創造の仕事と安息
説教集
更新日:2022年05月16日
2022年 5月8日(日)復活節第4主日 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花
創世記 2章1~3節
1天地万物は完成された。2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、 安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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わたしたちは、今朝、「天地万物は完成された」という驚くべき宣言を共に聞いています。「天地万物は完成された」、わたしたちは創世記1章1節から31節を読むとき、主なる神さまが第一日目、創造の初めに天地を創造されたこと、第二日目から第五日目までは様々な被造物を、そして第六日目、創造の最後には、神さまご自身にかたどって、人間を男と女に創造されたということを知ることができます。
そして、今朝、わたしたちに与えられました聖書箇所、創世記2章1節から3節には、第一日目から第六日目までに至る天地万物の創造を終えられた日、第七日目において、主なる神さまが何をなさったのかについて記されています。
2節に「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」とありますように、主なる神さまは、第七の日に神さまご自身の仕事を完成されました。神さまご自身の仕事とは、第一日目から第六日目までに行われた、天地万物をお造りになられた創造の仕事のことです。
わたしたちは創世記1章を読むとき、主なる神さまが言葉によって天地万物を創造されるお姿を見る事ができます。いうまでもなく、天地万物を創造されるという仕事は、主なる神さまのみが行うことができる仕事です。この全ての被造物の創造主であられる神さまの驚くべき御業を見る時、わたしたちはなぜ、主なる神さまが創造の仕事をなさったのかについて考えさせられるのです。
天地万物を創造された主なる神さまは、何も寂しさから被造物を造られたわけではありません。なぜなら、日本基督教団信仰告白に「聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と告白されていますように、聖書が証する神さまは孤独なお方ではないからです。
創造主なる神さまは、ご自身の内に父・子・聖霊という、愛の関係をすでに持っておられるお方です。ご自身の内に愛の関係を持っておられるにも関わらず、主なる神さまが創造の仕事をなさったのは、わたしたち被造物をも、三位一体の神さまの愛の交わりに与からせてくださろうとする、神さまの愛ゆえなのです。つまり、この創造の仕事とは、主なる神さまのわたしたち被造物への愛の現れだという事ができるでしょう。
このような神さまによる愛の創造の仕事が完成したので、3節「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」のでした。
2節と3節に、安息なさったと2回強調されて書かれていますが、これは創造の仕事を終えられて、神さまがお疲れになったから休まれたというわけではありません。そうではなく、完成された天地万物を慈しみ、愛でるために、神さまはこの第七の日を特別に取り分けられたのです。
わたしたちも素晴らしい音楽や絵画などの作品を鑑賞するとき、片手間では作品を心から愛でることなどできません。仕事から完全に離れて、ただ作品にのみ、心を向ける必要があります。ですから、主なる神さまはご自分が創造されたこの極めて良い被造物を慈しみ、愛でるために、この第七の日を他の日から取り分け、聖別されたのでした。
さて、本日の聖書箇所は安息日の起源でもあります。わたしたちは安息日と聞きますと、モーセが神さまから授けられた十の戒めの四つ目、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト記20章8節)という戒めを思い起こします。
安息日を心に留めて聖別するとは、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト記20:9から10節)とありますように、安息日にはいかなる仕事もしてはいけないということです。それは「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」からです。
先ほども確認しましたとおり、安息日は六日間仕事をして、その疲れを癒やすために存在しているのではありません。また、わたしたち自身の楽しみのためや、世の煩いに悩まされるために割く時間でもないのです。
安息日とは、主なる神さまが天地万物を創造され完成された際に、わたしたち被造物のために祝福し、聖別してくださった日なのです。そして、この祝福はただ一度きりの祝福ではありません。今もそして永久に続く祝福です。 それゆえに、わたしたちは六日間働いて労苦したとしても、七日目には主なる神さまが祝福し、取り分けてくださったこの安息日には、全ての自分の仕事から離れる事がゆるされているのです。
そして、安息日には、愛によって天地万物を創造された主なる神さまに心を注ぎ、讃美をもって礼拝を捧げ、御言葉によって養われ、安息する事ができるのです。安息日とは、まことに恵み深い主なる神さまからわたしたちに与えられた特別な日なのです。
この安息日は、ユダヤ人にとっては金曜日の日没から土曜日の日没までのことを指します。ですが、わたしたちにとっては日曜日の朝、つまり、今朝この時こそが第七の日、 安息日です。
なぜユダヤ教とキリスト教で、安息日が異なるのか。それはマルコによる福音書16章9節において「週の初めの日、朝早く、イエスは復活」されたと書かれているように、わたしたちは主イエス・キリストの復活を覚えて、自らの仕事、また想いから離れて、週の初めの日曜日の朝に、わたしたちの救い主であられるイエス・キリストを礼拝するからです。
そして、このイエスさまこそ、イエスさまご自身がマタイによる福音書12章8節において、「人の子は安息日の主なのである。」とおっしゃっているように、安息日の主であられるお方です。
ですから、わたしたちは礼拝において、安息日の主であられるイエス・キリストと出会い、わたしたちと共に歩んでくださるイエス・キリストをわたしたちの主、救い主であると信じる信仰によって、安息日において、まことの魂の平安を得る事ができ、安息することができるのです。
今、わたしたちは天地万物を完成された父なる神さまが祝福し、安息なさり、聖別なさった第七の日は、わたしたちの救いのために、十字架の死から御子イエス・キリストを復活させてくださった日でもあるということを改めて聞きました。そして、この安息日から、わたしたちは週の残りの六日間を世に遣わされ、歩んでいくのです。
わたしたちは教会から世に遣わされて行くとき、それぞれ自分の仕事をし、労苦の日々を過ごします。しかし、この週の初めの日に、安息することが恵みとして与えられていることは、わたしたちの労苦の日々は、永遠に続くわけではないということを示しています。ですから、わたしたちは残りの六日間を虚しい気持ちで歩んでいく必要はありません。
なぜならわたしたちの罪のために苦しまれたお方は、わたしたちの六日間の労苦を見つめているだけではなく、週の初めの日、この第七の日には、わたしたちに安息を与えてまた六日間を生きることができるようにしてくださる方だからです。ですから、わたしたちは希望を抱いて、第七の日に、安息日に向かって残りの六日間を歩んでいくことが恵みとしてゆるされているのです。
わたしたち被造物を本当に深く愛してくださる御子イエス・キリストの父なる神さまの大いなる愛を覚え、感謝しつつ、今日からの残りの六日間、共に歩んで参りたいと願います。
祈り 天の父なる神さま。今朝、まことの羊飼いであられるあなたによって、わたしたちは日々の生活から切り離され、あなたが聖別された安息日、この主の日に礼拝を捧げ、あなたの御言葉の糧を頂くことができました。この恵みに感謝いたします。まことに聖なる方であられるあなたは、わたしたちにも、あなたの聖別されたこの特別な日に、あなたを讃美し、礼拝する者としてくださいますことを深く感謝いたします。あなたはわたしたちの六日間の労苦を見つめているだけではなく、わたしたちに安息を与えてまた六日間を生きることができるようにしてくださる方であるということを、今朝、改めて聞くことができました。どうかこの深い愛に感謝しつつ、応答するものとして、わたしたちが今日からの一週間を歩んでいくことが出来ますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン 。