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銀座の鐘

マリアの賛歌

説教集

更新日:2022年12月16日

2022年12月4日(日)待降節第2主日 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ルカによる福音書1章46~56節

 待降節第2主日を迎えました。クランツのロウソクの灯火が2本に増えて、救い主を待ち望む私たちの心が明るく照らされていきます。私たちの闇が神の光に照らされていきます。私たちの信仰生活も神さまの光りで照らされ、マリアが御言葉がこの身に成りますようにと告白したように、恐れから信仰へ導かれます。
 本日与えられたルカによる福音書の御言葉は、「マリアの賛歌」と呼ばれる箇所です。マリアがこの讃歌を歌ったのは、主イエスの母マリアが天使ガブリエルから、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」「神にできないことは何一つない」と御言葉を聞き、神のの力に包まれたからでした。この神の力に包まれたマリアは、子を宿すエリサベトの所に出かけました。
 天使ガブリエルの知らせを聞いたマリアは、親類エリサベトを訪問しました。マリアの報告を聞いたエリサベトはマリアに声高らかに伝えます。
「42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 マリアは、エリサベトの声に応えるようにして、神をほめたたえる賛歌を歌いました。その讃歌が本日の御言葉です。マリアの賛歌は、47節から 50節まで、主を崇め、神を喜び讃えています。
 47「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、 いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
49 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
50 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。

しかし、51節から 55節は、神の正義とあわれみがほめたたえられています。
51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
54 その僕イスラエルを受け入れて、 憐れみをお忘れになりません、
55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 この讃歌を歌うマリアは、前半と後半では別人ではないかと思われる程です。前半は神を崇める者として、後半は社会正義のために戦う戦士マリアのイメージを与えます。しかし、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろすのは誰であるか、それはマリアではないのです。51 節「主は」とあるように、戦うお方は主なる神なのです。マリアは主を崇め、私が戦うと賛美しているのではないのです。マリアは、マリアが崇める主は、マリアに目を留めてくださった主であり、その主が正義の力をもって戦ってくださると歌っているのです。マリアは、この私のために主が戦ってくださる、正義のために戦ってくださるという確信を与えられたのです。
  
 マリアは、聖霊によって神の子を身ごもっているのです。この置かれた状況において、主なる神が戦ってくださらなければ、誰がマリアの見方をして戦ってくれるのでしょうか。許嫁(いいなずけ)のマリアがもしヨセフから見捨てられたらば、途方に 暮れるだけです。聖霊によって身ごもったことを理解し説明し弁明してくれる人は、 マリアの周りに誰一人いないのです。エリサベトを巻き添えにすることはできません。 天使ガブリエルは既に去って行ってしまいました。聖霊によって身ごもったことの責 任を引き受けてくれるのは、主なる神しかいないのです。

 マリアは「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と歌っています。文語訳聖書では「そのはしための卑しきをも顧み給えばなり」口語訳聖書では、「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。」新共同訳では「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」聖書協会共同訳「この卑しい仕え女(つかえめ)に目を留めてくださったからです。」ギリシャ語聖書では「主のはしための卑しさに目を留めてくださった」です。
 「主のはしため」と訳されたことがとても大切だと思うのです。マリアは社会の中でどんなに低く見られようとも、「主のはしため」なのです。主の奴隷なのです。主の奴隷は、主の力によって包まれているのです。

 新共同訳によって「卑しい」という翻訳が「身分の低い」に訳し替えられました。聖書協会共同訳では、再び「卑しい」という翻訳が復活しました。「卑しい」という言葉は、「身分や地位が低い」「みすぼらしい」「下品でおとっている」という意味として説明できます。「卑しい」という言葉は、かつて不快語として消えていったと思います。しかし、同時に大切な「主のはしため」の「主」が消えてしまったことは大変残念としか言えません。マリアが自分自身のことを聖霊によって身ごもった自分自身を、誰よりも低く、みすぼらしいと理解していたとしても、マリアは自分自身を「主のはしため」と理解し、主のはしためであるこの私に主なる神は目を留めてくださったと自分自身を理解しているのです。そして、この私のために主なる神は正義を貫いて下さる、戦ってくださる、濡れ衣を着せられていても、この私のために正義を貫いてくださると信じて、賛美しているのです。主のはしためであるマリア自身は、主が戦ってくださらなければ、マリアの賛歌を歌い上げることはできません。マリアは戦士ではありません。武器も力も富ももっていないことはいうまでもありません。
しかし、何ももたなくても、マリア自身、主のものであることが、唯一の救いであり ました。主が助けて下さる、主が守って下さる、主のものとされていること、ここに 歌うマリアの賛美の力があるのです。
「主のはしため」は、ギリシャ語では、「ドゥーレー」と記されています。この言葉は、「ドゥーロス」の女性形です。ドゥーロスは、主の僕のしもべです。
 聖書は主に従うしもべをドゥーロスといいます。すなわち、主を信頼し、信じ、祈る、私たちは主の僕なのです。主の僕と奴隷は同じ言葉なのです。
 クリスマスは賛美の季節です。天上の天使たちの賛美に負けないで声を出して主を賛美するのです。私たちはこの社会の中でどんなに低く見られようとも、主の僕なのです。主のものなのです。このことが一番大切なのです。人生において八方塞がりになってしまうことがあるかもしれません。しかし、思い出してほしいのです。私は主のものであると、神によって救いの印を付けられていることを思い出して、立ち上がるのです。
フィリピの信徒への手紙 2 章 6~11 節 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で 現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
 神の力は、マリアを守りました、マリアの絶体絶命の危機からヨセフを用いて救いました。そして、同じ力によって、主イエス・キリストは、「僕の身分になり」ました。そして、最も低きに降られた主イエスを「神は高く上げ」たのです。

 お祈りします。 天の父なる神さま。神の力に包まれたマリアは、この地上ではどんなに心細く、みじめで弱さを覚えたことでしょう。しかし、あなたの力に包まれ、主のものとされて、 人生の危機を主のご計画で乗り越えました。救い主の降誕を待つ日々、あなたの力に 包まれて、主のものとされていることを忘れることなく、一歩一歩進めることが出来 ますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン