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銀座の鐘

悪霊よりも深刻な課題

説教集

更新日:2021年10月25日

2021年10月17日(日) 聖霊降臨後第21主日・信徒伝道週間 主日礼拝 家庭礼拝 伝道師 藤田 健太

マルコによる福音書9章14~29節

 主日礼拝においてマルコによる福音書の講解説教が始まって久しく経ちます。
この福音書を読む時、私たちがしばしば突き当たるのが「悪霊追放」の記事です。マルコによる福音書において、悪霊追放のエピソードは 1章 21節以下に始まり、3章20節以下、5章1節以下、そして、本日の9章14節以下、38節以下に描かれます。このうち1章21節以下と9章38節以下のエピソードはマルコのほかはルカだけに含まれますが、残りの箇所はマタイ、マルコ、ルカのすべてに等しく含まれます。主ご自身が荒れ野で悪霊から誘惑を受ける最初のエピソードを含めるなら、悪霊追放の物語は計5か所、マルコによる福音書に収められていることになります。聖書日課を開いて説教箇所を確認する時、また、悪霊の話しかと、正直驚かされます。いったいなぜ福音書記者はこんなにも悪霊追放の物語に興味津々なのでしょうか。聖書時代の人々の共通認識として、悪霊の脅威が生活と隣り合わせだったことは明らかです。しかしそれだけではありません。本日の聖書の箇所を読むと明らかですが、悪霊の物語の背後にあるのは人々の「信仰」と「不信仰」の問題です。悪霊という非日常に直面するとき、私たちの信仰の問題が明るみに出るのです。
 本日の物語のいきさつはこうです。別行動をしていたイエス、ペトロ、ヤコブ、 ヨハネが残された弟子たちのところに帰ってみると、彼らが群衆に囲まれて、律法学者たちを相手に何事かを盛んに論じているのです。イエスが「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群集の中のある者が答えました。どうやらその人は悪霊に憑かれた息子を癒してもらうため、弟子たちのもとにその子を連れて来たようなのです。弟子たちは先生であるイエスの真似をして、この子から出てゆくように悪霊に命じました。しかし悪霊はその子に激しいひきつけを起こさせ、弟子たちの言葉にまったく応じようといたしません。律法学者たちは一連の出来事を物陰からこっそり見守っていました。今や弟子たちの無力が明らかでしたので、それ見たことか、お前たちの行っている教えはやはりまがい物ではないかと、ここぞとばかりに非難を浴びせたのでした。報告を受けたイエスは言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまで、わたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」―子供を悩ます「悪霊」についてイエスは特段コメントをなさいません。問題の確信はもっとほかにあるからです。その時代の人々の「信仰」の欠如を主はお嘆きになります。マルコによる福音書3章15節、主から任命を受けた十二人の使徒たちは「悪霊を追い出す権能」を授けられたはずです。にもかかわらず、苦しむ子どもを前に何ら積極的な働きができず、律法学者たちに付け入る隙を与えてしまいました。9章38節以下には「逆らわない者 は味方」という小見出しのエピソードが書かれます。そこではイエスの自覚的な弟子でないにもかかわらず、イエスのお名前によって悪霊を追い出すことに成功した人々の存在が語られます。「自覚的な信仰者」と「非信仰者による無自覚な信仰の業」(こういう言い方が可能であれば)が並べられます。その物語を読む時、本日の箇所の問題性が分ってきます。弟子たちの自覚的な信仰は非信仰者による無自覚な業にさえ劣るものでありました。弟子たちの「信仰」はその程度のものでした。主の嘆きの原因はそこにありました。
 弟子たちでさえそうなのですから、彼らを取り巻く人々の信仰は推して然るべきです。イエスは父親に話しかけました。「このようになったのは、いつごろからか」。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の 中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい。」 ―「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」とは何とも消極的な発言です。父親の不信仰は明らかです。息子の救いについて積極的な希望や期待を持っていないのです。イエスはその点を問題にされました。「『できれば』 と言うか。信じる者は何でもできる。」―直訳すれば、「信じる者にとってすべては可能である」となります。父親は主の言葉に胸を打たれました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」―この言葉も直訳してみると、その意味 するところがダイレクトに伝わってきます。「私は信じます。私の不信仰をお助け下さい。」先ほどまでこの父親は「息子をお助け下さい」と言っていました。ところが、今は、「私の不信仰をお助け下さい」と言っています。「助けられるべき」対象は息子よりも私の方である。私の「不信仰」こそ「悪霊」以上に深刻な宿痾の病だと言うわけです。憐れまれなければいけないのは、息子ではなく、私の方であったことを父親は認めたわけです。罪を悔いる父親の言葉です。 イエスがお命じになると悪霊は叫び声をあげ、その子から出て行きました。その子がまったく動く気配がないので群集は「死んでしまった」と囁き合いました。 しかしイエスが手を取って起こされるとその子は「立ち上がり」ました。イエス が手を取ると全ての人は「立ち上がる」のです。不信仰な父親も、悪霊に悩まさ れた子供も、脚の萎えた人も、イエス・キリストの御名によって「立ち上がる」のです。やがて主を失うことになる弟子たちも、失意の夜を越えて「立ち上がる」のです。復活の主を信じる信仰は全ての人間に指し示されています。
 驚く聴衆たちを後に残し、イエスは家の中にお入りになりました。弟子たちは 不甲斐なくもイエスの後に続きました。まるで答えが分からないことを恥じるかのようにひそかに質問しました。―「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」―今や、主の言わんとされることは明らかです。信仰による祈りによって全ての道は開かれます。弟子たちはまだまだスタートラインにさえ立ってはいないのです。本日の箇所では「~ができる」(“デュナミス”)と いう言葉が 4 回も使われます。それらすべてが指し示しているのは「復活の主イエス・キリストを信じる信仰」です。そして、そのような信仰にもとづく祈りです。私たちの不信仰を神様のみ前に告白しましょう。信仰を与えられて、開かれた道を主と共に歩む者とされましょう。信仰の道は私たちの生涯におけるあらゆる可能性に繋がっています。
祈り
 天の父なる神様、復活の主の栄光を讃美いたします。私たちの不信仰が指し示されました。神さまのみ前にある「破れ」を認めます。私たちを憐れんでください。神様を信じる者にしてください。悪霊や病から癒された人々のように、失意の夜を越えた弟子たちのように、神さまを褒め称える者として、キリストの福音を宣べ伝える者として、私たちを遣わして下さい。神様の驚くべき御業に感謝して、主イエス・キリストの御名によっ て祈ります。アーメン。