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銀座の鐘

なぜ、何のために選ばれたか

説教集

更新日:2023年05月19日

2023年5月21日(日)復活節第7主日  銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一1章1~2節

 手紙を記すとき、相手にどう呼びかけるかということはどうでもよいことではありません。「あなた」もしくは「あなたがた」に手紙を記すのですが、その「あなた」もしくは「あなたがた」をどう呼ぶか、そこに相手に対する理解と態度が表現されます。尊敬を持って「先生」と呼び、あるいは信頼をもって「兄弟」「姉妹」、さらには親しみをもって「友よ」など、色々な呼び方があるでしょう。ペトロの手紙の著者は、「選ばれた人たちへ」と書きました。相手は「神に選ばれた人たち」であることに重大な特徴があったからです。
 実際にはこの手紙は、小アジアのほぼ全域に及ぶ諸教会のすべてのキリスト信仰者に宛てられたと思われることは前回お話しました。ですから、問題はキリスト者たちをどう呼ぶかということです。今日では一般に「キリスト者」という呼び方が相手を 呼ぶにも、自分を語るにも普通です。あなたはどういう人ですか、キリスト者です、という応答になります。しかしはじめからそうだったわけではありません。
 キリスト者は当初、「この道の者たち」と呼ばれました。ユダヤ教の中の一つの分派の意味合いが強かったわけです。しかしやがて異邦人が多く加わったとき、「この道のもの」というのでは異邦人を含む意味が示されません。使徒言行録11章には、アンティオキアではじめて主の弟子たちを「キリスト者」と呼ぶようになったと言われています。また、キリスト者たちははやくから「聖なる者たち」とも呼ばれました。パウロの手紙を見ますと、ローマの信徒への手紙でも、コリントの信徒への手紙でも、手紙の相手を「神に愛され、召されて聖なる者となった人たち」と呼んでいます。
 わたしたちは互いに自分たちを「キリスト者」と呼んでいます。自分でもキリスト者として自覚します。この呼び名は、深い意味をもって自分が何者かを示しています。「キリスト者」と自分を呼び、改めてその名の意味や由来について思いを向けますとき、そこから力が湧いてきます。「キリスト者」と呼ばれるのは、キリストにある人です。キリストにあって新しくされた人、キリストを救い主と信じ、洗礼によって、キリストの印を押され、キリストのものとされた人。その人は、キリストの力のもとに置かれている人と言ってもよいでしょう。キリストと共に死んで、キリストと共に生かされ、どんな時にもキリストと共にある人、それがキリスト者です。
 ペトロの手紙に戻りますと、ここで相手を呼ぶ呼び名は、「神に選ばれた人たち」です。「聖なる者たち」である「キリスト者たち」は実は、「神に選ばれた人たち」です。この呼び名にはどういう意味と力、そして喜びが込められているでしょうか。このことは、「選ばれた人たちへ」と記されて、すぐにその選びがどのように成立したか、また選ばれて今どのような状態にあり、また何のために選ばれたかが、語られることによって分かります。それが2節です。
 こう記されています。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」と。短い一節ですが、「選ばれた」ということが、どれほど深く豊かなことか、ただ単にこの世に生まれ、無目的に存在しているのではなくて、今日ここにいることのただならぬ理由を持ち、その根拠を持って、そして生きる大きな目的と喜びにあることが語られています。
 それを短い一節が雄弁に語りました。特に三つの前置詞によって明らかになるように記されています。一つは、「何々に従って」「何々に拠って」という意味をもった前置詞です。「選ばれた」のは何によってか、どこに根拠を持ってのことか、それは 「父である神の御計画によって」だと言います。神の御計画によってあなたがたの選びは起きました。そして次に「何々の中で」という表現で、「聖霊による聖化の中で」と言われます。そして三番目に「どこに向かって」、つまり何のために選ばれたかが語られます。それが「何々の中へ」「何々に向かって」を表わす前置詞で言い表され、「イエス・キリストの服従と血の注ぎに向かって、「その中に入るため」に選ばれたと言うのです。
 ここには、神によって選ばれたという私たちの身に起きた出来事が、実は遠大にして深淵な根拠や目的を持った事実であり、父である神と御霊とイエス・キリストの働き、つまり三位一体の神のそれぞれの働きが結びついているというのです。この一つ一つの神の事実を語るとすれば、この2節だけで、選びの根拠と今選ばれている状態、そして私たちがどこに向かって選ばれているかを語る「三つの説教」が必要とされるでしょう。そしてそのうえで選ばれて、今、生かされている幸いと喜び、さらにいよいよ与えられる恵みと平和を語ると、計四つの説教が必要とされる、ここはそういう箇所です。
 そのすべてを一つの説教に収めることも許されないことではありません。「選び」はまず父である神の御計画に基づいていると言われます。ギリシア語の言語で言うと「予知」という言葉、先立って知っているという言葉が使用されています。ですが、知っているというのはすでに決まった成り行きをただ知っているという意味ではなく、神がその全知をもって意志なさっておられる、神の恵みの御計画があることを語っています。キリスト者は神に選ばれた人たちですが、それは神の恵みの御計画、神の聖なる意志決定によると言うのです。古代世界の人々は人生を暗く覆う運命のもとに感じていたと言われます。しかし神に選ばれキリスト者とされた人たちは運命に閉じ込められてはいません。どうにもならない運命の定めの中にいるのでなく、生ける神の恵みの御意志によって生かされているのです。神に選ばれたということは、生ける神を信じる者とされたことです。使徒言行録が伝えているフィリピの看守は、「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」と言います。神の恵みの意志決定により、その御計画によって選ばれた人生は、神を信じる喜びの中にいるでしょう。
 「選ばれた人」は次に「霊によって聖なる者とされ」ていると言われます。聖なる者とはつまり、神のものとされていることです。聖霊は被造物を神のものとして結ぶ力にほかなりません。キリスト者が早くから「聖なる者たち」と呼ばれたと言いました。選ばれた人たちは、今、キリストにあり、また聖霊によって神のものとされ、信仰と洗礼によって、聖なる者にされています。
 第三に、選びの目的、何のために選ばれたかが語られます。それは何とイエス・キリストへの服従とその血の注ぎを受けるためだと言うのです。キリストへの服従とその血の注ぎを受けるというのはあまり聞きなれない言葉かもしれません。謎のようなこの言葉は、「契約の締結」のことを語っています。選ばれたのは、神の民、神の子らとして、神との新しい契約に生きるためだというのです。
 出エジプト記24章にシナイの山の麓でイスラエルの民が神と契約を結んだ場面が描かれています。モーセはそのとき契約の書を民に読み聞かせ、イスラエルの民は「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言います。するとモーセは、あらかじめ用意した雄牛の血を取って、民に振りかけたとあります。そして「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と言ったというのです。「キリストの血の注ぎ」は、この振りかけられる契約の血を意味しています。主イエスが十字架に血を流すと言い、主の晩餐で杯を取って、「これは、罪が赦されるように多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われたことも思い起こされるでしょう。「新しい契約のための血は、「選び」がそこを目指している。つまり神との新しい契約に生きるために選ばれたと言うのです。
 雄牛の血が注ぎかけられたのはなぜでしょうか。なぜ契約に血が関係するのでしょうか。契約にはそれに応える真実、誠実が求められます。契約を破った時には裂かれた雄牛のように引裂かれてもよいという誓約が込められていたとも解釈されます。しかも繰り返し神に対して不忠実な私たちです。そのとき主イエスの血が流されています。主の血の注ぎは、罪を負うための犠牲です。選ばれたのは、このキリストによる新しい契約、キリスト御自身が犠牲となって守ってくださる神との契約にあずかるためです。選ばれたのは、キリストにあって神との平和に生きるため、つまりはこの上ない幸いに生きるためだと言ってよいのです。

 天の父なる神様、今朝は貴方によって選らばれたということの中に、あなたの御計画と御霊の働き、そして主イエス・キリストの血の犠牲による新しい契約のあることを知らされました。感謝いたします。繰り返し不誠実になってしまう私たちですが、どうぞ御霊の潔めと御子の犠牲の血にあずかって、あなたの御計画に応えていくことができますように、導いてください。あなたの御栄光が現れるために世界に離散している選ばれた者たちが誠実に信仰を生きることができますように、特に日本にいるキリスト者たちの上に御霊を注いで、その信仰と希望と愛を確かなものにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。