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銀座の鐘

御心がなりますように

説教集

更新日:2023年05月05日

2023年5月7日(日)復活節第5主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

ローマの信徒への手紙8章26〜30節

 今年度、私たちはイエス様が弟子たちに教えられ、また、私たちにも教えてくださった主の祈りをひとつずつ、共に学び、味わっています。この主の祈りが、私たち教会にとって非常に重要な祈りであり、また、本当に驚くべき祈りであるということは、主の祈りのはじめの言葉、呼びかけの言葉からも明らかです。主の祈りは「天にまします我らの父よ」という言葉から始まりますが、かつて私たちはキリスト者とされる前、罪の奴隷でした。それにも関わらず、今や私たちは天におられる神様に対して、「アッバ、父よ」と、「天にいる私たちのお父さん」と呼びかけて祈ることがゆるされています。他でもない神の御子イエス・キリストによって、そのように祈ることが私たちにゆるされ、また、命じられているというのは、本当に驚くべき恵みです。
 本日共に学ぶ「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りは、主の祈りの三つ目の祈りとなっています。私たちはこの主の祈りの三つ目の祈りを通して、「御心がなりますように」と祈ります。この御心とは、天地万物を創造された主なる神様の御心です。創造主なる神様の御心がなりますように、というこの祈りは、御利益宗教ばかりがあふれている私たちの世界において、異質な祈りであると言うことができるでしょう。
 そもそも、私たちはキリスト者とされる前、本当の神様を知らなかったときには、このような祈りを神様にささげるなど、思いつきもしなかったことだと思います。それほどまでに、この「御心がなりますように」という祈りは驚くべき祈りなのです。しかし、このような驚くべき祈りを他でもないイエス様から教えて頂いたのにも関わらず、キリスト者とされた今でも、私たちは神様に祈るとき、「私たちの願いを聞いてください」とか、「神様の御心をどうか私の願いを叶えるために変えてください」という祈りをしてしまっているのではないでしょうか。
 私たちの日々の祈りを振り返るだけでも分かりますように、この主の祈りの三つ目の祈り、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りは、私たち人間にとって非常に祈るのが難しい、そのような祈りなのです。しかし、聖書にはっきりと記されているように、イエス様は私たちに神様の御心がこの地においても行われるように祈りなさいと命じられたのです。なぜなら、私たち被造物が救われるためには、創造主なる神様による救いのご計画、つまり、御心が天だけではなく、この地においても行われることが必要不可欠だからです。
 それは本日与えられた聖書箇所の直前、ローマの信徒への手紙 8.22-23 節にも「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけではなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」と記されてるとおりです。つまり、すべての被造物は救いを求めており、また、キリスト者とされた私たちも、救いの完成の日に神の子とされ、体が贖われることをうめきながら待ち望んでいる、とパ ウロは言うのです。
 言うまでもなく、神の子とされ、体が贖われることなど、私たち人間の力では決してできません。しかし、神の子とされ、体が贖われるこのような完成の日、救いの日を私たちキリスト者が希望を持って待ち望むことができるのは、この大いなる希望を実現するために救いのご計画を立ててくださるお方がいることを知っているからです。
 この救いを完成させてくださるお方こそ、天におられる私たちの父なる神様です。私たちが主の祈りにおいて、また日々の祈りにおいて、呼びかけることができ、また、私たちの祈りを聞いてくださるこの父なる神様が、私たちのうめきをも聞いてくださるのです。
 そして、この私たちのうめきを聞いてくださる父なる神様は、私たちを救うために、救いのご計画をたててくださいました。これはまことに主なる神様の私たちへの愛が示されたご計画でした。なぜなら、主イエス・キリスト、全く罪のないこの神の愛すべき独り子を私たち罪人のために、神様がささげてくださったからです。イエス様が私たち罪人の代わりに十字架の上で罪人として裁かれて死なれたことによって、私たちは贖われたのです。
 しかし、私たちの罪人のために支払われたこの尊い代価、神の御子イエス・キリストの十字架の死、また、十字架へと向かうお姿を見つめるとき、イエス様はそのご生涯において、弟子たちに教えられただけではなく、イエス様ご自身も「御心がなりますように」と祈られたということを私たちは深く覚えたいのです。
 神の御心、救いのご計画が成就するためには、私たち罪人が贖われ、救われなければなりません。ですが、この御心が行われるようにとイエス様が祈られるとき、それはまず第一に、イエス様ご自身が十字架の死をお受けにならなければならないということです。
 この神の救いのご計画、御心のために、この十字架の死に至るまでのご受難の道が今まさに目の前に迫っているという時、イエス様は恐れや不安を何も抱かなかったわけではありません。イエス様は、悲しみもだえられたということがゲツセマネでのイエス様のお姿としてはっきりと聖書には記されています(マタイによる福音書 26 章 36-46 節)。
 イエス様は十字架を目前としたこのゲツセマネでの祈りにおいて、三度祈られました。その祈りのお言葉、それは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」という祈りでした。この祈りから、 私たちはイエス様が戦っておられることが分かります。何と戦っているのかというと、イエス様ご自身の思いとです。イエス様は「父よ、できることなら、この杯を過ぎ去らせてくださ い」と祈られましたが、それこそ、イエス様ご自身の思いでした。
 イエス様ができることなら過ぎ去らせてくださいと願われたこの杯は、イエス様が私たち罪人のために十字架の上で罪人として死なれるということです。このイエス様の祈りからも明らかなように、罪人として死ぬということは神の御子イエス様にとっても非常に恐ろしいものだったのです。それは受難予告をされたイエス様に対してペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言ったとおり、神の御子が神に見捨てられた罪人として死ぬなど、とんでもないことだったからです。しかし、イエス様はこのペトロに対して、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のこと を思っている」と言われました(マタイ 16.22-23)。
 イエス様はこのように私たち人間を誘惑するサタン、また自分の思いと戦われました。十字架が差し迫った、ゲツセマネの祈りの中でイエス様は戦われたのです。そして、イエス様はこの祈りという戦いの中、「あなたの御心が行われますように。」と祈ってくださったのです。 そして、自分の思いではなく、神様の御心に最後まで従順に歩んでくださったのです。
ですから、私たち信仰者は、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」というこの主の祈りの三つ目の祈りを祈るときには、このゲツセマネで祈り、戦われたイエス様のお姿をいつも見つめなければならないでしょう。イエス・キリストの弟子であり、このキリストの体とされている教会に連なる私たちが「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るとき、それは戦いなのです。なぜなら、私たちはこの祈りをささげるとき、いつも、神の御心よりも自分の願いを優先してしまう、そのような私たちの本当の弱さ、惨めさと戦わなければならないからです。神の御子であるイエス様でも、あのように苦しみの中で祈られたその祈りをこの私たちも祈るのですから、それは私たち自身の力だけでは決して祈ることなどできないで しょう。
 しかし、私たちはこの主の祈りを祈ることができるように助け手が与えられているのです。それは 26 節に「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と記されているとおりです。また、このとき、聖霊はただ執り成すだけではなく、27 節に「”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる」と書かれている通り、神の御心に従って私たちキリスト者を執り成してくださるのです。このような助け手、聖霊が私たちには与えられていますが、この聖霊は一体どこから送られてくるのかと言いますと、それは天です。私たちが祈りをささげる父なる神様がおられる天から、この聖霊は送られてくるのです。そして、この天には父なる神様だけではなく、ゲツセマネの祈りを戦い抜かれ、十字架の死によって死なれ、葬られた後、復活し、天へと昇られた私たちの救い主、イエス・キリストもおられるのです。
 イエス様は復活した後、ただ天へと昇られただけではありませんでした。父なる神様の右の座に座るために天へとあげられたのです。つまり、イエス様は今も神様によって特別な権威を与えられた神の右の座という特別な場所に座っておられるのです。その神の右の座に座っておられるイエス様が送ってくださった力、それが聖霊に他なりません。この神の霊、聖霊について、ロマ 8.14-16 節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と記されています。
 罪の奴隷であった私たちを神の子としてくださる聖霊までもが私たちには与えられているとは、本当に驚くべき恵みです。私たちを神の子として証ししてくださり、また、弱い私たちを助けてくださるお方、聖霊が私たちには与えられている。だからこそ、私たちは、私たちの弱さ惨めにも関わらず、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈ることができるのです。私たちに祈るべき言葉を与えてくださり、また、私たちに祈る力、助け手までをも備えてくださる主に感謝しつつ、この主の御心を求めつつ、歩んでまいりたいと願います。