銀座教会
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銀座の鐘

わたしを遣わした方

説教集

更新日:2022年07月23日

2022年7月24日(日)聖霊降臨後第7主日 銀座教会創立記念 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 髙橋 潤

創世記45章1~13節

 人生の意味を問われたら、どのように答えるでしょうか。自分の人生の意味など考えたこともないという人もいるかもしれません。しかし定年を迎えたり第二の人生を考える時、若いときに進路を考えた時と違って、これまでの自分の人生に意味があったのだろうかと考えることがあると思います。ヨセフは 30 歳の時、自分自身の試練の連続の中で歩んできた自身の人生の意味を発見したのだと思います。
 創世記は、37章から最終章50章までヨセフ物語を記しています。本日の聖書箇所は、ヨセフ物語のクライマックスといって良い箇所です。ヤコブに溺愛されたヨセフは、兄たちの妬みによって、穴に落とされました。商人に拾われエジプトへ売られてしまいました。エジプトの宮廷に仕える役人ポティファルがヨセフを買い取りました。ヨセフは主人の信頼と信用を得て、大変恵まれた環境の中で主人に仕えていました。この間のことを聖書では繰り返し、「主がヨセフと共におられたので」と記しています。
 しかし、ヨセフは、主人ポティファルの妻からの「わたしの床に入りなさい」という誘惑を受け始めます。毎日言い寄られました。しかし、ヨセフは拒否し続けました。その結果、主人の妻の報復によって、王の囚人をつなぐ監獄に入れられてしまいました。
 監獄においてヨセフは、「主が共におられ」監守長からの絶大な信頼によって、監獄にいる囚人の管理を一切委ねられました。この監獄において、ヨセフの夢を解く力が役立ちました。そして、ある日、エジプトの王ファラオは、監獄にいるヨセフが夢を解くことを知り、ヨセフを呼びました。ファラオはヨセフに「お前は夢の話しを聞いて、解き明かすことができるそうだが」と問われました。ヨセフは答えます。「わたしではありません。 神がファラオの幸いについて告げられるのです」(41章16節)ヨセフは王ファラオの夢を見事に解き明かし、七年間の大豊作とその後七年間の飢饉を伝え、国の危機を乗り越える備えをすることができました。
 41章からファラオの絶大な信頼を受けたヨセフは、監獄の囚人から王の側近となり、宮廷の責任者に任命されました。ファラオはヨセフにいいました。「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」ファラオは印章のついた指輪をヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけました。そしてファラオはヨセフにいいました。「わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国でだれも、手足を上げてはならない。」ファラオはヨセフに「ツァフェナト・パネア」という名を与え祭司の娘アセナトを妻として与えました。ヨセフの威光はこうしてエジプトの国にあまねくおよびました。ヨセフは30歳でした。この時、エジプトだけでなく世界各地の飢饉が激しくなってきました。
 42章では、父ヤコブが息子たちにエジプトに穀物があると知って、エジプトに行って穀物を買ってきなさいと命じました。ヨセフの10人の兄たちは、エジプトへ行きました。ヨセフはエジプトの司政者として国民に穀物を販売する監督をしていました。ヨセフの兄たちは、地面にひれ伏して、ヨセフを拝しました。ヨセフは一目で兄たちだと気づきましたが、素知らぬ顔をして対応していました。そして、何度も兄たちを試しました。兄たちはヨセフの無理難題を通して、牢獄に三日間入れられたり、弟ベニヤミンを連れに戻ったりしました。それでも、目の前のエジプトの穀物販売の監督がヨセフであるとは気付かないのです。43章から44章までヨセフと兄たちのやりとりが続きます。そして、45章「1 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。2 ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。
 ヨセフは、「もはや平静を装っていることができなくなり」ました。これまでヨセフは兄たちの前で弟のヨセフであると伝えずに平静を装ってきました。そして、声をあげて泣きます。ヨセフは兄たちと様々な交渉をしながら、何を思い巡らしていたのでしょうか。ヨセフを支配しているのは、兄たちへの恨みでしょうか。それとも自分の立身出世を自慢したかったのでしょうか。そうではないのです。ヨセフは、これまでの言葉にならないほどの試練、寂しさ、不安、孤独、恐れの意味を思い巡らしていたのです。そして、「こんなわたしに誰がした」と訴えるのではなく、ヨセフは兄や弟たちに対して、自分の身を明かしたのです。そして、声をあげて泣いたのです。
 声をあげて泣くヨセフは、何を考えて泣いたのでしょうか。兄たちの罪も思い出したことでしょう。しかし、同時に神のご計画が分かったのではないでしょうか。それゆえ、兄たちの問題だけでなく、ヨセフ自身の悔い改めの涙だったのではないでしょうか。ヨセフ自身、なぜ、自分がエジプトにいるのか、何故自分が監獄から王の側近になっているのか、何故自分が兄たちの前に監督として偉そうに立っているのか、何もかも分からなかったことが明らかになったのです。今、はっきりと分かったのです。兄たちを困らせていた時のヨセフとは別人のようになりました。ヨセフは自分を中心にして、人生を振り返っていたときには分からなかったことが理解できました。自分の人生の主人は自分ではなかったことが分かりました。自分が何ものであるかが分かったからこそ、涙を流したのではないでしょうか。
3 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きてお られますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。5 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。6 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。7 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。8 わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。
 神による摂理が明らかになりました。ヨセフにも兄たちにもそして父ヤコブにも、理解できなかった人生の道がありました。神がヨセフを神の御心によって先に遣わしたのです。神のご計画を知ると、それまで説明することのできなかった不幸と試練について、なぜ、ヨセフがエジプトへ遣わされたのか、なぜ兄たちがエジプトに穀物を買いに行ったのか、人間の計画ではなく、神の計画を受け止めることができたのです。
 ヨセフは「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」と語りました。この御言葉はヨセフにだけの言葉でしょうか。そうではありません。私たちが現在、この場にいることの意味を明らかにする言葉です。神が遣わしてくださって、私たちは今ここにいるのです。神に遣わされたことを受け入れるとき、これまで歩いてきた人生の道に意味があったことに気付くのです。この世の評価によって自分自身の人生の意味をさがすのではなく、神による救いのご計画の中で、私たちの人生の意味が示されるのです。「神が遣わしてくださった」神のご意志とご計画の中に自分自身の意味が隠されているのです。神がわたしを遣わしてくださった。人生の意味は、ここから新しい命へ動き始めます。