「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」
説教集
更新日:2020年11月29日
2020年11月15日(日)聖霊降臨後第24主日 子ども祝福家族礼拝 伝道師 藤田 健太
マタイによる福音書16章13~20節
13:イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14:弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15:イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16:シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17:すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19:わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20:それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
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これまで私たちは使徒信条のなかで、主イエス・キリストの「死」と「復活」、「昇天」と「再臨」をたどりながら、使徒信条の信仰告白の意味を共に考えてきました。本日の直前の箇所には「 我は聖霊を信ず」とありました。聖霊なる神を信ずる信仰の上に、本日の「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」の告白がきます。聖霊の働きなしに「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」はありません。聖霊の働きのゆえに、教会はこの世の交わりと一線を画す特別な交わりとしての性質を与えられます。「聖なる」という言葉はこの世からの区別を指します。また、「公同の」という言葉は、この地上のどこにあっても、教会が一つであることを意味します。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信ず。「この地上の交わりとは一線を画す、地上のどこにあっても一つである特別な交わりが私たちの内にあることを信じます」―私たちは主日毎に、そのような信仰を神様に向かっ て告白していることを覚えましょう。
そのような教会の交わりが聖霊なる神様のお働きのもと与えられているわけですが、その事実を 私たちはマタイによる福音書16章13~20節のエピソードから知ることができると考えます。ヘロデ 大王の息子の一人であるヘロデ・フィリポが、支配者であるローマ皇帝に敬意を表して名付けたとされる「フィリポ・カイサリア」が本日の物語の舞台となります。ローマの皇帝をあがめるこの地域で、地上についての権威の問答がなされたことは偶然ではありません。私たちもまた、教会で誰を信じているのかが問い直されます。ローマの皇帝のような力を持った特定の誰かを私たちは信じているわけではありません。本日の箇所で、シモン・ペトロが告白するように、教会は「生ける神の子」であるキリストを信じる人々の群れだからです。地上の誰かではなく「生ける神の子」であるキリストを主と告白する私たちの上に聖霊の特別な働きが与えられます。聖霊のお働きがあるところに「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」が実現します。
主イエスは弟子たちに向かって「人々は、人の子のことを何者だと思っているか」とお尋ねになりました。すでに14章のエピソードにおいて、ヘロデ・アンティパスは主イエスのことを「洗礼者 ヨハネの生き返り」だと考えました。民衆たちはイエスを古の「預言者の再来」だと考えました。 それを踏まえたうえで、主イエスは、今度は弟子たちに向かってお尋ねになります。「それでは、 あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。「あなたはメシア・生ける神の子です」。地上の権威 が「神の子」であるキリストのもとにあることをペトロは正しく告白しました。主イエスはこの告白を「人間ではなく、わたしの天の父」による告白であるとほめたたえます。私たちの内に働く聖霊なる神様の御力が正しい信仰の告白を可能にします。私たちが口にする信仰告白の言葉は、私た ちの自由な意思に基づく告白であると同時に、神様の御意志に基づく告白です。信仰告白を口にする時、私たちは私たちの内に働く聖霊の力を知ることができます。
ペトロの信仰告白は主イエス御自身によって正しい告白と認められました。一方で福音書の物語はペトロの告白に含まれる「弱さ」をも隠さず描き出します。正しい告白をおこなったはずのペトロはその直後、主イエスの「死」と「復活」の事実を否定してしまいます(21節以下)。そんなペト ロに向かって、イエスは次のように言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔 をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロの信仰告白の「弱さ」は主イエスが捕らえられ、連れて行かれた「大祭司の家の中庭」で目に見えるかたちで現れてしまいます。 呪いの言葉さえ口にしながら、主イエスと自分の関係を否定したペトロの姿に、私たちは自らの信仰の「弱さ」を重ねることができるでしょう。
しかし、本日の箇所でペトロがおこなった信仰告白は主イエス御自身によって正しい告白と認められました。「弱さ」を抱えたペトロの告白は「からしだね」ほどの信仰から出た告白であったと言って良いでしょう。しかしそのような信仰による告白の上に、主イエス・キリストは「わたしの 教会を建てる」とおっしゃってくださったのでした。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建て る。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつな ぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。私たちの信仰告白の上に建てられるキリストの教会は陰府の力にもまさると言われます。さらには、神の子のまことの権威がキリストの教会にも与えられると言われます。教会は地上の特定の誰かの力によってではなく、聖霊の働きによって建てられる特別な交わりであることを先に申しました。主イエス・キリストを神の子と信じる「からしだね」ほどの信仰の上に、聖霊の特別な働きが与えられます。 福音書に描かれるペトロの信仰にわたしたち自身の信仰を重ねる時、私たちは私たちの信仰の「弱 さ」をおぎなって余りある神様の御力を見出すことになります。同時にわたしたちは、兄弟姉妹を励ますことによって「聖徒の交わり」に仕えることができることをも知らされます。「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)「弱さ」を抱えたペトロの信仰告白には主イエスの祈りが絶えず伴っていることをおぼえましょう。「弱さ」を抱えた私たちの信仰を「岩」のような堅固な信仰としてお用いになることができるのは、聖霊なる神様の働きです。「我は聖霊を信ず」―「聖なる公同 の教会、聖徒の交わり」を信ず。聖霊なる神様のお働きが、私たちの教会を特別な交わりとして立てあげてくださっていることに大きな希望と慰めを見出しましょう。
祈り
天の父なる神様、あなたが私たちの教会を特別な交わりとして立てあげてくださっているこ とに感謝いたします。弱さを抱えた私たちの信仰の上にもあなたはこのような交わりを打ち立てて くださいます。地上の荒波に揉まれる教会が、あなたから与えられている本来の信仰を失うことが ないようにお守りください。聖霊なる神様の御力に支えられて「聖なる公同の教会」を実現するこ とができますように。私たちの教会だけでなく、近隣の諸教会、日本基督教団の諸教会、世界の諸 教会をもまた、一つの交わりの内にお守りください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン