悪より救い出したまえ
説教集
更新日:2023年06月05日
2023年6月4日(日)聖霊降臨節第2主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満
ヨハネによる福音書16章25節~33節
25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について 知らせる時が来る。 26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあ なたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。 27 父御自身が、あなたがたを愛しておられる のである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからであ
る。 28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」 29 弟子たちは 言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 30 あなたが何でもご存じ で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来 られたと、わたしたちは信じます。」 31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったの か。 32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来 る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。 33 これ らのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦 難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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信仰生活とは、新しく生まれ変わった者の生活であります。つまり、自分を中心に生きていた私たちが、心の内に神様を受け入れ、神様を中心に生きる生活です。自分を喜ばす生活ではなく、神様に喜ばれる生活です。もちろん、わたしたちは神様のものとなっているということですから、神様にいつも喜ばれている。その主の祝福の中で、聖霊に従って、歩むことによって栄光をあらわすのです。それは単に完全な生き方を求めるということではありません。欠点のない清い生活をただ目指しているというのではありません。それはいくら求めても限界があります。そうではなく、罪を赦された者らしい生き方。新しい命を生きるものらしい生活をするということであります。ですから、わたしたちを、さまざまな罪や、悪いものから守ってくださいというのは、単なる無病息災を願う祈りではありません。もし無病息災だけを願い、それが聞かれないなら、わたしたちはすぐに不平、不満を言ってしまいます。神はわたしの祈りを聞いてくださらず交通事故に遭ってしまった。病気になってしまった。神などいないのではないか、などと言ってしまいます。それはまだ自分が中心である者の言葉です。単に自分がこの地上でひどい目に遭わないための願いではなく、神様の目線で、神様のために、わたしが良き歩みをしていくことができるように願っていくのです。主イエスに従って行く。その生活を、主御自身が、導き守ってくださることを信頼する祈りなのです。そして、わたしたちはこの祈りにおいていつも自分の弱さを自覚し、聖霊の助けを求めて行かなければならないのです。
そこで、試みとは何か。ご一緒に考えていきたいのです。「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」といつもわたしたちは祈っておりますが、聖書では「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」となっております。試みと誘惑。日本語にするとそのニュアンスは随分と変わります。誘惑というと、快楽へのいざない。心地よいけれどもしかし堕落へといざなう力です。そして試みというのは、反対に苦しいもの。病気だとか、愛する人との別れだとか、孤独だとか、迫害されることや、災害に遭うことなど。そういう耐え忍ばなければならない辛い状況において何が試されるかというと、やはり信仰が試されるのです。信仰があるかどうか、テストされるのです。聖書の原文のギリシャ語では、この言葉はどちらにも訳すことができるのです。誘惑も、試練も、どちらも一つの言葉なのです。なぜならどちらも、わたしたちの神への信頼、信仰から引き離す力であるからです。この試みについては、宗教改革者のルターもカルヴァンも、大体同じことを語っているのですが、試練と誘惑、というふうには分けて考えてはおらず、内からの試みと外からの試みと言うふうに分けて考えております。内からの試みとは、私たち自身の内にある罪が原因で、御心に適わない仕方で欲望を果たしたいと願うのです。それを使徒ヤコブはその手紙の中でこう語っております。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙 1 章 13~15)わたしたちの罪の力。それこそが第一原因です。私たちは確かに罪から贖われ、罪責からは自由になり、恵みの下にありますが、なお私たちの内にある罪からの欲望がわたしたちを躓かせ、足を引っ張り、ときに「豚は体を洗って、また、泥の中を転げまわる」(二ペトロ 2 章22)というようなことが起こるのです。ですからわたしたちがこの「私たちを試みにあわせず」と祈るときにはそう簡単に同じ罪を何度も犯さないように、罪の力から解放してください。罪から離れさせてください」という祈りを祈ることともなりましょう。
次に、外からの試みがあります。外からの試みとは、わたしたちの内部から湧いてくるものではなく、外部からの誘惑や試練です。それは左からの試みと右からの試みとあらわされます。右からの試み。それは繁栄です。豊かになることです。金持ちになること。出世すること。健康。これらもまた試みとなり得るのです。なぜなら、恵みを取り違えるからです。これらの豊かさこそが神からの恵みであると勘違いするのです。旧約聖書では、豊かになることが、神からの祝福の確かなしるしであると信じられているところもあります。(申命記 28 章など)しかし、あまりに豊かになると、私たちは高慢になります。そして感謝することを忘れてしまい、恵みを恵みとして受け止められなくなります。ですから、箴言の第 30 章でこのように語られております。「貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働きわたしの神の御名を汚しかねません。」(箴言 30 章8-9)反対に左からの試みがあります。逆境です。貧困や、重い病気や、神に従うことで生じる他人からの迫害や誤解や圧迫など。これらの試みは、神の恵みが覆われ、疑わしくなるのです。神の恵みと罪の赦しの下に置かれていることが分からなくなる。 ここでも、やはり試されるのは信仰であります。ですから、わたしたちは右側からの試みにおいても、左側からの試みにおいても、「試みにあわせないでください」と祈り続けて行かなければなりません。そして、もし、自らの内にある罪の誘惑に打ち勝ち、右からの試みに対しても、左からの試みに対しても耐えることができたとしても、最後にそのような自分の完全性(実際はそんな完璧な人などはいないのですが)を誇り、自分の正しさを誇り、他人を軽率に裁く。ファリサイ派の人々が陥った霊的高慢の誘惑があります。そこではもはや自らの弱さを自覚することなく自分の力で天国の門を開くことができると思い込んでしまいます。使徒パウロは、かつて主イエスと出会う以前はそのようなところがあったのだと思います。しかし主イエスに出会い、打ち砕かれ、またそのあと使徒として伝道生活をする中で、日々打ち砕かれていったのでしょう。特にパウロがとても素晴らしい霊的体験をしたのちに、「思い上がることのないように」、神から一つのとげが与えられたと言います。そのとげとは病気であったと言われていますが、何の病気であるのかはわかりません。とにかくパウロが伝道に差し支えあると考え、苦しいので取り除いてくださいと三度願った。そういう苦しみのとげであります。しかしこの苦しみは実は要らないようで、パウロに必要だと神様が判断なさって、あえて与えられた病気であったのです。その病気のゆえに彼は生活が不自由になりましたが、恐らく慢性的な痛みか、慢性的な鬱的な症状か、突然やって来る癲癇の病か何かです。そういう、辛い中で自らの弱さを自覚したのだと思います。しかしこの弱さこそが恵みであったのです。 高慢にならないために。高慢になって神の恵みがわからなくならないように。主が与えられたものです。 しかしこれをなぜかパウロは「サタンから送られた使いです」と語ります。ここにはなんとサタンが、つまり悪魔が介入していたのです。しかし、ヤコブは、神は人を誘惑なさらないと言います。この言葉と、この箇所にあるパウロの告白との間に矛盾はないのでしょうか。このことについてカルヴァンはこう語ります。試みには、悪魔からの試みだけでなく、神からの試みも確かにあると。悪魔からの試みはただ、神の子たちを滅ぼそうと試みる。邪悪な力でしかありませんが、神からの試みは、わたしたちの誠実さをテストし、訓練することによって御国の民を鍛錬する。鍛え上げるためなのです。ロマ書の5章にありますあの、苦難、忍耐、練達、希望。この確かな命の希望のために神は私たちを試みるのです。またそこには 常に逃れるための手段も備えられているということです。そしてヤコブの手紙で語られていることは、私たちの内にある罪が自ずと悪へと誘惑する、それを神のせいにしてはならないということであると言うことです。しかし、わたしたちには隠されていても、神には確かなものとして、わたしたちを裁き、正しく導くために、あえてサタンに引き渡すことができる。そのような自由を神は持っておられるのです。しかし、神がわたしたちにあえて試みをお与えになるのならば、それはわたしたちの信仰の成長にとってどうしても必要なものなのでしょう。神は決してわたしたちに悪いものをお与えになるはずがありません。神の本質はいつも善であり、愛であり、わたしたち罪人が、御国にふさわしいものとなるために、常に天において深いご計画の下に導いてくださるからです。そのような神の摂理の中で、たとえサタンに引き渡されるようなことがあったとしても、サタンは神に許された範囲でしかわたしたちを痛めつけることはできません。つまりサタンは、常に神の力よりも下にあり、神を上回ったことなどはありませんし、すでに主 イエス・キリストの十字架によって決定的に敗北しており、彼らは世界の終わりまで足掻いておりますが、やがて敗北する者と決まっております。しかし、そのようなサタンの存在。今も神に抗い、神を憎み、神に属する者たちをつけ狙い、誘惑し、食い物にし、告発する者。わたしたちの敵の存在を認識しているべきでありましょう。ただし神に守られているからと言って、わたしたちはこのような敵と太刀打ちできるなどと思ってはなりません。敵ははるかに私たちよりも賢く、残忍です。狂い猛る獅子です。しかしそのようなサタンをも主イエスが支配し、今も戦ってくださるのです。ですからもし誘惑や、試みがわたした ちを襲う時、そこに邪悪な力が働いていたとしても、私たちは恐れてはいけないのです。神がいつもそれよりも大きな力でわたしたちの魂を守っていてくださるのであり、わたしたちはいつもこの祈り。「私たちを試みにあわせず悪より救い出したまえ」という祈りを祈ることを許されているからです。そしてこの祈りはサタンと、罪の世に勝利してくださった方の祈りですから、力の無い祈りではありえません。主イエスは私たちに今も語りかけてくださいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。 わたしは既に世に勝っている。」
何より、わたしたちは、勝利者主イエスと共に、十字架の恵みの下に、この祈りを祈ることを許されているのです。すでに罪を赦され、神のものとされた者として、この祈りを祈ることが許されているのです。 私たちは誘惑に敗北することはあるでしょう。何度も同じ罪を犯し、惨めな思いをすることがあるでしょう。しかし、その時には、思い起こしたいのです。わたしたちは十字架の恵みの下にあるのだ。罪の赦し の中にいる。神のものとされている。主イエスは十字架において義を勝ち取り、サタンからわたしたちを贖ってくださった。罪の罪責から解放してくださっただけでなく、罪の力からも解放してくださる。すでに主イエスが勝利してくださった中でわたしたちは戦っているのだ、と。私たちはキリストの一兵士として、何度も敵の銃弾に倒れるかわかりませんが、その度ごとに、十字架を仰げばわたしたちの怪我は癒さ れます。立ち直ることができます。そしてやがて、戦いは終結します。わたしたちの軍の勝利はすでに決まっているのです。わたしたちはその人生の最後まで、主のものであり、主の御翼の陰に守られている。その恵みに立ちつつ、試練や誘惑の中でも、信仰に立ち続けていきたいのです。わたしたちの人生に起こる全ての試みや誘惑において、この祈りが本当に力を発揮し、わたしたちが神の子であり、御国の民であることを確信できますように。試みの中で、主イエスがわたしたちの命の主人として、共に生きてくださっていることを、この祈りを通して知ることができますように。
お祈りをいたします。
天の父なる御神様。全ての罪の力、悪の力からお守りくださることをこの祈りを通して知らされております。どんなときにも、わたしたちがこの祈りを祈り、あなたを信頼していくことを通して信仰を証ししていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン