主に仕えるように人に仕える
説教集
更新日:2022年06月18日
2022年6月19日(日)聖霊降臨後第2主日 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 近藤 勝彦
エフェソの信徒への手紙6章5~9節
5 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従い なさい。6 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷とし て、心から神の御心を行い、7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
8 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いこと を行えば、だれでも主から報いを受けるのです。9 主人たち、同じように奴隷を扱いなさ い。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたに も同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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今朝の聖書の段落は、「奴隷たちよ」という呼びかけから始まっています。新約聖書が書かれた古代のヘレニズム時代は、奴隷が社会の基本構成をなした奴隷制社会でした。教会の中にも多くの奴隷たちがいました。彼らはそれぞれの主人のもとで、その主人によってはむごく薄情な扱いに苦しんでいました。今日、奴隷制度は廃止され、どんなに貧しい人であっても、その人権は尊重されなければなりませんし、通常は尊重されていると思います。それなら今朝の聖書箇所は奴隷制社会の昔には当てはまったが、現代には通用しないと言うべきでしょうか。そうはならないでしょう。現代にも奴隷状態に置かれている人はいると言わなければならないでしょうが、それよりも、奴隷制の廃止や奴隷解放によっては片付かない人間の問題があるからです。今朝の御言葉は奴隷制廃止によっても片付かない人間の問題を語っています。
それは何かと言いますと、人として生きるということはどういうことかという問題です。人間は常に他の人と共に生きています。他者と共に、他者と関わりながら生きています。そしてそのことは、人間は他者に仕える面を持っていることだと聖書は言います。しかし、人はどう仕えるでしょうか。この面から言いますと、かつての奴隷たちは「肉の主人に仕える」人たちでしたから、まさしく人間が他者に仕えるということの持っている難しさをよく知っていました。かつての奴隷たちは、人間が人間として生きるとはどういうことかを、この面では他の人よりも身をもって厳しく知る環境にいた人々でした。
聖書は彼らに向かって「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」と言います。「恐れおののき」というのは、肉による主人を恐怖せよという意味ではありません。そうでなく、救いに入れられた者のあり方で、キリストによって救われた者としてへりくだることを意味しています。さらに「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのでなく」と言われます。へつらってうわべだけ仕えて身を守ること、そのすべを彼らは上手に生きるために、よく知っていました。現代人もそれぞれにそれを知っていると言ってよいでしょう。しかし「人に仕える」ということには、へつらいでなく、謙遜に、そして真心を込めて生きる生き方があるわけです。「キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」と聖書は言います。卑屈にでなく、確信を持った、堂々と人に仕える生き方があると言うのです。
「主に仕えるように」とは、主イエス・キリストに仕えるように、そのようにそのように人に仕えると言います。ここに今朝の御言葉の核心部分があると言ってよいでしょう。あなたがたは肉の主人の奴隷であるよりも、主イエス・キリストに仕える人、キリストの僕になった、つまり他の人の奴隷でなく、キリストを主と信じ、主に仕える、キリストの奴隷になったというのです。そして主イエス・キリストに仕えることこそが「神の御心」を行うことです。なぜならキリストは神の御心であり、神の御心を表しているからです。サクレ・クール、聖なる御心はキリストにあります。「主の祈り」の中で「御心が天になるように、地にもなりますように」と祈ります。神の御心、神の御意志、神の御計画があります。それがイエス・キリストの中に具体化しています。その主イエス・キリストに仕えるならば、それこそ神の御心を行なうことになります。
キリストに仕えることは、他の人に仕える中で表現されます。キリストに仕える人は、他の人に仕えることを止めて、誰にも仕えない孤独な生活者になるわけではありません。そうでなく、それぞれの身近に与えられている、あるいは遠くにいる人、一人でなく数人の人々、さらには多くの人々がいます。その人々に仕えながら、そうする中で主イエスに仕えることができるわけです。そうでなければ、主に仕えることはできないでしょう。私に仕える者は、他の誰にも仕えるなと主イエスは言われません。主に仕えることは、他の人々に仕える中で遂行されます。主イエス御自身、「人々から仕えられるため」に来たのではないと言われました。そうでなく御自身、私たちに「仕えるため」、そして「多くの人の身代金になるために来た」と言われました。私たちに仕えて下さる主イエスに何とかして仕えたい、それが救いに入れられた者としてのキリスト者の生き方ではないでしょうか。
人々に仕えることをとおしてキリストに仕えることを、ある人は直接キリストに仕えることはできない、間接的にキリストに仕えるのだという言い方をします。しかし気持ちから言えば、今日も私たちのために十字架を負っておられる復活のキリストに仕える方が直接的な気持ちです。しかし主にお仕えするためには、主が与えて下さっている人々に仕えることによります。他者に善を行なって、その他者から報いを期待するのでなく、「主から報いを受ける」と記されています。クロムエルの言い方で言うと、私たちの人生は、主イエス・キリストからすでに莫大な報いを「前受け金と して与えられています。主の十字架による赦しを与えられ、復活の主の命にあずかり、神の子とされた名誉も受けています。赦しと義と聖化の恵みをすでに受けています。その私たちが他の人に仕えるのは、主にあって当然のことと言えるでしょう。
5節から8節までが「奴隷たち」への語りかけですが、「主人たち」への言葉は、9節に短く語られるだけです。「同じように奴隷を扱いなさい」、つまり自由人たちと分け隔てなく扱いなさいというのが一つです。もう一つは「彼らをおどすのをやめなさい」という注意です。そしてその理由が短く語られます。しかしその内容はまさしく革命的と言ってよいでしょう。「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」と言います。肉の主人と奴隷たちに対して、同一の天の主がおられます。この言葉は根本的に奴隷制度を廃止していると言ってよいでしょう。実際の奴隷制の廃止は 19 世紀の半ばで、何と遅い変化であったかと思わさせられます。聖書はとっくにそれを廃止していたのです。奴隷制社会は、主人と奴隷たちとを厳しく区分しました。しかし聖書は、主人にも奴隷たちにも同じ天の主人がいると言います。
このことは、神こそが真実の主であって、「肉の主人」は本当の主人ではないということを含むでしょう。真の主人は、あなたとあなたの奴隷とを分け隔てなさらないと言います。つまりは、あなたは主人ではなく、あなたの奴隷と共に天の主人の僕なのだと言うわけです。この御言葉は奴隷制度を廃止しているだけではありません。色々な形態を取って繰り返し人類の歴史や社会の中に現われてくる人間を分け隔てする 考え方、またそうした心や仕組みを退けています。それらは主こそ真に主であること によって無いものにされているからです。
その上で、真実の主が仕えられるためでなく、仕えるために来てくださったことにより、俄然、主に仕えることはこのうえなく「喜び」のことになりました。主イエス・キリストによって、人に仕えるなかで、主御自身に仕えることができる、それゆえ「喜んで仕える」ことができるわけです。
今朝の御言葉は、キリスト者とは何者かを語っています。同一の真の主人のもとにあって、キリスト者はあらゆる偽りの主人の支配から自由に解き放たれています。一切のへつらいから解放されています。そしてその上で、キリスト者はその唯一の主であるイエス・キリストに仕えられることによって神の子とされています。それゆえ、与えられた自由を愛によって生きて、人々に仕えます。喜んで仕えます。それによって主イエス・キリストに仕えるのです。
天にいます父なる神様、主に仕えるように人に仕えよとの御言葉を聞くことができまして、感謝いたします。どうか互いに仕え合う交わりをとおして、主に仕えることができますように。また主に仕えるように人に仕える歩みを少しでも深く、また広く歩むことができますように導いてください。あなたによる救いと助けを必要としている人々のために祈ります。その人々のために主につかえるように仕える教会、そして主に仕えるように人に仕えるキリスト者とならしめてください。仕えるために来てくださった主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。