キリスト者の消息はどう知るのか?
説教集
更新日:2023年01月14日
2023年1月15日(日)公現後第2主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦
エフェソの信徒への手紙6章21~22節
21 わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらう ために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠 実に仕える者です。22 彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼 から心に励ましを得るためなのです。
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キリスト者の信仰生活は孤立した生活ではありません。個々ばらばらのように見えるとしても、祈りによりまた礼拝によって一人の主イエス・キリストに結ばれ、主の体である教会の一つの交わりに入れられています。信仰生活には互いの安否を問い、執り成しを祈る信仰の交わりがあるわけです。クリスマスに際し互いに祝福を祈り、新年の挨拶を交わしながら互いの様子を知り合うことも、信仰生活にはあります。互いの様子を知り、状況を知り合うことは、交わりの大切な部分でもあります。
今朝の聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙の最後にパウロが自分たちの様子を知らせる場面を描いています。そして自分たちの様子を知らせるために弟子の一人ティキコを遣わすと書いています。著者はパウロの信仰を継承した教会のリーダーだったと思われますが、使徒パウロを著者に見立てて、パウロの言葉としてこの手紙を記しました。それによるとパウロたち一行は今、牢獄に捉えられた状況で、そこから手紙を記しています。実際、パウロは何度も、福音のために牢に閉じ込められ、そこから手紙を書いてきたのです。20節には福音の使者として「鎖につながれている」と記されています。その牢獄の中の自分たちの様子を、真実にエフェソの人々に知らせたいと思っています。誤った情報で真実が伝わらなければ、誤解が生じます。そして 誤解によって人々はいたずらに悩み、苦しみます。そうあってほしくないと思うわけです。親しい者の様子を知ることは信仰生活の上で重大なことです。しかし人間の消息、それもキリスト信仰者の消息を正しく知ることは、決して簡単なことではありません。
もう50年前になりますが、まだ東西分裂の中にあった西ドイツのチュービンゲンに留学しました。学期が始まる前の2、3か月間、あるカトリックの老婦人の家で過ごしたことがあります。ドイツ語に少し慣れた頃、教会のお墓に案内されました。彼女の息子さんのお墓で、墓参りに案内されたわけです。しかしそのお墓に実際には息子さんは埋葬されていないという事情を聞かされました。第二次大戦の東部戦線、ソ連との戦線に出兵して息子さんは行くヘ知れずになったというのです。生きているのか、死んだのか、分からないという彼女の悩みを知らされました。すでに死んだと思って 墓を設けたという話でした。ソヴィエト連邦で長く捕虜になっていると考えることは、なおつらいと話していました。戦時下で消息不明になった家族を持つ苦しみがドイツにもあるのだと知りました。
意気揚々と見えた人が、内心実は苦しんでいたという話はよくあります。逆に苦難の中にありながら、恵みに満ち足りた信仰に生きたケースもあります。獄中にあるパウロが「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらいたい」と言うのは当然でしょう。それは信仰の交わりを愛に生きる人の当然の思いです。獄中にいる自分たちのことで苦しむことのないようにということでもあるでしょう。パウロの獄中の様子は例えば、使徒言行録16章に伝えらています。フィリピの牢獄の奥深くに捕らえられたパウロたち一行の姿が記されています。彼らは真夜中にあって讃美を歌い、祈っていたと伝えられています。「どういう様子で、何をしているか」、苦難の中にあって彼らは歌い、祈り、礼拝し、証し、伝道していたのです。これが伝えられなければ、いくらおかれている状況の厳しさが正確に伝えられたとしてもフェイクニュースになってしまうでしょう。パウロたちの様子を真実に伝えるためには、それができる人が伝えなければなりません。ティキコが遣わされる必要があります。
「ティキコがすべて話すでしょう」とあります。ティキコは使徒言行録によると、アジア州出身でパウロの第二伝道旅行の時、エフェソからパウロたちに同行した青年の一人です。彼はこの手紙の受取人であるエフェソの教会の人々と同郷の人です。ティキコについて特に「彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です」と言われます。彼でなかったら正確な真相を伝えることはできないのです。キリスト者の様子、その真相を伝えるのは、「主にあって愛する兄弟、真実な奉仕者」にしてはじめてなし得ることです。キリスト者の様子、キリスト者である彼らがどうしているか、何をしているかは「主にあって」「主に結ばれて」いなくては真相は分かりません。なぜでしょうか。ある牧師がこの個所を説教して語っています。「様子」というのは「彼の今ある本当の事ども」だ、そしてそれは「信仰によって与えられたこと」ではないかというのです。そうだとすれば、「本当の事ども」は「自分は、神につくられたものである」ということ、「それなのに自分は罪人である」ということ、「しかも神は自分を救って下さったということ」だと言います。このことを欠いたら一番重要なことに触れずにその人の様子をごく浅くなぞるだけで、真実を伝えることにはならないと言うのです。
私たちが本当の現実、しかもキリスト者の現実を知り、それを伝えるということは、決して信仰なしにできることではありません。信仰なしに伝えるのでは神が共にいますという重大事実を無視するか、その意味や力を知らずに報告することになるでしょう。それでその人の本当の様子、その人の真の現実が分かりきっているかのように伝えるなら、それはフェイク・ニュースを流すことになるでしょう。何が起きようと私たちは神につくられた、罪びとだが救われたという事実が支えている。それはそのとおりです。しかし同じことを繰り返し語るだけでも伝わらないものがあるのではないかと思われます。ほかならないその人たちの特別なことが伝えられる必要もあるでしょう。神の救いがその人たちと共にある。それは生ける神の助けがあることです。そのとき、その状況に即した神の助けがあります。そのときの神の助け、神の働きを伝えるのでなければ、それによって生かされている人の様子、その消息を正確に伝えることにはならないでしょう。神は生きておられます。だから信仰者はそれぞれの試練の中にも生かされているのではないでしょうか。
私たちの状況は、これまで経験したことのない状況になることもあるでしょう。しかしどんな状況に立ち至ったとしても信仰者の真相は神が共にいます中にあります。神がイエス・キリストにあって働いてくださっている中にいます。神が共にいてくださるということは、神がただ存在しているだけでなく、神が主イエスにあって憐れみ、助け、守り、統治しておられることです。この生ける神の助けを抜きにして、神がまるでいないかのように苦しい状況にいるキリスト者を伝えても、信仰者の真の現実を本当には伝えはしません。「神共にいます」という恵みの中で、主イエス・キリスト はわたしたちの罪を負い、苦難と死とを負い、私たちを神の子とし、神の平安と愛に、そして命にあずからせています。この神の助けを抜きにして、私たちの現実は伝わらないでしょう。私たちはどんな重荷を負うときにも、神の愛と御力によって背負われています。
それで、パウロはティキコを送るのです。「わたしたちの様子を知り、心に励ましを得るため」と言いました。キリスト者の様子を本当に知るならば、それを知った人の心には励ましが与えられると言うのです。それは、信仰者の様子の中にその信仰者自身の英雄的な戦いがあるからではありません。そうでなく、信仰者の様子の中に神の助けと神の恵みの支配とがあるからです。キリストの支えと聖霊の力づけがあるからです。それによって時には、キリスト者の信仰ゆえの英雄的な戦いもあります。パウロが「わたしたちの様子を知って」と言っているのは、「パウロたちの様子の中に 働いている神の助け、神の御力を知って」ということでしょう。神は、あらゆるキリスト者の信仰と生活の中で、今日も働き、助け、救い、導いてくださっています。そのことを知ること、それが信仰者の消息、その様子を知ることであり、それは当然、 知る人の心に励ましを与えます。生ける神の働きのゆえに私たちは、互いに心に励ましを与え合う関係に置かれています。生ける神の助けを証し合うからです。神の助けはそれぞれの状況、環境の差を越えています。国境を越えています。あらゆる差を越えて、キリスト者は一つの群として、唯一の神の助けによって神の背に負われています。
祈りましょう。
天の父なる神様、新しい主の年を与えられ、主イエス・キリストにあるあなたの憐みと御力の助けの中を歩むことができますことを感謝いたします。一つの霊により、一つの信仰を与えられ、一つの洗礼を授けられ、一つなる主キリストの御身体に加えられ、一つの希望にあずかるように招かれています。主イエス・キリストに従い、頭なるキリストに向かって新しい週も日々成長していくことができますように。主イエス・キリストを身に纏って、あなたの義と平和のために仕えることができますように。 そしてどうか主の福音を宣べ伝える伝道の献身者が起こされますように導いてください。御子イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。