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銀座の鐘

どのような時にも祈りなさい

説教集

更新日:2022年11月19日

2022年11月20日(日)聖霊降臨後第 24 主日 終末主日 主日礼拝 東京神学大学名誉教授 近藤 勝彦

エフェソの信徒への手紙6章18~20節

 信仰者は試練の中、あるいは色々な戦いの中にあって神の武具を身に着けるという御言葉を聞いてきました。神の武器として信仰を盾に、救いを兜に、そして霊の剣、御言葉の短剣を取りなさいとも言われてきました。その関連で今朝は「どのような時にも祈りなさい」と勧められています。「祈りの勧め」が神の武具や武器の話の締めくくりになっています。武器の話が最後に祈りの勧めで終ることは、不思議に思われるかも知れません。しかし考えてみると、それは当然のこととも言えるのではないでしょうか。「救いの兜」をかぶり、「霊の剣」を取る人は、またどんな時にも祈る人ではないでしょうか。悪しき者との戦いは祈ることなしには不可能と言うべきでしょう。
 主イエス御自身がどのような時にも祈る方でした。弟子たちを召して、世に派遣する時も、主イエスは夜を徹して祈り、十字架にお架かりになるときも徹夜の祈りをなさいました。信仰がなくならないようにペトロのために祈り、私たちのためにも祈っている主イエスがおられます。そして悪との戦い、悪霊との戦いの中で弟子たちに祈ることを勧めました。主イエスの山上での変貌が記述された後、弟子たちが子供にとりついた悪霊を追い払うのに難渋し、それができなかったとき、主イエスは悪霊からの癒しの業をなさり、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました(マルコ9・29)。主の救いの御業は、病人の癒しも、罪びとの赦しも、多くの人々をパンと魚で養ったときにも祈りがあっての御業で した。
 「どのような時にも祈りなさい」という言葉は、漠然と流れる時間でなく、すべて定められ時、特別な時に祈りなさいと言うのです。祈りの時として備えられた時、神の定めによって備えられた時があります。神が私たちの祈りを待っている時があります。そのすべての時に祈りなさい、だから絶えず目を覚まして、根気よく祈り続けな さいと言うのです。「霊に助けられて」です。御霊は私たちを執り成し、祈ることを 可能にしてくださいます。
 そして「祈り、願い求めなさい」と言われます。ここには「あらゆる祈りと願い」を祈りなさいとあります。訳の上では省かれていますが、「あらゆる祈りと願いを、あらゆる時に霊にあって祈りなさい」と言うのです。一般の祈りの中にすでに願うことは入っていますが、それを特別に語って「あらゆる願いを祈りなさい」と言います。私たちはあらゆる願いを祈っているでしょうか。随分と、願いをはしょってはいませんか。試練や戦いは、願わずにおれない時です。願いをはしょる必要はありません。夜を徹して祈られる主イエスに基づいて、聖霊の助けによって祈ることができます。キリスト者とはキリストの祈りと聖霊の執り成しを受けて、あらゆる願いを祈る人のことです。
 あらゆる祈りと願いとを祈るようにと命じた後で、特に「すべての聖なる者たちのために根気強く祈りなさい」と言われます。「聖なる者たち」というのは、特別な聖人のことをいうのではありません。そうでなくすべての信徒たち、すべてのキリスト者のために祈れというのです。教会のすべての者たちのためにと言ってもよいでしょう。国や地域を越えて、どの地域のキリスト者のためにも祈ります。ウクライナのキリスト者たちのためにも、ロシアや中国にいるキリスト者たちのためにも、そして世界のキリスト者、日本のすべてのキリスト者、この教会のすべての兄弟姉妹のために祈ります。
 エフェソの信徒への手紙によって教えられることは沢山あります。あらためていくつか挙げれば、この手紙をとおして私たちは、教会がその頭であるキリストの体であること、キリストは復活のキリストとしていますでに神の権威と全能をおびて、万物を支配していること、私たちはすでにキリストと共生かされていること、それによって共に復活し、共に栄光に生かされていること、キリストは敵対する二人の人をその十字架において一人の新しい人に造り変えておられること。そうしたエフェソの信徒への手紙が伝えていることの中に、「すべての聖なる者たちを愛すること」の大切さがあります。すでにこの手紙の始めの部分、1 章 15 節に「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたを思い起こし、絶えず感謝しています」と記されていました。主イエスを信じることは、主の体である教会のすべての聖徒を愛することと一つになっています。主を信じて、すべてのキリスト者たちを愛さないこと、そのために祈らないことはあり得ないことです。
 そして使徒は「わたしのためにも祈ってほしい」と言います。教会は、福音の使者が福音を語ることができるように、神の助けを祈らなければなりません。ここには使徒パウロの言葉として「わたしのために祈ってほしい」と記されています。使徒は、復活のキリストの目撃証人であって、その世代限りの特別な人で、教会の土台です。その使徒が「わたしのために祈って欲しい」と言ったのであれば、その後の教会の牧者や宣教者は、どうしたらよいのでしょうか。ますます、福音を語れるように教会の祈りを必要としえいるのではないでしょうか。誰も自分の力で福音を語れる人はいません。
 福音を語るには何を語ってもよいわけではありません。「わたしが適切な言葉を用いて話せる」ようにとあります。これは文字通りには、「わたしの口が開かれるときに言葉(ロゴス)がわたしに与えられるように」というのです。神の言葉が語られる ということは、語る言葉が与えられることです。与えられなければ、神の言葉は語れ ません。そしてここには「大胆に語れるように」とあります。19 節にも 20 節にも二度繰り返し「大胆に」と言われます。ある注解者は、新約聖書の中でこの「大胆に」という言葉は重大な言葉だと記しています。それでドイツ語の本ですが、「大胆に」という表題の本があるほどです。福音は大胆に語られるものです。「堂々と語れるように」と訳している聖書もあります。福音の奥義は公然と、大胆に、堂々と語られるべきです。
 なぜなら神の言葉それ自体が「大胆」だからです。「堂々たる言葉」だからです。それは語る者たちの性格ではなく、語られる事柄、主イエス・キリストにおける神の福音そのものが大胆なのです。神はその独り子を残虐非道な十字架に公然と渡されました。それによって人間の罪と悪をあばき出し、あろうことかその罪を御子に負わせ、御子の死によって罪ある者の贖いを果たし、かつまた御子を死者の中から復活させ、罪と悪と死に対して勝利者となさいました。それはまさしく前代未聞の大胆な神の救いの御業であり、堂々たる神の救済活動です。
 悪魔的な者の攻撃の中に信仰者が立たされると記されてきました。しかし攻撃は神の福音そのものに向けられます。福音を聞こうとしない、聞いても受け入れない、福音の使者たちを歓迎しません。福音そのものが試練の中にあり、福音の使者もしばしば不自由な状態にいます。異なる福音による妨害もあります。今日も旧統一教会のことが問題になり、その献金や子供たちに対する圧迫が話題になっています。世間では、キリスト教会も統一教会も区別がつかないかも知れません。だからこそ「福音の神秘を大胆に示すことができるように」祈らなければならないでしょう。堂々と福音の秘義を知らせることができるように祈るべきでしょう。
 そのために祈って欲しい、祈ってくださいと書いています。説教者はだれもみな、祈りの中で福音を語る準備をします。福音を語ることは、神の救いの神秘である奥深い福音を語ることで、祈ることなしに本当には語れません。説教者自身の祈りが求められます。それだけでなく福音は教会による祈りによって語られるものです。教会の祈りによって神から与えられる言葉でなければ、福音を語る言葉にはならないのです。
 今、教会に必要なことは何でしょうか。牧師・説教者だけでなく、すべてのキリスト信仰者が祈って福音を伝える者が口を開くとき神の言葉が与えられ、福音が大胆に語られること、堂々と神の救いの御業が伝えられることではないでしょうか。福音を大胆に語れるように祈ってほしいと思います。

 天の父よ、どのような時にも祈りなさいと勧められ、あらゆる願いを御前に持ち出すことを許されておりますことを感謝いたします。御教会のすべての兄弟姉妹のために祈ります。どの一人にもあなたの義と平安とが与えられ、あなたの子とされた喜びの日々を歩むことができますようにお願いいたします。主イエス・キリストにある神の福音を教会が語り続けて、世界の果てまで主の救いを宣べ伝える運ぶことができますように。子供たちを祝福し、キリストのものとされて生きる自由と幸いを与えてください。教会にあって共に神を讃美し、世にあって共に神に仕える人生を生きることができますように。その中から次世代に福音を伝え続ける伝道献身者が起こされますに。聖なるみ旨に従って、神の救いの歴史を完成したもう主イエス・キリストの御名によって祈ります。