罪と死に対する勝利の歌
説教集
更新日:2021年03月20日
2021年3月14日(日) 受難節第4主日礼拝 家庭礼拝 伝道師 藤田 健太
マルコによる福音書14章27~31節
27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わた しは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。 28 しか し、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 29 するとペ トロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が 二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 31 ペトロは力を 込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのこ とを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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受難節第4主日を迎えました。本日はマルコによる福音書 14 章 27~31 節を通して神さ
まのみ言葉を共にお聞きしたいと思います。 主イエスは過越の食事のあと弟子たちと共にオリーブ山へ出かけました。本日の聖書箇所は一行がオリーブ山に旅立ったあとゲツセマネと呼ばれる場所に辿り着くまでの道で語 られた内容です。その直前には「一同は讃美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」 とあります。一同が歌った「讃美の歌」とは、慣例によれば、旧約聖書詩編 113 編から 118 編ではなかったかと言われます。詩編 113 編から 118 編は“ペサハ・ハレルヤ”(「過越の ハレルヤ」)と言って、ユダヤ教の伝統で過越の祭りの席で歌われる歌と理解されました。 その歌を通して、民たちは出エジプトの出来事を思い返します。出エジプトのハイライト は何と言っても「葦の海の奇跡」と「シナイ山における律法の授与」の出来事です。「葦 の海」と「シナイ山」はイスラエルの民にとって神さまによる救いの象徴です。「過越の 祭り」は神様による救いを思い返すための祭りでした。神さまによる救いの出来事を讃美 する歌を悠々と歌いながら、一行は心高らかにオリーブ山へと向かって行ったはずでした。 本日のみ言葉はそんな一同のお祝いのムードを打ち壊してしまうかのような主イエスの発 言です。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散 ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」―「打たれる羊飼い」とは主イエスご自身です。羊飼いが神さまによっ て打たれるのを目の当たりにして、羊たちは散ってしまうとされます。「散ってしまう羊」 とは主イエスの弟子たちのことです。神様の一人子であるはずのイエスさまが神様によっ て打たれてしまう。その出来事にショックを受けて、弟子たちは散り散りになって逃げて しまう、羊飼いであるイエスさまを見捨ててしまうことがここで明かされます。
そこで食い下がったのが弟子の一人のペトロでした。過越の詩編を歌ったことで彼の心 はいつもより高ぶっていたかもしれません。「たとえ、みんながつまずいても、わたしは つまずきません」と断言しました。自分はみんなとは違う。何があっても驚かないし、イ エスさまを見捨てることなどあり得ないと断言したのです。彼の自信がどのように打ち砕 かれることになったかは福音書の今後の展開の通りです。「はっきり言っておくが、あな たは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」― ユダによる裏切り、主イエスの捕縛、裁判、急転直下で続いてゆく目くるめく事態の中で ペトロの弱さが明らかにされてしまいます。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなって も、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と断言したペトロが自らの弱 さを目の当たりにして悔悟の涙を流すまでに時間はかかりません。ペトロだけでなく、弟 子たち皆が主イエスを見捨てて散り散りに逃げてしまったのでした。
「羊飼いと羊」に関する主イエスの譬えはゼカリヤ書13章7節からの引用です。この箇 所をもっとよく理解するために、ゼカリヤ書 13 章 7 節以下の全文を引用してみましょう。 「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同僚であった男に立ち向かえと 万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を 返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に 絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ 銀を精錬するように精錬し 金 を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に応え 『彼こそわたしの民』と言 い 彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう。」
預言者ゼカリヤの幻は謎と暗示に満ちていますが、「終わりの日」に起きる神さまの審 判を伝える預言であると理解されます。神さまの一人子である主イエスが十字架にお架か りになった時、確かに一つの歴史が終わりました。「人間の罪の歴史の終わり」、「人間 の死の歴史の終わり」が宣言されました。キリストの十字架以降、人間の罪に対して赦し が語られ、人間の死に対して復活の希望が語れるようになりました。主イエス・キリスト のお名前を通して、私たちが神さまに呼びかけ、神さまが私たちに応えてくださる、神さ まと私たちとの関係が新たに結ばれるようになりました。
「三分の二は死に絶え、三分の一が残る」というゼカリヤの凄まじい預言は実現するこ となく済んだでしょうか。しかし、十字架の時、弟子たちはサタンによってふるいに掛け られ、主イエスのもとに残った者は「三分の一」どころか誰一人としていませんでした。 そんな彼らが復活した主のもとに再び立ち返り、のちの教会の歴史を紡いでいったことは まさに奇跡的な出来事でした。弟子たちは罪を犯し、死が彼らを待つのみでした。しかし、 キリストの犠牲が弟子たちを死の定めから贖いました。エジプト脱出を上回る救いの体験 がそこに与えられました。
本日の主イエスの発言の後半部分にはゼカリヤの預言には語られていない新しい言葉が 付け加えられていることに気づかされます。「しかし、わたしは復活した後、あなたがた より先にガリラヤへ行く。」―この言葉はマルコによる福音書の結末部分、空の墓を前に した天使の口から再び語られることになります。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告 げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたと おり、そこでお目にかかれる』と。」―ガリラヤに向かう弟子たちの様子について福音書 は語り抜くことをしません。それゆえ、私たちはその情景を想像で補うほかないのですが、 弟子たちはきっと、復活の主を賛美し、自分たちの身に起こった救いの出来事を褒めたた える歌を歌いながらガリラヤへの道を歩んだのではないでしょうか。復活の主と出会うた め、彼らが歌ったその歌はかつてオリーブ山に向かう途上で彼らが歌った「過ぎ越しのハ レルヤ」に勝る恵みの歌ではなかったかと想像します。
受難節、私たちは主イエス・キリストの御苦しみを覚えます。しかしそれは私たちをい たずらに苦しめるための期間ではなく、主の御苦しみに与ることで、主の勝利と救いに与 っていることを確信するための期間であることを確かめましょう。罪と死に対する勝利の 歌を弟子たちと共に歌って過ごしましょう。
祈 り
天の父なる神さま。主の十字架を見つめることでいよいよ深まる救いの確信を覚え ます。過越の恵みにまさる勝利の歌を私たちにお授けくださったことを感謝いたします。 復活の主を私たちの救いの旗印とし、私たちが主の十字架を担う僕として召されているこ とを覚えて過ごすことができますように。 主イエスの御名によって祈ります。アーメン