「天地創造の宣言」
説教集
更新日:2022年05月02日
2022年5月1日(日)復活節第三主日 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 髙橋 潤
創世記1章24~31節
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれ ぞれに産み出せ。」そのようになった。25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、そ れぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26 神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、 地を這うものすべてを支配させよう。」27 神は御自分にかたどって人を創造された。神 にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。「産 めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて 支配せよ。」29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつけ る木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30 地の獣、 空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」その ようになった。31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極め て良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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新年度の主日礼拝の聖書箇所は教会学校と共に、福音主義教会連合の年間カリキュラムを用いてすすめています。今年度の主題は「旧約聖書における神の民の祝福と契約」です。この年間カリキュラムでは、今週から7月下旬まで創世記を読みます。旧 約聖書の主だった契約について学べるように構成されています。
旧約聖書の1番最初が創世記です。なぜ、創世記が最初におかれたのでしょうか。 歴史的に古い順番ではありません。神の救いの御業の順序によって創世記が最初に置かれていると理解して良いと思います。
創世記1章、2章には、神の天地創造の御業が記されています。「初めに、神は天地を創造された。」これは宣言です。初めに何があったのか、初めに神は天地を創造されたと宣言されています。神はこの宣言によって、神の救いの御業を開始しまし た。神の救いは、御言葉による創造によって開始されました。古代教父の一人、アウグスチヌスは、神は天地創造の前に何をしていたのかという議論をしました。その結論は、神は天地創造の前、何もしていなかったと記しました。神はこの宣言によって神の救いの御業を開始しました。
この宣言は、神がどれだけ大きな愛の決意をもって天地を造ったのかということを伝えています。天地創造の天地には、自然界の創造だけではなく、人間の創造を含んでいます。神は、救いの御業を開始するとき、「光あれ」と第一日に光を創造しました。創造の第二日には「水の中に大空あれ」と宣言し、大空を造られました。第三日には「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」と大地と海を造られました。その後、草や果実の実る果樹を芽生えさせます。そして、動物などの生き物を造られました。そして創造の最後、創造の冠として、神は人を創造されました。神の創造の御業は、私たち人間の創造に向かって進み、神の創造の中にその御意思が明らかにされています。「初めに、神は天地を創造された」という言葉の「初めに」は神の働きが開始されたことを示す大切な言葉です。神は人間を重んじ、人間を愛し、神のお姿に似せて創造されました。「初めに」と同様に「創造」という言葉も大事な重要な言葉です。旧約聖書において、神が主語の時にだけ「創造」という文字が使われています。新共同訳聖書では、ヘブライ語の「バーラー」の場合だけ「創造」と翻訳し、別の言葉が用いられる場合は、創造と区別して「造る」という言葉で翻訳されています。翻訳上、明確な区別をして、神の愛による創造とそうではない「つくる」ことと見分けられるように訳されています。
創世記には、「バーラー」という言葉が4回出てきます。ヘブライ語で創造したという「バーラー」が用いられているのは、創世記1章1節、2章3,4節。創造の初めと終わりで用いられています。そして、もう一つ大切なのは1章21節です。ここには、大きな怪物を創造されたことが記されています。この背景には、古代オリエントの神話を否定する考えが隠されていると学者による説明がなされます。古代オリエントの神話では、海は死を象徴し、恐ろしい海、深淵の海にいる怪物は、神話の世界では天地創造の敵対勢力です。創造の神に対して壊す勢力の神々の戦いがあり、この戦いによって大地が生まれ、生き物が生まれたと説明するのが古代オリエント神話です。しかし、創世記はそのような神話の創造を否定して、海の怪物をも神が創造したと宣言します。神が全てを創造した。神が世界全体を創造した。敵対勢力と神々の戦いから天地が生まれたのではないと宣言しているです。死を象徴するような勢力さえも、神の御手の中にあるというのが天地創造の宣言です。ゆえに海の怪物がどんなに強くとも神ではないのです。
更に大切なのは、本日の聖書箇所であります創世記1章27節
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創 造された。」人間の創造には、2回「バーラー」が用いられています。創世記1章が大事にしていることは人間の創造であったと宣言しています。人間の創造、そして海の怪物もすべてのものが神の御手の内に創造された被造物であるとの宣言です。
創世記は、初めに天と地の創造をこのように記しました。しかし、誰も天地創造の目撃者はいなかったはずです。これは、神の啓示によると理解します。神が神の秘密を教えておられるのです。この啓示は、神の光が人間を照らし出したとき、その初めが分かったということです。物理学者が現在の宇宙の姿からその初めを推測することがありますが、科学の世界とは全く別の仕方で、創世記は神が人間を愛し、海の怪物からも救い出す決断を天地創造によって明らかにされているのです。
創世記1章の天地創造の由来が書き記されたのは、歴史的にはユダ王国が滅亡して国土が失われた時代であったと言われています。信仰のよりどころである神殿が破壊され、働ける人はみなバビロニア帝国へ連行されました。バビロン捕囚の時代は捕囚民にとって生きる意味が見えなくなった時代です。神との契約が破棄されたと考えられていた時代です。挫折の時代、新しい光によって、天地創造の神の御業が明らかにされました。絶望的な世界の中で、人間の命のはかなさに沈み込む人々が「光あれ」と神の声を聞き、神の救いの御業である天地創造は絶望の世界においても開始されたのです。神が天地を創造されたとの宣言によって、神の救いがはじまりました。
1章2節「地は混沌であって」という表現は、この他にはイザヤ書34:11とエ レミヤ書4:23にだけ出てきます。この両方とも国家の滅亡を指し示しています。 闇も淵も、荒廃と混乱を表現しています。神の霊が水の面を覆っていたのです。神の言葉によって闇に光が与えられました。荒廃の中から神が語り出します。混沌とした世界は実は神の御言葉という揺るがない岩に支えられているのです。神が「良し」としてくださり、光が闇の中に輝くのです。昼と夜と名付けました。名付けるということは、支配することを意味します。神の支配によって混沌の世界に秩序が与えられました。天地の創造には、荒廃した現実の中で挫折した一人一人に立ち上がる力を与える神の愛の言葉による力が込められているのです。そして、神の創造の冠として、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」と宣言しました。
神の創造によって、神が被造物に対して直接語りかけました。神が語りかけた被造物は人間だけです。他の被造物には神が直接語りかけることはありません。28節、神は人間を祝福しました。29節では、神は二度も「あなたたち」と語りかけています。神は人間と親密な関係をもって人に語りかけます。神は人間の創造において、親密な関係をお与えになっているのです。神が人間を対話の相手として創造した神のご意志が分かります。神によって親密な関係を与えられて、祝福されて人間が創造されたのです。27節において「神は御自分にかたどって人を創造された」の創造は、バーラーが用いられ、神が愛によって創造したことを通して、祝福し、親密な関係を与えて下さったことが明らかになっています。
創世記の歴史的背景には、バビロン捕囚による偶像崇拝の強制がありました。26 節の御言葉は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」この世界の中で神の形が示されるのはただ一つ、人間だけが神について指し示すことが出来るということです。バビロン捕囚の民は、さまざまな動物による偶像を拝む、偶像崇拝を強要されました。しかし、神の似姿はそのような動物は神ではないと宣言しています。当時の神々は型枠に鋳造されて造られました。真の神はそうした人が造った像の中にいるのではなく、私たち一人一人の中におられるのです。天地創造は、神による愛の御業です。
私たちの中に神の像が与えられているとはどういうことでしょうか。私たちは、さまざまな像の中に神を探さなくて良いということです。私たちがすべてを失っても、神が創造し祝福し、対話の相手として下さったのだから、祈る事によって、神との親密な関係が与えられているのであり、偶像を求める必要はないのだということです。
神によって創造された者として、祝福されていることを思い起こし、感謝しましょう。神の創造によって、神から語りかけられている事を忘れることなく、神の御声を聞き続けましょう。31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見 よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」
私たちは神によって「極めて良かった」と宣言されているのです。私たちの自己評価は、どうであれ、私たちは自己評価ではなく、神の評価を重んじなければなりません。神が「極めて良かった」と宣言して下さったのです。この御言葉を心に響かせ、神の像を与えられているものとして感謝と喜びの生活を続けましょう。
本日は、聖餐に与ります。主イエスの最後の晩餐による恵みを思い出し、主イエスの命をいただき、赦しの宣言を聞き、新しい命を感謝して聖餐に与りましょう。