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銀座の鐘

安息日のいやし

説教集

更新日:2021年06月13日

2021年6月 13 日(日)聖霊降臨後第3主日 家庭礼拝 花の日子どもの日 牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書3章1~6節

 伝道を開始した主イエスは、ガリラヤ中の会堂で教えていました。本日の聖書の舞
台は、ある安息日の会堂です。旧約聖書モーセの十戒第4戒には「安息日を心に留め、 これを聖別せよ」とあります。出エジプト記20章「8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、 主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

 主イエスの時代、ユダヤ教の教えとして安息日、すなわち七日目は「いかなる仕事もし てはならない」と定められていました。ところが、主イエスはマルコ1章21節以下で安 息日の会堂で汚れた霊に取り憑かれた男をいやされました。2章1節以下では、安息日で はありませんが中風の人に対して「あなたの罪は赦される」と権威ある神の言葉を語り、 いやされました。2章23節以下、安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘み始めまし た。これがファリサイ派の人々から律法違反と問題にされました。安息日は「いかなる仕 事もしてはならない」麦の穂を摘むこともしてはならないのだと迫られました。ところが、 主イエスは「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だか ら、人の子は安息日の主でもある。」と語りました。
 このような安息日違反の疑いを巡るこれまでの積み重ねの中で、ファリサイ派の人々は、 本日の御言葉にあるように「2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気 をいやされるかどうか、注目していた。」のです。非常に緊張感漂う会堂の様子です。
  日本の戦時中の主日礼拝も特別な緊張感が漂っていました。今月、日本基督教団創立80周年を迎えます。1941年6月24~25日富士見町教会を会場に創立総会が行われ ました。その翌年の6月、ホーリネス系教会が治安維持法違反という理由で弾圧を受けま した。その後約10ケ月間の間に教職134名が検挙されました。134名中75名が起訴 されました。10名が懲役刑、7名が病死しています。現在では想像することも出来ない ような礼拝弾圧です。敵国宗教としてキリスト教の礼拝は監視されました。
安息日、主イエスは監視する者が注目している会堂内で、「手の萎えた人」に「真ん中 に立ちなさい」と語りました。
 当時のファリサイ派の理解では、命の危険や緊急処置などの場合は、安息日でも治療を して良いことになっていました。主イエスが立たせた「手の萎えた人」は、明らかに命の 危険や緊急な治療を必要としている人ではありません。主イエスが彼をいやすのであれば、 数時間後、安息日が明けてからでもよかったのです。当時のユダヤの社会の人々の目には、 明らかに安息日律法に対する挑戦的な掟破りにしか見えなかったと思われます。主イエス の行動は、大胆な確信犯であり問題提起者としか理解出来ないのです。
 安息日の会堂において、誰からも見えるところで手の萎えた男に「真ん中に立ちなさい」 と語りました。主イエスは「「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を 行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。5 そこで、イエスは怒 って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」 と言われた。
 ファリサイ派の人々を初めとして、そこにいたモーセの律法を忠実に守っていた人々は、 主イエスはどうして緊急でもないのにわざわざ挑発して、安息日の会堂で誤解を招くよう な癒しという行動を起こすのか、悪を行うとか殺すこととか、手の萎えた人の問題をすり 替えて混乱させないでほしいと考えたでしょう。
 一方、主イエスの側に立つならば、律法を守ることよりも善を行うこと、命を救うこと、愛の業が大切なのだ。これまで誰も律法学者に対して言えなかったことを代わりに勇気を 持って語ってくれた。イエスさま頑張れとエールを送るのでしょうか。
 聖書が私たちに伝えている大切なことはこのいずれかでもないのです。主イエスの言葉 は、律法を守ることや律法より大切な事があるという主張にこだわると見えなくなってし まうのです。主イエスの言葉を聞いた人々は黙っていました。緊張した対立の中で黙って いた人々に対して、主イエスは怒って人々を見回したとあります。ほとんど怒ることのな い主イエスが怒っています。主イエスの怒りの理由はなんでしょうか。主イエスは何に対 して怒っているのでしょうか。「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲 しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。
 主イエスは私たちのかたくなな心を悲しみ怒っているのです。私たちはファリサイ 派の側につくことか、イエスさまの側につくことしか考えないのです。そうではなく、 主イエスの教えを通して、安息日の主の御心を知り信じること、神を信じることが大切なのです。もっとも大切な事を横に置いて、ファリサイ派と主イエスの対立だけに心を奪われてしまっているのです。会堂において神の言葉が実現する信仰を中心にすることがどうして出来ないのだろうか、神を仰ぐことがどうして妨げられているのだろうか。私たちのかたくなな心を見抜いて嘆き、怒っておられるのです。安息日に仕事をしないように監視するあまり、父なる神の声に耳をふさいてしまっているのです。 神を神として礼拝していないのです。自分自身が人から後ろ指を指されないことが大切で、安息日の主に関心がないかのように生きているのです。神が真の安息を与えようとしているにもかかわらず、神とともなる安息はどうでもよいかのように生きているのです。そのような私たちに主イエスは怒ってくださるのです。
 安息日の律法の最も大切なことは、申命記5章15節「あなたはかつてエジプトの 国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出 されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守る よう命じられたのである」この御言葉に心を向けましょう。
 主イエスは、安息日の主、「神が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出した ことを思い起こさねばならない」この御言葉に立ち帰ることを私たちに教えているの です。まさに、主イエスは、心かたくなにして、安息日の律法を守ったふりをして神に背を向けている人々に対して、神の御手、神の御腕が伸ばされて、導き出され救い出されたことを忘れてしまったのかと悲しんでいるのです。奴隷であった神の民の救いの出来事、神の救いの御業を「思い起こ」すことが求められています。
 主イエスは安息日に本来の安息日の意味として神の救いの御業を見ることを教えて くださったのです。安息日、主イエスが会堂において手の萎えた人を真ん中に立たせ て「手を伸ばしなさい」と命じられたのは、律法違反を助長する為ではなく、この日こそ神の救いの御業、神の御腕によって救われたことを思い起こさせる為だったのです。安息日を心に留めるということは、「七日目」神の御業を心に留める日なのです。 私たちは時間の中を生きています。十戒は主なる神に属する日があることを教えています。天地創造の神の御業を心に留め、出エジプト記の神の民が導き出されたことを思い起こすことによって、主の安息日を守り、主なる神に出会うのです。一切の仕事を中断して、神の時を過ごします。安息日のヘブライ語シャッバートという名詞は、 シャーバトという動詞と関係して「やめる、終わる」という意味をもっています。主は主ご自身に属する日を定め、この日は人間のものではなく主のためにある日であると宣言するのが安息日シャッバートなのです。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。
 この主イエスの語った御言葉通り、安息日は安息日の主の御前に立つのです。出エ ジプト記は、天地創造の記念として安息日を心に留め、申命記においては出エジプト の解放記念として安息日を守ることと記されています。天地創造の御業によってはじ められた神の御支配は、エジプトの奴隷として働かされていた神の民の救いの御業へ と進みます。神の創造の御業の完成にあずかることが安息日です。神の御業には完成 があるのです。安息日、神の御業の完成を自分のこととして喜ぶことが許されていま す。私たちは限りのある者であっても神が六日働いて七日目に休み、ご自分の御業の 完成を祝われたように、主イエスの救いの御業を見ることが出来るのです。それこそ が手の萎えた人が手を伸ばした救いの御業なのです。安息日、主イエスは会堂におい て、手を用いず、言葉によって救いの御業を示してくださいました。律法学者たちは、 この主イエスの言葉だけでは律法違反であると立証することは出来ませんでした。立ち去るしかなかったのです。彼らは、悔しさあまり、主イエスを殺す相談をはじめました。私たちは、この御言葉を通して、安息日の大切な意味を理解し、安息日こそ神の救いの御業以外に心を奪われることなく、主の御名を讃美したいと願います。

 祈りましょう。
 天の父なる神さま、律法学者たちが監視する礼拝において、主イエスが真の安息日について教え示してくださいました。真の安息日の主を仰ぎ、神の御業の完成を喜び、讃美し、 祈る心をお与えください。主イエスの御名によって祈ります。
アーメン