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銀座の鐘

「本当に、この人は神の子だった」

説教集

更新日:2022年05月02日

2022年4月10日(日)受難節第6主日・棕櫚の主日  主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

マルコによる福音書15章33~41節

 今朝、私たちに与えられました聖書箇所マルコによる福音書15章33節から41節には、イエスさまが十字架につけられてから起きた多くの驚くべき出来事が記されています。最初に私たちが目撃するのは、33節「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」という異様な光景です。
 このようなことがおできになる方は一人しかおられません。主なる神さまです。アモス書8章9節「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽をしずませ白昼に大地を闇とする」という預言が、今まさに実現しているのです。
 そして、三時には、イエスさまが「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と大声で叫ばれたのち、息を引き取られたとあります。34節に書かれているように、イエスさまが叫ばれたこの言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。十字架刑は衰弱し、死に至る処刑ですから、十字架にかけられて六時間も経っているイエスさまが、大声をだして叫ばれたというのは、驚くべき出来事の一つです。
 このような驚くべき出来事を目撃した人々の有り様を、私たちは35節から36節において見ることができます。私たちはここでも、おぞましい罪の姿を、また、他者の痛みや苦しみに対してあまりにも無理解な私たち人間の姿を垣間見るのです。
 36節に、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒につけて飲ませようとした者がいたとありますが、イエスさまは十字架に六時間もつけられ、喉はきっとカラカラに 渇いていたことだと思います。喉が渇いているイエスさまに酸いぶどう酒を飲ませようとする者の姿を見るとき、詩編69編22節「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします」という言葉を思い起こさずにはいられません。イエスさまは最後の最後まで、人々の罪や悪という暗闇に覆われながら、息を引き取られたのです。
 こうして、イエスさまのご生涯最後のお言葉は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という苦痛の叫びによって、締め括られたのでした。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」、これはイエスさまが日常生活で使われていたアラム語です。私たちはマルコによる福音書を初めから読むとき、アラム語で残されたイエスさまの御言葉を四つ、見ることができます。
 その内の一つが、マルコによる福音書14章36節の「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたし が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」という、イエスさまの十字架への道がはじまる、まさにその直前にゲツセマネで祈られた父なる神への祈りの呼びかけの中に記されています。
 イエスさまは「お父ちゃん」と訳すことができる「アッバ」というアラム語で、父なる神に呼びかけ、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります」とおっしゃったその唇で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、 なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれるのです。
 私たちは受難節において、十字架への歩みの中で、見捨てられ続けるイエスさまのお姿をこれでもか、というほどに見てきました。共に歩んできた弟子たちに裏切られ、見捨てられ、祭司長や律法学者たちの陰謀と策略によって、ピラトに引き渡さ れたイエスさまのお姿を私たちは知っています。
 そして、今朝、私たちはついに、イエスさまが最も愛し、信頼されているお方、父なる神さまによって見捨てられるというイエスさまのお姿を目撃しているのです。
 イエスさまの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、詩編22編2節「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」という詩編の引用です。詩編22編にあるように、父なる神さまは、十字架で苦しまれ、叫ばれるイエスさまから遠く離れておられます。それだけではなく、イエスさまを救おうとせず、まことに見捨てておられるのです。このような徹底的な孤独を味わった後、イエスさまは息を引き取られたのでした。
 どうして父なる神さまは、愛すべき独り子をこれほどまでにお見捨てになられたのでしょうか。
 それは、イエスさまが、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に 適うことが行われますように。」と祈られたように、十字架において、イエスさま を徹底的にお見捨てになられることこそが、父なる神さまの御心に叶うことだった からです。では、父なる神さまの御心とは、一体どのようなものなのでしょうか。
 それはイエスさまを裏切り、見捨て、罵り、侮辱し、十字架へとつけた罪人を、つまり、すべての人間を罪から救うということです。信じ難いことです。しかし、そ れこそが父なる神さまの御心なのです。
 私たち人間は、例外なく、生まれながらにすべての人が罪の奴隷です。イエスさまを十字架につけろと叫んだ群衆の中に、私たちの姿を見ることができます。死ぬことを恐れて、イエスさまを裏切り、見捨てた弟子たちの姿の中にも、私たちの姿を見ることができます。無実の人の命よりも、群衆の声に動かされたピラトの姿に も、私たちを重ねることができます。
 父なる神はまことに無実であられるイエスさまを、まことの罪人である私たちと等しい者とされ、呪われた者とし、罪に対する裁きをイエスさまに背負わされたので す。
 イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死なれたのです。本来であれば、イエスさまが歩まれた十字架への道での苦しみ、また、十字架の裁きと死 は、罪の報いとして、私たちが受けるべきものでした。「罪が支払う報酬は死」 (ローマの信徒への手紙6章23節)だからです。
 父なる神さまは、私たち人間を罪がもたらす死から救うために、愛すべ御子、イエスさまを十字架でお見捨てになり、イエスさまが罪による死に引き渡されるのを沈黙し、見ておられたのでした。
 しかし、イエスさまが息を引き取られてすぐに、父なる神さまはご自分のご意志を明らかにされました。38節に「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と書かれている通りです。
 この「垂れ幕」は、聖所と至聖所を隔てるものです。至聖所とは、大祭司が一年に一度、イスラエルの民の罪を贖う贖罪日にのみ、入ることが許されていた特別な場所でした。その「垂れ幕」が上から下まで裂けたのは、私たちの救い主であられるイエス・キリストが、ご自身を十字架によって、罪の贖いの捧げ物として捧げられたためでした。贖罪はイエス・キリストの死によって、すでになされ、完了されたのです。ですから、聖所と至聖所を隔てる「垂れ幕」は必要なくなったのです。
 これらすべての驚くべき出来事をそばで目撃した人物がいました。「39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」と書かれている通りです。
 異邦人であり、異教徒の百人隊長がすべての驚くべき出来事を見て、「本当に、この人は神の子だった」と告白するのです。決して、イエスさまに従ってきた弟子たちが告白したのではなく、ユダヤ教の律法学者や祭司長たちが悔い改めて告白したのではありません。
 神の民であるイスラエルではなく、異邦人である百人隊長が告白したことで、神の救いは、イスラエルだけのものではなくなったということを、私たちは知ることができます。今や、すべての国民がイエス・キリストの十字架によって、イエス・キリストを神の子であると信じ、告白することで、罪から解放されるという、新しい命への道が、父なる神さまの御心が示されたのです。
 父なる神さまのこの驚くべき御心と、私たちの罪の贖いのためにまことに苦しまれ、十字架で苦しみ死なれたイエスさまが、復活の主として、わたしたちにも、死の勝利と永遠の命に与らせてくださった、まことの神の子であることをいよいよ深く覚えつつ、この受難週をともに歩んで参りたいと願います。

 祈り 天の父なる神さま。あなたは私たちを深く愛し、それは愛すべき御子、イエス・キリストを罪人と等しいものとし、まことに私たちの罪を背負わされ、見捨てられ、罪の贖いの捧げ物とするほどまでの愛です。この受難週、あなたの深い愛と、イエス・キリストのみ苦しみを覚えて、応答するものとして歩むことができますように。私たち一人一人を導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン 。