「聖霊は一人一人に」
説教集
更新日:2021年05月23日
2021年5月23日(日)聖霊降臨日 主日礼拝 ペンテコステ家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
使徒言行録2章1~4節
1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来 るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が 分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、 “ 霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
聖書をもっと知りたければ・・・
» 一般財団法人日本聖書協会ホームページへ
「五旬祭の日が来て」、聖霊が降り、新しいイスラエルとしての教会が誕生したことが記されています。五旬祭とはユダヤ教の過越祭から五十日目(ペンテコステ)に行われます。ユダヤ教において当初は、大麦の刈入れの終わりを告げ、七週間後の小麦の収穫までつづく季節の終わりを知らせる収穫感謝の日で、七週の祭りとも呼ばれるユダヤのお祭りです。しかし、その後、モーセがシナイ山において神から律法を授けられた日という意味も与えられ、出エジプトのイスラエルの民が「神の民」として整えられるために礼拝と生活の規範として律法を与えられたことを感謝し、記念するという意味が付け加えられました。使徒言行録の最初の聖霊降臨日は、律法授与記念日 として迎えていたと思われます。
キリスト教会においてペンテコステは、このようなユダヤのお祭りを継承している のではなく、キリスト教の三大祝祭の一つ聖霊降臨日として、教会の誕生日、伝道開 始の日として覚え、礼拝をささげます。本日の聖書は、最初の聖霊降臨日の出来事が 記されている箇所です。キリスト教会は、ペンテコステは収穫祭としてではなく、五 十日目に約束通り聖霊が降った出来事を思い起こし、イースター、クリスマスと並ぶ
大切な礼拝を守ります。
最初の聖霊降臨日(ペンテコステ)は、祈るために集まっていた主イエスを信じる群れが、不思議な経験をしました。天から激しい風の音が家中に響き、風音によって聖霊なる 神が、祈りの部屋に来られたのです。待ちに待っていた聖霊が降る日を迎えました。この 出来事を聖霊降臨と呼びます。聖霊が降った後、不思議な出来事が起こりました。主の群 れ一人一人に「炎のような舌」が与えられる出来事です。この炎のような舌を与えられた 人々が、地中海世界各地で日常的に用いられている様々な言葉で語り出したというのです。
主の弟子たちが、このような不思議な経験をしたことの意味は、エルサレムに集まった 主の弟子たちをはじめとする多くの祈る人々が、一同に集まったということです。新しいイスラエルとしての教会が形成されるように、聖霊なる神の導きによって一人一人が集められたのです。しかも、イスラエルの言葉だけでなく周辺のすべての言葉で語られたという事が意味しているのは、突然語学が身についたというより、神の救いのみ業がイスラエルだけに留まることなく、世界へ告げ知らされはじめたということです。聖霊降臨日は、 世界への伝道という務めが、聖霊によって与えられ、具体的に開始されたことを明らかにしているのです。聖霊降臨以降、主イエス・キリストの福音は、この出来事が指し示しているように、世界へ伝えられていきました。聖霊降臨によって、使徒たちが御言葉を語りはじめました。使徒たちによる福音伝道がはじまりました。
「一同が一つになって集まっていると」とあります。ギリシャ語の聖書では、「一緒 に」と「同じ所に」という二つの言葉が続いて書かれ集まっていることが強調されています。復活のキリストによって心を一つにされた集まりです。彼らはなぜ集まって いたのでしょうか。一同が一つになって集まっていたのは、目的なく集まっていたの ではありません。一同集まっていた理由が、使徒言行録 1 章に記されています。
「3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使 徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」「4 そし て、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5 ヨハネは水で洗礼を授けた が、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」」
十字架と復活の主イエスは、ご自身の復活のお姿を四十日間にわたって現され、神 の国について語られました。そして、食事の席でお命じになった言葉が続いて 4節以 下に記されています。ここに記されている通り、一同が一つになって集まっていた理 由は、復活の主イエスが昇天される前に語られた「父の約束」を待っていたからです。 父の約束されたものを待ちなさいと語られた、復活の主イエスの御言葉を忘れることなく心に留めて待っていたのです。聖霊降臨は父なる神の約束されたものなのです。 父の約束は、聖霊なる神が祈る交わりの中に降り、使徒言行録1章8節の御言葉が実 現しました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、 エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、 わたしの証人となる。」昇天される直前、主イエスがお語りになった「あなたがたは 力を受ける」というこの力とは、復活の主イエスの証人となるということなのです。 一同が一つになって、父の約束されたものを待ち望み、約束通り聖霊が降り、地の果 てに至るまで復活の主イエスを証しする証人になったのです。
その具体的な姿が、聖書のこのようにして描かれています。「2 突然、激しい風が 吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎 のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖 霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
使徒たちが突然語学の天才になったのではなく、キリストの証人として御言葉を与え られ、語りはじめたのです。聖霊が降ったということは、聖霊なる神の導きによって 洗礼へと導かれる言葉が与えられたのです。信仰者が集まる群れとして教会が与えら れ、洗礼へ導かれる伝道が力強く開始されました。
聖霊降臨日、私たちは「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言 えないのです。」(コリントの信徒への手紙一12章3節)の御言葉を心に刻みたい と思います。私たちが礼拝を捧げる時、信仰を告白する時、祈る時、聖霊なる神さま がお働きになっているのです。聖霊は見えないから分からないと言ってはなりません。 私たちが礼拝を捧げる時、讃美する時、聖書を読む時、聖霊なる神さまがおられるの です。聖霊なる神がおられて、助け導いて下さっているにもかかわらず、聖霊はいな いかのようにふるまっていたらどうでしょうか。
私たちは礼拝において、日本基督教団信仰告白、または使徒信条をもって信仰を告 白いたします。そのつど「我は聖霊を信ず」と告白します。父なる神を信ず、独り子 イエス・キリストを信ずと共に三位一体の神を信じる信仰を告白します。使徒信条で は父子聖霊を信じる告白の直後に、「主は聖霊によりてやどり」と続きます。聖霊は キリストを私たちにもたらしてくださり、信仰の実を結ぶ力として働くのです。聖霊 によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。この御言葉は、キ リストによる救いを私たちにもたらしてくださるのは聖霊であるということです。聖
霊はキリストの働きを私たちの内に結実させてくださるのです。聖霊は、私たちに信 仰を与え、教会につなげてくださり、御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)に与らせてくだ さるのです。聖霊によって私たちは、信仰と希望と愛を与えられて、「一つに集めら れ」るのです。キリスト教会最大の教父と呼ばれる4世紀に活躍したアウグスティヌ スは聖霊とは「御父と御子の愛の絆」と語りました。御父と御子の愛の交わりである 聖霊は、私たちのうちに愛の絆として神を信じる信仰を確かにしてくれるのです。聖 霊は、神と私たちを結ぶ絆です。「聖霊を信ず」というとき、私たちは相互に分断さ れるこの世の力にあって神の愛の結合の力が与えられていることを思い起こし、神を 信頼して生きるのです。
聖霊は、ヘブライ語でルーアッハ、ギリシャ語でプネウマと発音します。どちらも 「息」を意味し「命」の源を示す言葉です。命を与える聖霊が、私たちを神と結び合 わせてくださり、生き生きと生きる力を与えてくださるのです。聖霊は「命をもたら す霊」(ローマ8章2節)です。
聖霊降臨日に与えられた聖霊の働きと助けによって救いの確信を与えられて生きる のです。
祈りましょう。 天の父なる神さま、復活の主イエスを通して与えられた父なる神の約束が実現し、聖霊が降り、私たちを復活の証人にしてくださいました。私たちの力ではなく、聖霊なる神の 御力によって、伝道の言葉が与えられ、教会を形成し、あなたの命に生かされていること を感謝いたします。聖霊の導きのまま、あなたのみ声を聞き続け、洗礼への道をお与えく ださい。主イエスの御名によって祈ります。 アーメン