銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

神の御前に立つ

説教集

更新日:2023年06月10日

2023年6月11日(日)聖霊降臨節第三主日 銀座教会 子どもの日・花の日家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

ユダの手紙24~25節

 本日与えられた主題は「主の祈り」の結びの言葉、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」です。この結びの言葉は、三位一体の神の御名をほめたたえる、神への応答です。このような三位一体の神の御名への賛美は「頌栄」と呼ばれます。
 「主の祈り」について学ぶ最後の日を迎えました。「主の祈り」の結びの言葉は頌栄であること、この頌栄によって、私たちが神の恵みに対して応答する者とされていることをユダの手紙の御言葉からお聞きしたいと思います。
 主イエスが弟子たちに教えた「主の祈り」は、現在では世界中のキリスト教会、キリスト教学校、キリスト教教育の施設などで、年齢を問わず子どもから大人まで祈っています。私たちが祈りを学ぶ時、最初に覚えるのが主の祈りです。私たちの信仰生活における祈りの柱となっています。自由な言葉で祈ることの多い私たちの教会において、自由祈祷を支える土台となる「成文祈祷」が主の祈りです。言葉を越えて世界の人々が神の御前に立ち、神に向かって、心を合わせて、それぞれの言語で祈られているのが「主の祈り」です。
 韓国とインドネシアの教会を訪問したとき、礼拝において主の祈りを祈りました。言葉は分からなくても「主の祈り」だけは心を合わせて祈ることが出来ました。祈っている時に、言葉は違っていても、心を合わせて祈る経験は、信仰によってのみ結ばれた聖霊の交わりではないかと感動したことを忘れられません。その時にも、「主の祈り」には、結びの言葉として、頌栄によって神に応答しました。
 聖書に記されている「主の祈り」と私たちが礼拝で唱える「主の祈り」を比較すると、祈る内容は同じですが聖書には頌栄がないことに気付かされます。教会の成文祈祷である「主の祈り」には、聖書に記されていない「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」と頌栄を付け加えているのです。マタイによる福音書6章にもルカによる福音書11章にも頌栄は記されていません。ではいつ頃から主の祈りに頌栄が付け加えられたのでしょうか。主イエスが弟子たちに主の祈りを教えたあと、主イエスの十字架と復活、主イエスが天に昇られたあと、聖霊降臨日以降、主イエスを救い主として信じる群れが集まり、主の祈りを祈りました。キリスト教会の最も古い文書の一つ、紀元1世紀末の教会の様子が記されている「十二使徒の教訓 ディダケー」という書物があります。この書物の中に記されている「主の祈り」には、「力と栄光とは永遠にあなたのものだからです」と頌栄が付け加えられているのです。主の祈りに頌栄が加えられたのは、プロテスタント教会が宗教改革によって加えたのではなく、初代教会の礼拝において、すでに「主の祈り」を唱えるとき、その最後の結びの言葉として頌栄が付け加えられいたことが分かっています。主イエスが教えてくださった祈りの言葉を思い起こし、神の御名を賛美したのです。
初代教会において主の弟子たちが神に祈る言葉として、頌栄を祈っていたということは、実は弟子たちの悔い改めの印なのです。主イエスを裏切り、主の弟子たちは、バラバラに散らされていました。しかし、バラバラになった弟子たちが復活の主イエスに出会い、主イエスが天に昇られたあと、再び集められました。そこに聖霊なる神が降って、祈る群れの心が神に向けられたのです。主の祈りの最後に神の御前に立って、悔い改めの思いと共に頌栄をもって三位一体の神、すなわち父なる神、子なるイエス、聖霊なる神の御名を賛 美するのです。
初代教会の礼拝に集まった人々は、主の祈りを祈り終えるとき、頌栄によって神の御名を賛美することによって傷ついた心が癒やされていったと思います。ペトロをはじめとして主イエスのすべての弟子たちが、すねに傷を持つ信仰者です。本当ならば、神の御前に立つことなど出来ない弟子たちでした。しかし、復活の主イエスとの出会いによって、主イエスの赦しの御言葉を聞き、主イエス昇天の後、主イエスの愛の言葉、憐れみの言葉を思い起こし、悔い改めと感謝をもって、祈りの最後、復活の主イエスに語りかけるように、頌栄の言葉をもって主の御名を賛美したのです。初代教会の一人一人は、祈る度に、自らの罪を赦される恵みを与えられました。時代を超えて現代の教会に集まる私たちも、祈る度に神の赦しの言葉を思い起こし、癒やされるのです。もう二度と、神に背を向けることがない者として神の御前に立つ信仰者とされるのです。
  頌栄をもって祈りを結ぶことには意味があります。第一に、祈る者の姿勢が神の方に方向転換するのです。主の祈りの六つの祈りを祈って、下を向いたままで頭を上げられないのではまずいのです。神に向かって祈ったあとは、神を見上げるのです。頌栄をもって賛美するということは、祈りの最後に罪ある自分を悔い改め、罪から離れるのです。
 祈ることによって、自分の願いが祈られます。自分の計画が祈られます。しかし、真実に神の御前に立つということは、自分の罪から離れ、自分自身に固執する罪から離れることが大切です。神が私たちを自由にお用いくださるように、自分に固執していた自分自身の罪から離れるのです。自分自身に嫌気がさすときも、自分を自分でほめたたえてしまうときも自分に固執しているのです。良くても悪くても、自分自身に固執しているのが私たちの姿ではないでしょうか。しかし、自分に固執しているとき、私たちは、神を忘れた状態にあることに気付かなければなりません。私たちは、自分自身に固執し続ける罪から離れて、神の御前に立つのです。そのことを経験すること、確認する道が頌栄なのです。
 ユダの手紙を読みました。神の御言葉と愛の御業に感謝して応答する頌栄が記されています。「24 あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、25 わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。」と記されています。
  神の栄光と力をほめたたえます。頌栄は、私たちが神の御前に立つ時に与えられる御言葉です。私たちが、祈るとき、神さまの御前に立って、神に頌栄をもって応答する時、自分自身から離れ、自分自身に固執することなく、神を見上げるのです。
神の御前に立つ時、私たちは神にのみ栄光があること、神の力こそが本当の力であること、神の国を待ち望んでいることを讃美するのです。
  東京神学大学の学長であった大住雄一先生は、高校生時代に既に信仰告白をしていましたが一つの不安をもっていました。マタ 24:13「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」という御言葉を聞いて、自分はそんなこと出来ないのではないかという不安を感じていました。 果たして自分は、最後までキリスト者であり続けることができるだろうか、迫害があっても耐えることが出来るだろうかという不安にかられていました。大住青年は、この不安を一人で悩んだのではなく、いろいろな人に話したようです。そして、彼から打ち明けられて困った教会員や神学生をとおして、教会の牧師にまで伝えられました。その牧師が大住青年に伝えた御言葉から光の道が開けました。大住青年につきまとっていた不安が消えていく道が与えられました。牧師は大住青年にヨハネによる福音書15章「16 あなたがたが わたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」との御言葉を聞くことにな りました。この御言葉によって大住少年は不安から解放されました。かつて大住青年が最後までキリスト者であり続けることができるだろうか、迫害があっても耐えることができるだろうかと不安に悩むただ中では、耐え忍ぶことが出来るかどうかは自分の力だけ、自分を見つめ続けた人間の力の問題であることに気付きました。絶えず主人公は自分でした。自分がどれだけ頑張れるかという自分の頑張りの問題に悩んで、自分の力の限界に立ち止まっていたことに気付かされました。しかし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」というのは、自分が主人公として頑張らなければならないのではなく、耐えることの出来ない 私のために耐え忍んでおられるキリストがおられることが分かったのです。人生の主人公は私ではなく神であることに気付かされたのです。主イエスは「16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とお語りになって、神が任命してくださることに目が向けられました。さらには主イエスが「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」 といってくださり、「友のために命を捨てる、これ以上に大きな愛はない」との御言葉によって、わたしのために命を捨てて下さるお方がおられることに目が開かれたとき、人生の主人公が神であり、神に従う大住青年から不安が消え去りました。
 私たちが「主の祈り」の最後に頌栄をもって祈りを結ぶのは、主イエスこそが私たちの祈りに対して命をささげてまでも愛し抜いて下さるお方であることを知っているから、信じているから、頌栄をもって賛美しないではいられないのです。
 ユダの手紙は、全体を通して信仰のために戦うことの勧めが記されています。教会の中 に異なった考えをもつ異端が紛れ込んで来て、イエス・キリストを否定する状況から与えられた戦いの言葉です。この戦いは、ユダだけが戦っているのではないのです。ユダの手紙は、どんなに戦いの戦況が思わしくなくても十字架の神が戦っておられることを決して忘れないために、頌栄を歌い、救い主を指し示し続けているのです。
 ユダの手紙の戦いは、私たちの信仰生活の戦いでもあります。この戦いを戦い抜くために、キリストから目をそらしてはなりません。神の御前に賛美し続けましょう。