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銀座の鐘

御名があがめられますように

説教集

更新日:2023年04月22日

2023年4月23日(日)復活節第3主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

ヘブライ人への手紙 13章12節~16節

・神をあがめる理由
  本日は、主の祈りの「御名をあがめさせたまえ」という祈りについて共にわかちあっていきたいと思います。そこで本日私たちに与えられた御言葉はヘブライ人への手紙第13章12節~16節であります。
ある人がこのように語っております。キリスト者とは、主の祈りを祈ることのできる人のことである、と。信仰のない人であっても、苦しい時の神頼み、とあるように、神様助けてくださいと祈ることはあります。あるいは、日本人は毎年、お正月になると神社に参拝に行って無病息災などを祈ります。日本人の心にも、神様に願い求める心があるということでしょう。しかしそのような祈りと、主イエスが弟子たちに教えてくださった主の祈りと、どう違うのでしょうか。一番違うところは、主の祈りは、自分の願いではなく、神様が第一となることを願うということではないだろうかと思います。もちろん、主の祈りの後半はわたしたちの必要を祈るのです。そこでさまざまな願いをすることを許されております。しかし、この祈りの初めに「御名があがめられますように」という祈りがあるのは、わたしたちにとって、何よりも大切なことは、神様が神様として、本当にあがめられること。第一とされること。それが何よりも大切だからだと思います。そして主の祈りを祈っていくことでわたしたちはだんだんと気付かされていくのです。いろいろな願いをささげ、求めるわたしたちだけ れども、本当に大切なことはもうすでに与えられているのだ、と。本当に大切なこととは何か。それは罪の赦しです。永遠の命です。神の子とされたということです。父よ、と呼べるものとされたということです。主イエス・キリストの十字架の贖いによって。そのことこそが、わたしたちの信仰の基盤です。その基盤を忘れてしまうと、わたしたちは祈っていても、神様の御心がわからずに、自分の思いばかり優先して祈り、神様は祈りをなかなかかなえてくれないと焦ったりしてしまいます。神様の愛がわからなくなってしまいます。ですから、私たちは祈るたびに、神様がまずわたしたちに何をしてくださったかを思い起こすことが大切です。

・完全な贖い
本日与えられた御言葉では、少し私たちの生活とは遠いように思えることが語られております。11節にこのようにあります。「罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運びいれられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。」これは、旧約聖書の時代、イスラエルの人々は自分たちの犯した罪を告白し、動物を殺して神様にささげることによって罪の赦しが与えられる。そのための規定が出エジプト記や、レビ記や民数記に長々と記されております。しかし、そのように祭司によって罪の贖いの儀式が何度なされても、それは動物ですから、不完全なのです。だから毎年何度も動物を殺さなければならなかったのです。しかし、主イエスが、一回限り、私たちのために十字架におかかりになり、私たちの罪を全て担ってくださいました。あのゴルゴダの十字架で主が死んでくださったとき、わたしたちの罪は、これまでの人生で犯した罪だけでなく、これから犯すに違いない、私たちの全 生涯の罪も含めて、全て担ってくださったのですね。そして主イエスは不完全な動物ではなく、全く汚れのない、罪のない方でありましたから、この主イエスによる十字架の贖いは完 全なのです。だからわたしたちは何度も神様の御前に動物を殺してささげたりする必要はありません。ただ、主イエスによる罪の赦しを信じて、感謝をささげるだけなのです。

・讃美のいけにえ
そこで、15節でこのようにあります。「だから、イエスを通して讃美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」もはやわたしたちは旧約の民ではありません。新しい契約の中にあります。毎年、犯した罪を赦されるためにいけにえをささげて血を注ぐというようなものものしい儀式をしなくてもよいのです。そのような律法を守らなければならない、という世界の中にはもういないのです。そうではなく、あなたの罪は赦された!という世界の中に生かされているのです。十字架を仰ぐとき、私たちは、主イエスの十字架の御血潮によって罪を赦されて神の子とされたのだ、と心から感謝をささげる者とされたのです。そして、そのような真心の感謝から湧き出る喜びと讃美によって、自発的に神様に賛美をする。神様、ありがとうございます!イエスさまのおかげで神様の子とされました!そういう感謝と喜びがその心から湧き上がってきます。それこそが、わたしたちの本当に生きる力となるのです。

・地上を旅する神の民の祈り
 このヘブライ人への手紙の全体で語られておりますことは、わたしたちは神の御国を目指す者であって、この地上は仮住まいなのだ、本当の世界は死を越えて行き着く天の国なのだ、ということです。14節にはこのようにあります。「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです。」信仰を与えられるということは不思議なことだと思います。価値観が変わるのです。そのひとつが、この地上が仮住まいであり、影の国であると信じられるということではないでしょうか。わたしたちは神様の備えてくださる光の国を目指して歩む旅人なのです。だから私たちは、この地上がすべてだとは思いません。罪に満ちて、貧富の差が激しく、差別や暴力や悲しみが常にどこかではびこっており、戦争や紛争が絶えまないこの地上が全てであるなら、これは本当に希望がありません。しかし、そのように考えることができるのは、私たちに信仰が与えられたからなのです。信仰のない人や、無神論者にとっては、この地上が全てなのです。だからおのずと、自らを強くしていかなければなりません。弱肉強食の世界で勝ち抜いていかなければなりません。これは辛いことです。でも信仰に生きる私たちは、弱さを弱さとして、神様にゆだねる ことが許されております。神様に信頼することによって強くされることもあります。マイナスと思えるようなことにも、神様の御心が働いていると信じて前を進むことができます。それは死を越えて生きる復活の命を主イエスが私たちに与えてくださったからなのです。 12節、13節をもう一度お読みいたします。 「それで、イエスもまたご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」外、という言葉が出てまいります。主イエスは十字架で殺されるとき、門の外で処刑されたのです。罪人は、社会の内側から外に追い出されるのです。世を救うために、世から放り出されたのです。しかしそのようにして世の罪の身代わりとなって、世を愛しぬかれたのです。わたしたちキリスト者は、この世にいながらも、もはや世に属する者ではなく、宿営の外、すなわち天に属し、天を目指して歩む者となった。主イエスに従うとき、私たちは皆地上の栄誉や富だけを求めるのではなく、天の栄光を目指し、神の御国に焦点を当てて歩む者となったのです。ですから主の祈りは、そのように、神と神の国に焦点を当てて生きるための祈りであると言えます。

・主を喜ぶ者、讃美する者
 御名があがめられますように。この祈りはわたしたちの自然のままの心は決して求めません。聖霊が与えられて初めて、その心が生まれてきます。私たちは神の栄光ではなく、自分の栄光を願い求めていたからです。しかし、自分の栄光を求める心。それが妬みや、ひがみ、憎しみとなって現れます。キリスト者とは、御名があがめられることを何よりも祈り願 うことを主イエスに教えられた者です。ただ主にのみ栄光あれ!宗教改革者たちはその信仰を大切にしてまいりました。わたしたちは、神を知らずに生きていたとき、自分がこの地上でどのように満足して生きることができるか、それを追い求めていました。しかしそれをひたすらに追い求めるとき私たちはいつも満足することはないのです。しかし「御名があがめられますように」と祈るとき、私たちは何よりも主イエスの御名を誇り、主を喜ぶ者とされていくのです。そしてそのように主を讃美し、主を喜ぶ者を、主御自身が喜んでくださるのです。主なる神がわたしたちを喜んでくださるということは素晴らしいことだと思います。 神が、罪深く小さなわたしたち、一人一人を気にかけてくださり、大切にしてくださっているのです。主は私たちがいなくとも、神とその独り子と聖霊による交わりで十分であったはずです。また私たちがいなくとも、神はおひとりで何でもおできにあるでしょう。しかし神は私たちを愛してくださっているので、私たちを神の国の御業に参与させてくださいます。 わたしたちが主なる神を信じ、感謝と喜びにあふれて自分をささげていくとき、主は私たちの働きを用いて、この地上に主の御国をつくられる。わたしたちの伝道の働きもそのようにしてなされるのです。主イエス・キリストの命を受けた者として、主にあって父なる神を喜び、讃美の歌を歌う一人一人となっていきたいと思います。
祈ります。
 天の父なる御神様。あなたの栄光を表す器として、銀座教会に連なるお一人お一人を祝福してください。わたしたちが全生涯、讃美のいけにえをささげるために、いつも この祈りを第一に祈ることができますように、その信仰を成長させてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン