ペトロと選ばれた人々
説教集
更新日:2023年04月16日
2023年4月16日(日)復活節第2主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 近藤 勝彦
ペトロの手紙一1章1~2節
1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテ ィニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。2 あなたがたは、父であ る神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス ・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平 和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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今朝の礼拝からしばらくの間、第三主日の礼拝には、「ペトロの手紙一」に導かれながら御言葉を聞きたいと思います。
手紙にはどの手紙にも「はじめの言葉」があるものです。新約聖書に収められたほかの手紙と同様、この手紙も当時の形式を守って記されており、まず手紙の差出人の名前が記され、それから宛先人、誰に宛てた手紙であるかが記されています。それで「ペトロの手紙一」の最初の言葉は「ペトロ」です。「ペトロ、イエス・キリストの使徒から、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの選ばれ人々、仮住まいの離散者たちへ」と記されています。
手紙を受け取ったとき、誰でも中身を見る前に誰からの手紙かと思うのではないでしょうか。差出人の名前を見て、おおよその内容の見当もつけながら手紙は読むでしょう。もしも自分の方ではその名をよく知っている、しかしその人が自分を知っているとは思えない、そういう名が差出人であったら、驚きを持ち、また緊張感を持って手紙を開くのではないでしょうか。手紙の真っ先の言葉、差出人が「ペトロ、イエス・キリストの使徒」からとあれば、受け取った人々の間に、動揺というか、緊張が走り、受取人がキリスト者であれば、緊張と共に喜びが湧くと思います。あのペトロから手紙が来た。思わず心を躍らせ、喜びに心震わせて読むのではないでしょうか。ペトロからの手紙であれば、主イエス・キリストの最も身近にいた人からの手紙であり、キリストの使徒、つまりキリストから遣わされた人、その存在の拠点をキリストに置いた人からの手紙です。手紙を受け取った自分もペトロと共に主イエスのごく近くにおかれていると思うのではないでしょうか。そうした緊張と喜びがこの手紙の読者の読み方であり、そのことはこの手紙を次々と手渡された後の世代の読み手にとっても変わりのないことと思います。
その意味ではじめの言葉は「ペトロ」です。この名がこれから読む手紙全体を包んでいます。「ペトロ」は本名ではありません。このこともよく知られていることですが、彼の本名はシモンです。父親の名はヨハネ。ですから「ヨハネの子シモン」が本名です。このシモンにしかし主イエスは「ケファ」という呼び名をおつけになりました。シモンが弟アンデレに連れられて主イエスにお会いしたとき、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする』(ヨハネ 1・42)と言われました。ケファはアラム語で「岩」を意味します。それがギリシャ語に直すとペトロになるわけです。ペトロという名の背後には、どんなときにも彼を「ケファ」と呼んだ主イエスがいます。
ところがシモン自身は少しも「岩」でなかったこともよく知られています。彼はガリラヤの漁師でしたが、荒波で怖くなって、溺れかけた漁師です。主イエスがすぐに捕まえて、「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と戒めらたという話です。彼はまた主イエスが受難を予告されたとき、その意味を理解することができませんでした。「神のことを思わず人のことを思っている」と諫められ、果ては主の十字架前夜に三度にわたって、自分は主イエスを知らないと言う始末でした。しかし主イエスはこの人をケファと呼び、彼の信仰がなくならないように祈り、この人を赦し、この人を愛しました。シモンは復活の主に会い、エルサレム教会の柱、使徒の代表とされ、殉教の死を遂げました。主イエスの赦しと愛と信頼が、この人を結局「岩」にしました。ペトロと聞けばいつでも、この人をケファと呼び、愛し、赦し、信頼した主イエスのことが思い起こされずにはおれません。その名がこの手紙の最初の言葉になっています。手紙の差出人の名がペトロということは、彼を愛し、赦し、信頼した主イエスを指し示しているということでしょう。
それではこの手紙の受取人は誰でしょうか。三つの言葉で表現されています。「選ばれた人々、そして仮住まいつまり寄留の人々、そして離散している人々」です。その人たちの寄留地、離散の地がポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアという五つの名で示されています。聖書地図を見てみますと、これらの名は都市の名ではなく、大きな州の名であることが分かります。それも小アジア、今のトルコのほぼ全体にわたっています。この手紙はほぼ小アジア全体の教会の人々に宛てられているようです。その時代のほとんど「地上のすべての教会」と言っているのと同じでしょう。
ですからこの手紙は、フィリピの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙のように、特別な関係を持った一つの教会に宛てられたものではありません。一つの特別な教会の固有 な問題に答えて書かれたものではないわけです。さらに言えば、ガラテヤの信徒の手紙やエフェソの信徒への手紙のように、一つの地域の中で共通の課題を抱えたいくつかの教会に回し読みされるべき回章として書かれたものでもありません。そうでなく、宛先は広く、 広大な地域にわたり、その時代の全教会と言ってもよいでしょう。たとえばポントスは小アジアの北部地域です。パウロの伝道旅行にはおよそ出てこなかった地方です。このことは手紙が書かれた時代と関係してきます。この手紙が書かれたのは、ペトロやパウロの使徒時代よりもっと後の時代でしょう。小アジアの全土に教会が離散したもっと後の時代の全教会にあてられたのでしょう。ですから、記されている内容も特定地域のキリスト者に限定された内容ではなく、およそすべてのキリスト者に当てはまる内容が書かれています。
そうするとこの手紙はシモン・ペトロによって書かれたものではないことになります。 極めて優れたギリシャ語文章で書かれていることも、この手紙がガリラヤの漁師の手になるとは思われないと理由とされます。ペトロの母国語はギリシヤ語ではなかったからです。 さらに研究者たちは言います。手紙を書くときには本名を名乗り、決して綽名や通り名で書くことはないと。彼をケファと言い、ペトロと言ったのは主イエスであり、それゆえ教会の人々がそう呼んだのであって、シモン自身が自分の名をペトロと名乗ることは考えられない、まして手紙でそう書くはずはないと言うのです。
しかしこの手紙は、著者が誰であったにせよ、明かに「ペトロ」の名において記され、そう読まれることを願っています。ですから、私たちはそうしてよいし、そう読むべきでしょう。シモンをケファと呼び、事実、信仰の「岩」となさった主イエスの「選び」を思って、そのもとでこの手紙を受け取り、読み解き、導かれることが重要と思われます。
手紙の受け取り手は、神に選ばれてキリスト者とされた人々で、故郷を離れて異国に寄留し、離散している人々です。故郷でなく、異国に仮住まいし、本国を離れて離散していれば、生活スタイルも異なり、言葉も違って、色々な不便や困ったことを経験するでしょう。この手紙が宛てられているのは、そうした寄留のキリスト者たちです。そのためさまざまな試練や困難を経験している人々です。
しかし寄留と離散のキリスト者とは誰でしょうか。本国を別に持っているのは誰でしょうか。いうまでもなく、それはすべてのキリスト者です。当然、21世紀の日本におけるキリスト者、私たちもこの手紙の受け取り手であり、この地上の歩みを寄留者として、離散者として歩んでいます。そのための不便も労苦も蒙っています。それは、私たちも選ばれた人々として信仰生活を生きているからです。選ばれた者たちとして、本来いるべき場所を別に持っており、本国を与えられているからです。
寄留者や離散者として試練に遭い、苦労を負い、時には迫害に苦しみます。しかしその原因や理由は、「選ばれた人々」であるからです。そして自分の居場所を本国である神の国に持っているからです。そうであれば、その試練や苦労の中で、信仰に迷い、疑いに悩むでしょうか。この世の旅路の中で不確かになったり、ふらふらしたりするでしょうか。そうはならないでしょう。信仰生活は迷いやふらつきの生活ではありません。私たちの弱さのゆえに、たとえ迷いや不確かさの中でフラつくときがあったとしても、結局は「ペトロ」にされ、「岩」にされるのではないでしょうか。私たちのまよいやふらつきのそのただ中にあっても、シモンをケファと呼び、その赦しと愛と信頼を持ってケファと呼び続け、事実、信仰の岩、教会の岩にしてなさった主イエスがおられます。その主の恵みの選びに 支えられています。
私たちは思いがけず今朝、ペトロの名で記された手紙を受け取りました。そして私たちが主イエスにあって神に選がれた者として、今生かされていることを思い起こさせられました。それゆえにまた、今この地上を寄留の者、仮住まいの者として歩み、離散の者として生きていることも思い起こさせられました。それは、主イエスにあって御国を本国として与えられ、主イエス・キリストの中に居るべき場所を与えられていることです。私たちが主イエス・キリストによって選ばれているというのは、主イエス・キリストのものとされて、キリストによる救いの中に選ばれていることです。そのことは、このうえなく幸福な中へと選ばれていることです。神の選びは、主イエス・キリストにより、この上なく幸いな選びです。離散した寄留の地にあっても、「復活のキリスト」と共にあり、「復活の キリスト」に伴われています。希望と喜びの内に歩み続けましょう。祈ります。
憐れみ深い天の父なる神様、復活の主イエス・キリストと共に今日も私たちの本国に結ばれながらて、神の恵みの選びによって生かされておりますことを感謝いたします。寄留と離散の生活で重荷を負うときにも、キリストにある神の選びにより救いの中に、そしてこの上ない幸いの中に入れられていることを覚えることができますように。この地上の歩みの中で、主より与えられた使命を果たしていくことができますように。復活の主イエス・キリストに従い、主と共に日々を生きることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。