キリストにあって教えられ
説教集
更新日:2021年06月20日
2021年6月20日(日)聖霊降臨後第4主日 主日礼拝 家庭礼拝 近藤 勝彦 牧師
エフェソの信徒への手紙 4章17~24節
4:17 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではな りません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とそ の心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。19 そして、無感覚になって放 縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。20 しか し、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。21 キリストについて 聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱 ぎ捨て、23 心の底から新たにされて、24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、 真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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信仰は、信仰による生活をもたらします。イエス・キリストの福音は、私たちにキリス ト信仰を伝え、キリストにある生活を与えてくれます。それでエフェソの信徒への手紙は 、前半で福音信仰の内容を語り、後半で福音による生活を語っています。このことは前に 何度かお話ししました。それで4章1節は「主に結ばれて囚人となっているわたしはあな たがたに勧めます」と言って、主にある生活の勧めを記し始めました。その内容は「霊に よる一致を保つように努めなさい」という勧めでした。今朝の17節で、この手紙の著者である教会の使徒的な師は再び記します。「そこで、わたしは主によって強く勧めます。」
ただ「勧める」だけでなく、「強く勧める」と訳されているのは、「言う」という言葉 と「懇願する」という言葉、二つの言葉が重ねて使用されているからです。「このように 語り、懇願する」、「手を合わさんばかりに懇願する」と訳されてよい言葉で、これを聞 き流すことはとうていできません。勧めの内容は、「霊による一致を保つように努めなさ い」に次ぐ基本的勧めで、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」というのです。
「異邦人」と言えば、ユダヤ人でない人々、代表的にはギリシャ人です。しかし厳密な 意味でギリシャに住む人だけでなく、小アジアの地域も含めて、この時代のヘレニズム世 界に生きたユダヤ人以外のすべての人が異邦人でした。「異教の人」「異教徒」と言って もよいでしょう。この手紙を受け取った人々は皆ユダヤ人ではありませんでしたから、か つては異教徒として異教の環境の中に生きていた人々です。しかし「もはや、異邦人と同 じように歩んではなりません」と言われます。
私たちもかつては「異邦人」でした。多くはイエス・キリストと関りのない異教的環境 の中に生きてきました。今も、そうした環境の中で、しかし福音によって生かされていま す。福音による生活を生きようとしています。ですから、この勧めは私たち全員に関わる と言ってよいでしょう。たとえ異教の社会の中にあっても、もはや、異教徒と同じように 歩んではなりませんと言われるわけです。
異邦人・異教徒の歩み方とは何でしょうか。いくつかのキーワードによって語られてい ます。例えば、「愚かな考え」に従って歩んでいると言い、「知性」は暗く、あるいは「 無知」とさえ言われます。実際はギリシャ人は知恵を熱心に求める人々でした。パウロは それをよく知っていて、「ギリシャ人は知恵を求める」(一コリ1・22)と記していま す。当時のギリシャ人は「知恵」を愛し求めて、「哲学」を生み出した人々でした。彼ら が重大視した知識や知性は、本来なら光輝くもので、光によって人々を導くと考えられた でしょう。しかしその知性は暗くなり、「彼らの中にあるのは無知」とまでここでは言い ます。それに「心のかたくなさ」があって、「神の命から遠く離れている」とも言います 。「かたくなな心」は、すべてについて自分自身を中心に置くものです。自己中心を手離 せず、知恵もその状態から離れられません。結果は、神の命から遠く離れることになりま す。「知性の暗さ」と「心のかたくなさ」に続いて、「放縦な生活」「ふしだらな行為」 がさらに語られます。「知性」と「心」のあり様から、道徳生活の腐敗に及ぶわけです。 この繋がりを考えてみると、自己中心の連鎖ではないでしょうか。知性の暗さにも心のか たくなさにも、放縦でふしだらな生活にも一貫しているのは、自分を中心に置き、自分を 手離せない自己中心ではないでしょうか。そしてそれは「神の命から遠く離れて」いるこ とになります。神の命から遠く離れていれば、知性もまた暗くなるでしょう。それでもな お心かたくなに自己中心に生きるなら、「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふし だらな行いにふけってとどまるところを知らない」という状態になります。この進行はと どまるところを知らず、どこまで行くでしょうか。聖書は、その歩みを「情欲に迷わされ 、滅びに向かっている」と記します。
聖書は他人事(ひとごと)を語っているわけではありません。すべて異邦人の歩み方を している人、そこに留まっている人の状態を受けとめ、キリスト教信仰を与えられたあな たがた自身はそのように歩んではなりませんと言うのです。それはかつてはあなたがた自身の歩み方でした。しかし今は、もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。
この線上で、「虚偽の情欲」あるいは「だます情欲」という表現が22節に出てきます 。情欲(エピスミア)という言葉は、欲望、欲情であり、リビドーです。心理学の中には 、そうした欲情の発露を押さえつけるより、むしろ解放することによって、その人自身として生きられると主張する説もあるようです。しかし情欲がそもそも虚偽で、人を騙すとすれば、それに従ってでは、その人自身を真実に解放し、自己実現をもたらすことはできないでしょう。「情欲の詐欺」にもまた、自己中心が働いて、その人自身を滅ぼす、自己中心による自己破壊という事態が潜んでいるように思われます。
あなたがたも以前はそのように歩んでいた。「滅びに向かっている古い人」だった。しかし今は違う。今は断固違っている。その理由は、20節に語られています。今はその歩 みにいない。なぜそう言えるか。ここが重大です。ここに人生の岐路があるからです。その岐路の表現は、「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません」と言います。決定的な岐路は「キリストを学んだ」ということです。「異邦人と同じ ように歩んではなりません」。なぜか。そのようにキリストを学んだのではないからです 。それではどうキリストを学んだでしょうか。それが決定的です。学んだとは、知っている、よく知っていることです。このことが私たちの以前と今、古い人と新しい人を分かち ます。
キリストをどう学び、どう知ったでしょうか。このことが今朝、心に止めるべき決定的なことでしょう。ある聖書訳はこの個所を「キリストに学ぶ」と訳しています。キリストに何を学ぶのでしょう。信仰生活のあり方をキリストに学ぶというのでしょうか。しかし聖書は別のことでなく、「キリストを学ぶ」と明らかに語っています。続いて「キリストを聞く」とあります。私たちの聖書には「キリストについて聞き」とありますが、残念ながら適切ではないでしょう。「キリストを聞く」と言われています。キリストを聞くのは 、キリストが活けるキリストとして語ってくださっているからです。キリストを学び、キリストを聞きます。そして、キリストにあって教えられた、真理がイエスにある通りに、 と言います。イエスに真理がある通りに、イエスにある真理、真理そのものであるキリストを学び、キリストを聞き、キリストにあって教えられる。それがキリスト者としての新しい人の生活だと言うのです。
私たちは、本当に、キリストを学び、キリストを聞き、キリストにあって真理そのものであるキリストを教えられているでしょうか。説教の使命はまさにここにあるに違いないと思います。キリストを学び、キリストを聞き、そしてキリストにあって真理であるキリスト御自身を教えられる、そういう説教をしてきたかと自問させられます。宗教改革者マルティン・ルターが語った言葉が、思い起されます。彼は、「キリストを持つ」という言い方をしました。本当に「キリストを学び、キリストを聞く」なら、キリストを「持つ」 に至るというのです。そしてこう言いました。「キリストが神であり、人であることを知っても、それではまだあなたはキリストを持ったことにならない。この最もきよく、全く汚れのない方が、父なる神によってあなたに与えられ、あなたの大祭司、贖い主、いやあなたの僕となられたということを信じるとき、あなたは本当に彼を持つのである」と。
私たちはキリストを学び、キリストを聞き、キリストにあって教えられています。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に死なれた方です。そして復活し今日共におられる方です。今日私たちに仕えてくださっている方です。このキリストを学び、このキリストを聞き、このキリストにあって教えられています。そのとき、私たちはもはや、滅びに向かっている古い人ではありません。そうであるはずはないのです。異邦人と同じように歩むはずはないでしょう。心の底から新しくされ、神にかたどって造られた新しい人を生きるのではないでしょうか。
「キリストに結ばれて教えられ」は、「キリストにあって教えられ」という言葉です。 そして「キリストにあって」というのは、「キリストの中にあって」ということで、「洗礼」(バプテスマ)を意味しています。「洗礼」によってキリストの中に入れられ、キリストと共に死ぬ、それが「キリストにあって」です。「キリストにあって」は、またキリストの復活の命にあずかって生きることを意味します。洗礼によってキリストの死に入れられ、その甦りの体の一部として新しく生かされる。それが古い人を脱いで、「新しい人 を身に着ける」ことです。「キリストにある」者とされて、異教的な生活の道に戻るはずはありません。
「キリストにあって」ということが「洗礼」を意味するなら、「キリストにあって教え られる」というのは、洗礼前に受ける洗礼教育というよりも、洗礼後に続く教会生活、そ れがキリストにあって教えられるキリストの学校の生活とも言えるでしょう。キリストに あって教えられ続け、キリストから離れようのない人生を歩んでいます。キリストに愛され、仕えられ、さらに深くキリストを聞き、学び、教えられつつ歩みます。この歩みも地上ではやがて終わりを迎えるでしょう。しかしそれは、滅びに向かう歩みではありません 。その死は滅びではありません。キリストと共に神の命に生き、栄光のキリストにあずかる新しい人の歩みです。感謝して祈りましょう。
祈り:聖なる天の御父、あなたが遣わされた主なるイエス・キリストを学び、聞き、主に あって教えられている御恵みを、心から感謝申し上げます。活ける復活の主イエス・キリ ストとの交わりの中で、主イエスを深く知り、主と共に死に、主と共に生きて、あなたの 命にあずかることができますことを感謝します。滅びに向かう古い人を脱ぎ捨て、神にか たどって造られた新しい人を身に着けて、あなたの義と平和に生きることができますよう に。そのようにして真実に御名を誉め讃えることができますように導いてください。主イ エス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。