべきことを真摯になそうと悲哀の念をもって主の葬りに来ました。けれども、 そこに主の御身体がない。婦人たちが途方に暮れるのも無理ありません。ここで、神様は婦 人たちの思いを遥かに高く超える仕方で、救済の出来事を進められていました。

 婦人たちは、墓の中に主の身体を探しています。そこで天使は言うのです。「なぜ、生き ておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」
 婦人たちの抱く悲しみの現実ではなく、イエス様はもう死者の中にはおられない、生きて おられる、復活されたということが天使から告げられます。

 使徒信条は、「死からよみがえり」ではなく「死人のうちよりよみがえり」と告白しています。「死人のうち」からイエス様はよみがえられました。死者たちの中からです。つまり、イエス様はお一人で誰とも関係なく切り離され、神の御子として死なれ、復活されたのでは ないのです。死んでいる人々に一度葬られてよみに降って連なり、その死者たちの中からよ みがえったのです。イエス様の復活がどれほど私達人と関わってくださっているかというこ とがわかります。このことは、イエス様は私たちがどこに行ってどのような状態にあっても、 寄り添い、担ってくださるということを意味します。イエス様は、病にあっても、孤独に在っても、艱難にあったとしても、死においても、私達を担ってくださるのです。復活の命の 輝きをもって。

「わが主をたたえよ。/我らの救いの神は/日々、私たちを担ってくださる」(詩編68編 20節)

 「救済」は、この十字架にお架かりになった方の復活に結実しています。旧約聖書では、 罪により、人間はいつかは死を迎えることになりました。新約聖書において、主イエスが成 し遂げてくださったことは、死を乗り越える神の愛、死を乗り越える復活の命です。これは つまり、罪が赦され、義とされて、永遠の命を与えられるということです。御子のうちに命 があります(第一ヨハネ5:11)。「命は人間を照らす光」(ヨハネ福音書1:4)です。 イエス様の名を信じる私達には、永遠の命が与えられています。つまり、罪は赦されたとい うことなのです。
 「三日目に死人のうちよりよみがえり」この使徒信条の告白は、神様の愛、イエス様の与 えてくださる命を語るため、尊い告白です。
 このイエス様が教えられたことが「心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」という掟です。この掟を守るものは、神の愛が、イエス様が内に住まわってくださ います。愛は恐れを締め出します。目に見える兄弟を愛さないものは神を愛さないとヨハネ の手紙は語ります。十字架にかけろと叫ぶ群衆に赦しを祈る主イエスのお姿こそ愛ではない でしょうか。十字架を負うということを私たちは時にとても難しく感じてしまうと思います。 私達はイエス様ほど人を愛せません。イエス様ほど父なる神を愛せません。けれども、まず イエス様が、父が、私たちを愛してくださったのです。ですから、イエス様の愛のうちに赦されている私たちは神の子。新しく生まれさせられました。ですから、神を愛し、隣人のために真摯に祈るものとなれます。私達神の子とされた者の生き方を規定するもの、その中心には「3日目に死人のうちよりよみがえり」この出来事があります。

 み使いたちは言いました。「まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(6~7節)これが、戸惑う婦人たちを前に、既に決定されていた神様の御計画でありました。婦人たちは、イエス様の言葉を思い出しました。 そして、使徒たちに告げにいきます。使徒たちのほとんどは信じませんでした。けれど、三度主を裏切ったペトロは、考えます。そして、墓へ走ります。亜麻布を見て、驚きます。

 婦人たちや弟子たちの戸惑いと、真っ直ぐに遂行されていく神様の言葉、神様の御業が対されます。これは私達もそうだとおもいます。戸惑い、自分が今まで見てきた現実の方に理 解力が留まってしまう、そのようなことがあるのではないでしょうか。そして、歴史上一回の出来事である主イエスの復活、これはそれほどの驚くべき恵みであることも事実です。途 方に暮れ、畏れ、驚く弟子たちの前に、けれども、神様は真実な仕方で御言葉を成就なさいます。

 「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわた しの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)

 そして、「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。」(詩編139編) とあるように、わたしたちの弱さ、不信仰、戸惑いもご存じの上で、主は救いの御業を成し遂げられたのです。真実な方である神様が、愛する独り子を世にお与えになり、復活なさいました。救い主イエス・キリストは、復活の命をもって、ただ信じるわたしたちを養い、導き、命の囲いへと導いてくださるのです。主はわたしたちに、この知らせを宣べ伝えるようにとわたしたちを派遣されます。

祈り
私たちの救い主、主イエスキリストの父なる神様、御名を崇め賛美いたします。主イエスは、死人たちのうちから復活なさいました。主は、常に深く私達に愛をもって関わってくださいます。復活の命が与えられていることを覚え主の名を讃美いたします。どうかこの 驚くべき、命の知らせを私達も告げ知らせることができますように。あなたを愛し、隣人を愛して、あなたの完全な愛のうちに歩めますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。