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銀座の鐘

主イエスの受難予告とその意味

説教集

更新日:2021年10月03日

2021年10月3日(日)聖霊降臨後第19主日 世界聖餐日、世界宣教の日 主日礼拝  家庭礼拝 牧師 髙 橋 潤

マルコによる福音書8章31~38節

 本日与えられた御言葉は、主イエス・キリストが語られた、第1回目の受難予告で す。主イエスの受難予告は、9章30節、10章32節にも記されています。主イエスは、十字架のお架かりになる前に3回受難予告をされました。第1回目の受難予告は、31 節の「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」という言葉です。3回の受難予告では、「十字架」という言葉は用いられませんが、明らかに十字架の出来事と三日 目の復活を予告しています。具体的には、祭司長たちや律法学者たちから排斥されて「殺される」という予告です。
 主の弟子ペトロは、「イエスをわきへお連れしていさめ始めた」とあります。ペト ロにとって主イエスの受難予告は、到底受け入れられないことでした。12弟子の代 表として、他の弟子たちのことを考えても、弟子たち以外にも多くの人々が主イエス に従っていました。弟子たちは自分の人生を投げ捨てて主イエスに従って来ました。 突然、主イエスが目の前で殺されることなど、想像もしたくないことでした。あって はならないことです。ペトロははじめて受難予告を聞き、イエスさまが狂ってしまっ たのではないかと受け止めたのでしょうか。主イエスが突然、祭司長たちへの敗北宣 言に聞こえる弱音をはいたと思ったのではないでしょうか。ペトロは主イエスをわき へお連れして、イエスさま、あなたの考えは間違っていますと教えたのです。
 ペトロにとって第1回目の受難予告は、他の弟子たちや周りの人々に対しても今後 の伝道のためにも受け入れられない言葉でした。主イエスの周りの人に主イエスが殺 されると語っていることが知られたら、この後、どんなに素晴らしいことを語っても 愛の業を行っても誰も見向きもしなくなるのではないかと考えたでしょう。これまで 積み重ねてきた伝道も含めて、主イエスのすべての言葉が失敗に終わってしまう。弟 子たちの人生も失敗に終わり、いままで主イエスに癒やされた人々も途方に暮れてし まうと考えました。私たちも、ペトロと同じように考えるのではないでしょうか。祭 司長や律法学者たちから狙われていたことは承知のことでした。どうしてみすみす抵 抗も戦いもせずに殺されなければならないのでしょうか。彼らの思い通りにさせて良 いのでしょうか。私たちは、主イエスの受難予告をどのように受け止めたら良いので しょうか。
 群衆に対して主イエスは、教えと癒やしを通して愛の業を語り実行してこられまし
た。その主イエスの伝道と受難予告は、断絶するのではなくつながっているのです。 ペトロや私たちは、主イエスの伝道は、イエスさまが殺されてしまったらこれまでの 伝道が敗北してしまうと考えてしまいます。しかし、主イエスの伝道はキリストの受 難によって完成に向かうことを教えているのです。どうして、主イエスが苦しみ十字 架によって殺されることが伝道の完成に向かうのでしょうか。
 主イエスが悪霊に取り憑かれた人々を癒やされたのは、主イエスの赦しと愛の力で した。主イエスは、弟子たちを愛し、赦すために、そして私たちを愛し赦すために御 言葉と愛の業に続いてご自身の血を流す決断をしたのです。単に祭司長や律法学者の 策略に降参したのではなく、彼らの策略を受け入れた形で、人間の罪とこの世の死の 力に対して神の戦いが開始されたのです。ご自身の命を捧げることを通して、真の命 を与える救いの計画なのです。主イエス殺害計画が神によって受け止められ、神が罪 人を愛し赦す決断が受難予告の本当の姿なのです。
 犠牲の小羊が祭壇に捧げられ屠られることで、犠牲を捧げた人々が神の裁きを免れ るように、主イエスが犠牲の小羊となって、私たちが赦され愛されるのです。それが、主イエスの受難です。神は主イエスの命を私たちの罪を赦すために献げることを通して、神の赦しと愛を完成させるのです。この神の愛の決断が受難予告です。主イエスの受難は、祭司長たちの陰謀によって殺されることと神が主イエスを犠牲の小羊とするという両方の思いが一つになっていることを理解する必要があるのです。
 主イエスの受難は、単に祭司長たちの悪巧みだけではなく、この悪巧みを飲み込む 様にして、神の救いのご計画が進んで行きます。主イエスの受難を通して、神の救い の決断が実行され、罪人の救いが完成へと向かうのです。
 マルコによる福音書8章は、これまで一度も語られなかった神の救いのご計画が明 らかにされ始めたことを伝えています。主イエスの口を通してはじめて語られた神の 愛の計画として受け止めたいと思います。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」神のご計画は、神の愛の決断によって、キリストの血が流されることによって、主に愛された一人一人にキリストの命が与えられることを意味します。ゆえに「人の子」すなわち主イエスが殺され、キリストの命に生かされるために、主イエスが復活するのです。32 節「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」とあるように神の救いのご計画がはっきりと主イエスによって話されたのです。神が罪人を裁き滅ぼすのではなく、神が私たちの身代わりとなる主イエスに苦しみを負わせ、あえて主イエスを見捨てて、殺されることを通して、神の御心である愛と救いが実現するのです。
 だからこそ、主イエスをいさめたペトロに対して「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と大変強い言葉でペトロに「引き下がれ」と語ったのです。引き下がれとは、主イエスの後ろに引き下がれという意味です。神の御心を求めず、誤解して主イエスの前に出しゃばったペトロを突き放したのではなく、主イエスの後ろに退かせ、従わせようとする言葉です。人間の思いで考えるならば、主イエスが犠牲の死を遂げることは、誰も考えもつかない計画です。しかし、神は人間を罰する計画ではなく、救いの道を開く愛のご計画を受難予告として語り始められたのです。この受難予告は、主イエスの十字架と復活の出来事によって実現しました。
「34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」」
 神の愛の計画は、キリストの死を通して実現しました。キリストの命は福音のため に献げられ、救いを実現したのです。主イエスが受けた苦しみは主イエスの罪のため ではなく、私たちの罪のために身代わりとなってくださったのです。主イエスが十字 架で殺されるということは主イエスの罪が原因ではなく、主イエスを十字架につけて 殺したいという人間がもっている神殺しの罪を引き受けるためだったのです。
 主イエスは私たちをむしばむ罪を克服し、罪に打ち勝つ道を開くために復活されま した。これが神の愛の真実です。神の救いのご計画は、私たちを滅ぼす罪との戦いで す。主イエスは「長老、祭司長、律法学者」を地上から排除し討ち滅ぼす道を選びま せんでした。そのような方法では、救いは完成しないのです。主イエスは十字架と復 活への道を進みます。主イエスはご自分のためではなく、私たちの救いのために死と
戦い勝利し、復活のお姿を通して神の愛を明らかにしてくださいました。
 私たちはこの十字架の主に従いたいと願います。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」自分を捨てるということは、自分のことばかり、人間中心に考えるのではなく、主イエスを見上げ、神の御心を求めることです。神さまを礼拝する姿勢こそ「自分を捨て」ることです。神の愛の決断を感謝して受け止め、神の救いのご計画にあずかっている幸いをかみしめ、感謝したいと願います。