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銀座の鐘

新しい契約

説教集

更新日:2023年02月10日

2023年2月12日(日)公現後第6主日 銀座教会 主日礼拝 伝道師 山森 風花 

エレミヤ書31章31~34節

 本日私たちに与えられました聖書箇所、エレミヤ書 31 章には「新しい契約」という小見出しがつけられています。新しい契約と聞くと、希望に満ちたイメージを私たちは受けますが、このエレミヤが預言者として活動していた時代は希望を抱くことなどできないような、神の民イスラエルにとって激動の時代でした。
 エレミヤ書1章1-3 節にはこのエレミヤが何者であり、また、どのような時代において預言者として活動していたかについて、このように記されています。
(1)エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。(2)主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、(3)更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
 ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤという三人の王の治世において、エレミヤは預言者として活動したことがここから分かります。それはまさに、エルサレムがバビロンによって陥落し、城壁も取り壊され、神殿は焼き払われ、イスラエルの民はたとえ生き残ったとしても、捕囚として バビロンへと連れ去られたあの滅びと崩壊への時代でした。神の民の王朝が終わりへと向かう、そのような激動の時代に、エレミヤは主なる神様によって、「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」(エレミヤ書1章9-10 節)という預言者としての使命が与えられたのでした。
 神の民イスラエルの悪が甚だしく、罪がおびただしかったがゆえに、抜き、壊し、滅ぼし、破壊する、というお言葉を主なる神様がまことに実現されたということをイスラエルの歴史を見るとき、私たちは知ることができます。しかし、主は「かつて、彼らを抜き、壊し、破壊 し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと 見張っている」(エレミヤ書31章28 節)と言われたとおり、神の民を懲らしめた後、そのまま見放されるお方ではないのです。主は決して神の民を滅ぼし尽くされることをお望みではないことは、この31章3節で「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」とおっしゃっていることからも明らかです。
 本日の聖書箇所、このエレミヤ書31章31-34節は、南ユダ王国が滅亡し、今まさに絶望のただ中に置かれている神の民イスラエルに預言者エレミヤを通して与えられました。31-32 節で、主はエレミヤの口を通して、このように言われます。
(31)見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。(32)この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
 イスラエルが神の民であるということができるのは、何もイスラエルの民が特別な力をもっているからという訳ではありません。そうではなく、イスラエルが主なる神様によって選ばれ、契約関係を結んでいるからこそ、イスラエルは神の民なのです。この契約という考えが聖書において非常に重要であるということは、アブラハム、ノア、ダビデなどと主なる神様が結ばれた多くの契約からも見ることができると思います。
 しかし、旧約聖書においてもっとも重要な契約は、出エジプト記に記されている神とイスラエルの民の契約です。出エジプト記24章3節以下には、主なる神様によって与えられた律法を モーセがイスラエルの民に読み聞かせ、民が「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言い、律法を行うと答えている姿が記されています。これによって、主なる神様とイ スラエルは契約を結んだのです。
 しかし、旧約聖書全体に記されているように、また、32 節にも記されているように、イスラエルはこの契約を破ってしまいました。主なる神様によって与えられた十戒、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20章2-4 節)という主なる神様の言葉を神の民イスラエルは破り続けたのです。それゆえに、主なる神様と神の民イスラエルの契約関係は破られてしまったのでした。
 私たち人間の価値観で考えれば、契約を破り続けるような相手は信頼に値せず、二度と契約を結ぶことなどないでしょう。ですが、愛と慈しみに満ちた主なる神様はそうではないので す。
(33)しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 このように記されているとおりです。主は来るべき日には、契約を破り続けたこの神の民イスラエルと新しく契約を結んでくださるというのです。そして、そのときには、律法を十戒のように石の板に記すのではなく、一人一人の胸の中、心に記してくださるというのです。
 このとき与えられる契約の内容は初めの契約と変わっていません。主なる神様から与えられた契約の内容自体には何の問題もないのですから、内容を更新する必要はないからです。問題は契約を守ることができなかった神の民イスラエルなのですが、主は契約を守ることができないこの民に一方的に恵みを与えられるのです。
 この神の恵みによって、神の言葉、神の御心が人間の心に記されるのです。神の御心が人々の心に記されるとき、そのときには一体どのようなことが起きるのかについて、34節はこのように記しています。
(34)そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
 小さい者も大きい者も主なる神様を知り、そして隣人同士、兄弟同士、「主を知れ」と教えることがない、そのような日が来る。
 そのような驚くべき日が来るということを、預言者エレミヤはこの滅亡と崩壊の時代において他でもない主なる神様から与えられたのです。絶望しか見えないそのような現実の中で、このような希望が、主の救いのご計画が預言者エレミヤに、また、神の民イスラエルに与えられたのです。
 そして、それはイスラエルが自分自身の力で清くなるとか、正しい者として歩む者ならば、といったような条件付きのものではないのです。そうではなく、主がイスラエルの悪を赦し、罪に心を留めることがない、という驚くべき一方的なものなのです。
 もし、イスラエルが二度と罪を犯さず、悪を行わないということが条件とされていたのならば、初めの契約関係と同じように、再び破られたことでしょう。しかし、新しい契約関係は、主なる神様の赦しによるものなのです。そして、この赦しこそが、私たちの主、御子イエス・キリストの十字架なのです。
 まことに主は、愛すべき御子、イエス・キリストを私たちを罪から贖い出す代価として支払われたのです。それは「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」とコロサイの信徒への手紙 1章14節にも記されているとおりです。
 この御子イエス・キリストによって、罪の赦しが、今、キリストの体である教会に連なり、神の民とされている私たちに与えられています。罪人にすぎないにも関わらず、ただ神の恵みによって与えられたこの新しい契約の中を生きることがゆるされていることを改めて覚え、感謝と賛美の声を上げつつ、今日からの一週間も歩んで参りたいと願います。

 祈り 天の父なる神様。旧約聖書を通して、私たちはいかに私たち人間の罪が大きく、また、あなたに背いて歩んでしまう者たちであるということを改めて思わされます。私たちは決して自分の力ではあなたに相応しいものとなることなどできず、また、あなたとの契約関係に生きることなどできない者たちです。しかし、あなたはそのような罪深い私たちに御目を注いでくださる慈しみと愛に富たる方であるということをエレミヤに与えられたあなたの御言葉から改めて知ることができました。どうかあなたから頂いているこの愛を抱きつつ、私たちも愛を持って歩んでいくことができますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。